第487話
(……ここは何処?)
狭くて、真っ暗で何も見えない。
「******!」
……!
何を言っているかは分からないけれど。耳を掠めただけで、反射的に身が竦む様な怒号。
(どこからっ?!)
辺りを見回せば、暗闇の中に一筋の光が差し込んでいるのが見えて。
僕は恐る恐るそれに近付いて行って、外を覗き見る。
「このアマが!面倒掛けさせやがって!」
(っ……!)
僕は思わず光から距離を取ると、飛び出しそうになった悲鳴を両手で押さえ込んだ。
「親戚の家を転々としてれば、逃げ切れると思ったか?!」
それでも、先程までが嘘の様に、ハッキリと響いて来るアイツの怒号。
「警察もこんな紙切れ押し付けて来やがって……。お陰でこんなに時間が掛かっちまった、よっ!」
「うぐっ!」
(お母さんの声だ!)
呻き声だけでも分かってしまった。
それぐらいに、よく聞かされた声だから。
僕は再び光に駆け寄ると、その隙間から外の様子を覗き見る。
「でも残念だったなぁ?親戚も長くは家に置いてくんねぇし、警察もこんな紙っぺらを渡して、はい、終了。誰もお前を助けてくれる奴なんざ、居なかった訳だ」
そこには、あの男に片足で動けない様、床の上に押さえつけられた母さんが、横向きで倒れ込んでいた。
「終いにはあのガキにまで逃げらっちまったんだろ……?可哀想なこっててぇ」
痛ぶる笑みを浮かべる男の前に、違う!と言って飛び出して行きたかった。
母さんを守って上げたかった。
なのにどうして。体が動かない。
(そうだ、思い出した……)
ここは母さんがやっとの想いで探し出してくれた、二人だけで暮らせるアパート。
ボロボロで、壁も薄いけど、誰にも邪魔されない。誰の顔色も窺わなくていい、ボクとママだけのお家。
お母さんが帰って来るのはいつも遅かったけれど、引っ越さなくて良くなったボクにもお友達ができる様になって。
それを母さんは自分の事の様に喜んでくれた。
自分の家になったお陰で、家の中の物を自由に触れる様になった僕は、少しでも母さんが家でゆっくり出来る様に、家事をしてみたりもして。
そんなある日、家の玄関から、カチャリと、鍵の開く音がした。
いくら平穏な日々を過ごしていても、テレビが点いていたって、僕も母さんも、その音だけは聞き逃さなかった。
「これ持って、押し入れに入っててっ。喋らなくていいからっ」
声を殺して。それでいて、最大限に焦った母さんが、警察に繋がった携帯を押し付けて来たのを今でも覚えている。
あの後、結局僕は……。
「お母さんを虐めるなぁ!」
身動き一つ取れなかった僕を置いて、布団を持ったボクが押し入れから勢い良く飛び出して行く。
それが、外の光以上に眩しくて。
「なんだっ?!隠れてやがったのか!このクソガキッ!」
そう叫ぶ男を無視して、布団ごと母さんに覆い被さるボク。
勿論無防備な本人はボコボコだ。あの男は子どもだろうと容赦はしないし、その手に握られたハンガーの様な物がひしゃげて折れてしまう位に、全力でボコボコにされている。
当然ボクは血だらけになって。
終いには、男に脇腹を蹴り飛ばされて、部屋の壁にぶつかって、動かなくなる。
「はぁ、はぁ、ざまぁ、無いぜ」
僕と男の声が重なった気がして、とても恐ろしくなった。
「や、やめて……。もう、やめて上げてください……」
布団の中から顔を出した母さんが、ボロボロの体で這いつくばりながら、それでみボクに覆い被さる。
「んなら、二人まとめて殺してやんよ!」
依存先として僕達を探しに来たのに、それでは意味がないじゃないかなんて、そんな理屈、この男には通じない。
『あの子、死んだらしいよー』
『えー!やば!絶対アイツらのせいじゃん!』
『だよねー。最近のは流石にやり過ぎだったっしょ』
『だよねだよねー』
『って、虐めを遠目で見て笑ってた女子達が、他人事の様に話しててよ。気分が悪いの何のって』
友人との会話の中でポロリと溢れでてしまった、他人の死を穢す様な、自己保身の一言。
『……それ、今のお前と、なんか違うのか?』
『俺は笑ってなんて』
『でも、友達だったんだろ?!』
『…………』
『……わりぃ。そう言う意味じゃ、俺も同罪だな』
違う。こいつは、俺とは違って、アイツとは別のクラスで……。それに俺なんかよりもずっと、虐めを止めようと、アイツを支えようと、気に掛けていた。
結局、その友人も学校には来なくなって。虐めを行っていた奴と、虐めを笑っていた奴と、何もしなかった俺みたいな奴だけが、何事もなかったかの様に、学校を卒業した。
「俺より弱いくせに、逆らうんじゃねぇよ!」
悔しいが、それが真理だった。
弱いのに、逆らってはいけない。生きていたいなら強者に従順で無ければならない。
「大人しく、俺の言う事だけ聞いて、金と体と食事だけ出しとけば良かったんだよっ!」
布団から這い出た母さんも、男に蹴り飛ばされ、二人仲良く部屋の隅に転がった。
「ねぇ……。ねぇ……。返事、して」
そこまでされてもボクの元へ手を伸ばす母さん。
「本当にムカつくなぁ!お前ら!」
無視された形となった男の怒りは更に激しくなり。
⦅ゴスッ!ゴスッゴスッゴスッ!⦆
到底、人から鳴って良いモノではない鈍い音が、幾度と無く部屋に鳴り響く。
頭から血が出て、腕が曲がっちゃいけない方向に曲がって……。
(死んじゃう……)
お母さんが。
(本当に死んじゃう……)
ボクが。
「「助けて……」」
ボロボロになったボクと母さんが、それぞれ、まだ動く方の腕を僕へと伸ばしてくる。
「お母さんを「この子を」助けて……」
僕は、警察も市役所の人も先生も、親戚の人だって、誰一人信頼して居なかった。
(それでも今日は。この日だけは警察が来てくれるはずなんだ!
携帯から聞こえる怒号と、周囲の家の通報で、開いたままの玄関から、警察が入って来て、僕達を保護してくれる筈なんだ!)
普段なら信用はおろか、大っ嫌いで、避けてさえいる他人を。力を持った第三者の存在を今日だけは欲していた。
そう。全く信じていなかった大人の助けを、あの日の僕は押し入れの中で、じっと待っていたのだ。
動かなくなった母さんに怯えたあの男が家を飛び出すまで、ずっと。
その後、母さんは一命を取り留めたけど、脳と、それに付随した体の一部が不自由になって。
退院した母さんは、あの男が檻の中に入った事と、行政からの支援が受けられる様になった事を心底喜んで居て。
……そんな筈ないのに。
フリでも、そんな事で喜んで欲しく無かったのに。
僕はどんな表情で「良かったね」と、返したのだろうか。
「うわぁぁ!!」
気付けば僕も押し入れの中にあった布団を持って駆け出していた。
布団で二人を包み込むと、ひたすらに耐える。
痛いはずなのに、痛くなかった。
二人が痛めつけられている姿を見る方が、よっぽど苦しかった。
(守らなきゃ……。僕が守らなきゃ……)
きっと、これが全ての始まり。
僕が終わってしまった。俺になって、全てから逃げる様になってしまった、終わりの始まりの日。
あの日できなかった事。
ずっと後悔していた事。
やり直せるなら。守り切れるなら、死んだって良い。
僕の死が男の興を削ぐなら、それもまた一興。
勿論、母さんはそんな事、望まないだろうが。
そんな事、身を挺して僕を守り切った母さんに、言われる筋合いは無いだろう。
……だから僕は。例えこれが夢で、過去の自分が救われなくても。目覚めて忘れてしまう様な些細な夢でも。
僕は僕の満足の為に、死んで目覚めるまで、この苦痛に耐え続ける事を誓った。




