きっと、それだけ。
数日後。
大学の講義を終えたいろはは、駅前を歩いていた。
「…………」
足を止める。
目の前には、見覚えのある……。
佐伯さんが働いている店。
「…………」
別に、私は……。
佐伯さんに会いに来たわけではない。
おすすめを教えてもらう。
そう約束したから。
「…………」
いろはは店の看板を見上げる。
ちゃんと理由がある。
「…………」
少しだけ、緊張する。
いろはは店の扉を開けた。
「いらっしゃい」
「…………」
聞き覚えのない声だった。
店内へ視線を向ける。
カウンターの向こうに立っている男性と目が合った。
「一人?」
「はい」
「好きな席どうぞ」
「ありがとうございます」
いろはは小さく頭を下げ、店内を見渡しながら席へ向かった。
椅子に腰を下ろし、メニューを開く。
「…………」
おすすめ……。
あれ? そういえば。
聞いていなかった。
「何か探してる?」
「!」
顔を上げると、先ほどの男性がこちらを見ていた。
「……おすすめを」
「おすすめ?」
「はい」
「甘いもの?」
「……はい」
男性が少し考える。
「これなんか人気だけど」
「いえ、その……」
「?」
「佐伯さんが……」
「湊?」
「…………」
「湊……。どういうご関係でしょうか」
「俺と湊?」
「はい」
男性は少し考える。
「まあ……雇用関係かな」
「雇用……」
「俺、ここのマスターだから」
「あ……」
「湊はうちのバイト」
「……失礼いたしました」
「湊なら――」
「マスター、これどこ置けばいいですか?」
「…………」
聞き覚えのある声。
いろはは振り返った。
「あ」
「…………」
湊と目が合う。
「水瀬さん?」
「…………」
いたんだ……。
なぜか。
それだけで、少し安心した。
「来てくれたんですね」
「……はい」
「もしかして、あれ?」
「…………」
いろはは小さく頷いた。
「教えていただく約束でしたので」
「あ、覚えててくれたんだ」
「もちろんです」
「ちょっと待っててください」
「はい」
湊は嬉しそうにカウンターの奥へ戻っていった。
「…………」
いろはは、その背中を見送る。
◇
しばらくすると。
「お待たせしました」
湊が皿を持ってやってくる。
「これです」
「…………」
いろはは目の前に置かれた皿を見る。
「これが……」
「はい。俺のおすすめです」
いろはは一口食べる。
「…………」
「どうです?」
「……美味しいです」
「よかった」
湊が笑った。
「結構自信あったんですよ」
「確かに、お上げになるだけのことはありますね」
「まだそれ言います?」
「ふふっ」
「…………」
また。
自然に笑っていた。
けれど。
今日は、そんな自分を受け入れられた。
「じゃあ、俺、仕事戻りますね」
「はい」
「あ」
「?」
「また来てください」
「…………」
また。
「はい」
いろはは小さく頷いた。
◇
店を出て、いろはは駅へ向かって歩いていた。
「…………」
おすすめは、美味しかった。
だから。
また来よう。
「…………」
いろはの足が、ほんの少し止まった。
私、もう次のことを。
考えている。
「…………」
美味しかったから。
きっと、それだけ。
◇
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
会う口実なら、いくらでも。
けれど現実の私は……。
理由なんて必要ないことを、まだ知らない。




