#34 スローライフのために④
家に着き、鍵を開ける。幸い、ノエルはまだ帰っていないようだった。
「……ふぅ」
暗い室内で、大きなため息をつく。
強烈な快楽の後に訪れる、あの独特の虚無感——いわゆる“賢者モード”が私を支配していた。
ノエルは今日も、ギルドで汗を流しているはずだ。
彼がいなければ、私は今頃路頭に迷って、本当にどこかの貴族の愛人として買い叩かれていたかもしれない。
私はベッドの縁に腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げた。
(……ノエルは、今なにしてるんだろ)
初対面のとき、「勇者様の初期サポートを担当している」と言っていた。
でも、それ以上のことは、何も知らない。
(……とにかく、早く着替えよう。この服、汗と結露と……蜜でベタベタだし……)
違和感が胸に引っかかったまま、パジャマ代わりのセクシードレスに着替える。
柔らかな布地が、シャリーさんの指先が残した熱い記憶を優しくなぞるようで、思わず小さな声が漏れそうになる。
それを誤魔化すように、ジャガイモの皮を剥き、肉を切り、じっくりと煮込む。
包丁の規則正しい音が、乱された私のリズムを少しずつ整えていく。
私は必死に、ノエルの喜ぶ顔を想像した。
やがて、部屋中に香ばしいシチューの匂いが立ち込めてきた。
その時、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま戻りました」
ノエルの落ち着いた声。
いつもと変わらないはずなのに、その一言だけで、胸の奥がひくりと揺れる。
「……おかえりなさい」
できるだけ普通に。できるだけ、何もなかったみたいに。
そう思って返した声は、少しだけ遅れてしまった。
「なんだか、今日のルリ様は、その……雰囲気が違って見えます」
ノエルが慌てて視線を泳がせる。 以前の私なら、ここで「やっぱ変だよね!?」とパニックになっていただろう。
私はわざと首を傾げ、シャリーに教わった通り、長い黒髪をさらりと片側に寄せた。
露わになった白いうなじ。そして、ドレスの薄い生地が張り、浮き彫りになる圧倒的な胸の起伏。
胸の主張は激しいけれど、今の私にはそれを武器にする気概はない。
(落ち着け、私……)
テーブルの上には、簡単な夕食が並ぶ。
向かい合って座る。いつもと同じ距離のはずなのに、なぜか少し近く感じる。
「……それでね。今日はギルドでクエストを受けてきたんだ」
私はあえて、ノエルの目を見ずに、スプーンでシチューをゆっくりと混ぜながら言った。
「……クエスト、ですか。……お一人で?」
ノエルの声に、明らかな動揺が混じる。
「うん。危険物の運搬。……階段でちょっと死にそうになったけど、なんとか達成して、金貨をもらえたよ。明日もまた、受注しようと思うんだ」
顔を上げ、潤んだ瞳でじっとノエルを見つめる。以前のような「誘惑してやるぞー!」という鼻息の荒い気合ではない。ただ、寂しさと自立を天秤にかけるような、危うい視線。
「……そうですか。ルリ様が、ご自分で……」
ノエルはスプーンを止め、俯いた。
その表情には、私の成長を喜ぶサポート役としての顔と、どこか取り残されたような男としての顔が混在している。
「……ノエル。私、いつまでも無職でいるわけにはいかないから。この街で生きていくための……足場を作らなきゃって」
「ルリ様。……あまり、無理はなさらないでくださいね」
「うん、私は大丈夫だよ。ありがとう」
私はわざと小さく溜息をつき、テーブルに肘をついた。 重力に従って溢れそうになる胸の質量。これまでは「見て!」という押し付けだった。
でも今は、重みに耐えかねて預けてしまったような、無防備な隙。
「ノエルは、どうだったの?」
核心を突く。彼は、間違いなく私に隠していることがある。
初対面のときに、勇者のサポートを仕事にしていると語ったノエル。
胸の発育が良い女性は家柄も高いとされていることを教えてくれたノエル。
その後、あっさりと勇者登録を却下された私。
ノエルがなぜ私に手を出さなかったのか、今の私には何となくわかる気がした。
きっと彼にとっての私は、“元々恵まれた環境にいたのに、勇者になれなかった女”で、いわば、気を遣うべき相手でしかない。
……そういうことに、しておいた方が楽だ。
優しいから距離を取っている。
可哀想だから手を出さない。
そう思っていれば、変に期待しなくて済むし、傷つかなくて済む。
(……ほんとに、それだけ?)
胸の奥に引っかかる違和感を、私は小さく飲み込んだ。
「特に変わりはありません。いつも通りギルドの仕事を」
そんな優しいノエルは、私に対して“優しい嘘”をついている。
(“いつも通り”、か)
その一言が、妙に引っかかる。
少しだけ間を置いて、私は続けた。
「ノエルって、勇者のサポートが仕事でしょ?」
「はい。そうですね」
「私、勇者じゃないよね?」
私の問いに、ノエルは一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とした。




