もう少しだけ
翌朝。
いろはは境内を掃いていた。
「…………」
箒を動かす。
「…………」
入口を見る。
「…………」
また、箒を動かす。
「おはようございます」
「!」
聞き慣れた声。
いろはは振り返った。
ランニングウェア姿の湊が、いつものように立っていた。
「おはようございます、水瀬さん」
「……おはようございます」
「…………」
来た。
その瞬間。
胸の奥が、ほんの少し軽くなった。
「…………」
昨日から続く、この不思議な感覚。
その正体が。
少しだけ分かったような気がした。
「お早いですね」
「え?」
「いつもより」
「ああ」
湊が腕時計を見る。
「今日はちょっと早く目が覚めたので」
「そうですか」
「はい」
「…………」
早く来た。
「…………」
……だから?
けれど。
少しだけ得をしたような気がする。
湊はいつものように拝殿へ向かう。
「…………」
いろはは、その背中を見送った。
昨日は……。
気づけば、目で追っていた。
今日は……。
「…………」
自らの意思で見ている。
まただ……。
いろはは慌てて箒へ視線を戻した。
まだ現実の私には、早すぎたらしい。
◇
参拝を終えた湊が、ゆっくりこちらへ向かってくる。
「…………」
いろはは箒を動かしながら、その姿をちらりと見た。
「そういえば、水瀬さん」
「はい?」
「昨日言ってたおすすめの話」
「!」
「今度店に来たとき、何がいいかなって考えてたんですけど」
「…………」
考えていた?
「甘いもの、好きですか?」
「甘いもの……」
「はい」
いろはは少し考える。
「嫌いではありません」
「じゃあ、ちょうどいいかも」
「ちょうどいい?」
「それは来たときのお楽しみで」
「…………」
お楽しみ。
また、あの店に行く理由ができた。
「…………」
佐伯さんのいる店に。
「……分かりました」
「結構自信あるんですよ」
「では、期待しておきます」
「あ、ハードル上がった」
「佐伯さんがお上げになったのでは?」
「確かに」
「ふふっ」
「…………」
いろはの口元から、小さく笑いがこぼれた。
「……何でしょうか」
湊が、こちらを見ている。
「いや」
湊が笑う。
「昨日と同じだなって」
「?」
「よく笑うほうの水瀬さん」
「…………」
また。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「……そうですか」
「はい」
それから。
二人は、お互いのことを少しだけ話した。
大学のこと。
アルバイトのこと。
神社のこと。
ただの日常の話。
なのに。
不思議と楽しかった。
むしろ。
湊が腕時計を見る。
「じゃあ、そろそろ行きます」
「…………」
「大学あるので」
「そうですか」
「はい」
いつものこと。
毎朝、参拝を終えれば帰っていく。
今日だって、それだけ。
「じゃあ、また明日」
「…………」
湊が背を向ける。
その瞬間。
「……もう帰るのですか?」
湊の足が止まった。
「え?」
「…………」
いろはも止まった。
今。
私は何を言った?
「水瀬さん?」
「…………」
もう?
いろはは瞬きをした。
来るのを待っていた。
来たら、嬉しかった。
話している時間は、楽しかった。
そして今。
帰ってしまうことが。
少しだけ。
寂しい。
「…………」
そこまで考えて。
いろはの頬が、じわりと熱を持った。
「……いえ」
いろはは視線を逸らした。
「いつもよりお早くいらしたので」
「はい」
「ですから……」
「?」
「…………」
ですから?
何だというのだろう。
早く来たのだから、早く帰る。
何らおかしくはない。
むしろ。
そっか……私。
「……なんでもありません」
「そうですか?」
「はい」
「じゃあ……また明日」
「…………」
「はい」
いろはは小さく笑った。
「また明日」
湊が走り出す。
いろはは、その背中を見送った。
「…………」
もう少し。
もう少しだけ。
話していたかった。
◇
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
引き止め方なんて、いくらでも妄想してきた。
けれど今の私には……。
「もう帰るのですか?」
この言葉が精一杯。




