また、明日
翌朝。
境内には、いつもと変わらない朝が訪れていた。
石畳を掃く箒の音。
木々の隙間から差し込む朝日。
まだ参拝客もまばらで、境内には静かな時間が流れている。
一人を除いては……。
いろはは箒を動かしながら、ふと顔を上げた。
「…………」
誰もいない。
再び、箒を動かす。
数分後。
「…………」
また、顔を上げる。
確かに誰もいない。
「…………」
おかしい。
あれ……?
何もおかしくはない。
いつもの朝だ。
ただ少し、参拝客が少ないだけ。
いろはは再び掃除へ戻った。
昨日。
偶然入った店で、佐伯さんに会った。
ただ、それだけ。
働いている姿を見た。
少し話をした。
そして帰り際に、
『じゃあ、また明日』
「…………」
箒が止まった。
また明日。
別に、約束をしたわけではない。
彼は毎朝この神社へ来ている。
だから今日も来る。
ただ、それだけの話だ。
「…………」
いろはは境内の入口を見る。
やっぱり……いない。
「何をしているのですか、私は」
小さく呟き、箒を動かした。
別に待っているわけではない。
毎朝来る彼が、まだ来ないだけ。
私はそれを確認している。
そう、これは……。
確認?
なぜ私が?
「…………」
いろはは再び、入口を見た。
やはり、いない。
「遅いなぁ……」
口にして。
いろはの手が止まった。
「…………」
遅い?
そもそも、正確な時間を聞いたことなどない。
いつもこのくらい。
それだけのはずなのに。
「おはようございます」
「!」
聞き慣れた声。
いろはは振り返った。
ランニングウェア姿の湊が、いつものように立っていた。
「おはようございます、水瀬さん」
「…………」
「水瀬さん?」
「……おはようございます」
いろはは小さく頭を下げた。
いつもと同じ。
昨日見た制服姿ではない。
神社へ来る、私の知っている佐伯湊。
なのに。
昨日までと、少し違って見えた。
「どうかしました?」
「いいえ」
「そうですか?」
「はい」
「ならいいですけど」
湊はそう言って、拝殿へ向かう。
「…………」
気づくと、視線の先には湊がいた。
「…………」
いろはは慌てて視線を箒へ戻す。
また……?
「…………」
そんな困惑の中、参拝を終えた湊が戻ってきた。
「今日も暑くなりそうですね」
「そうですね」
「昨日も暑かったですし」
「はい」
「…………」
「…………」
会話が途切れる。
普段なら、何とも思わない。
けれど今日は。
「…………」
何か……。
話したほうがいいのだろうか。
昨日までなら、そんなことは考えなかった。
佐伯さんが話しかける。
私が答える。
それでよかった。
なのに今日は。
もう少しだけ。
知りたい。
「佐伯さん」
「はい?」
えっ……呼んだ?
「…………」
呼んでしまった。
「どうしました?」
「…………」
こんな時、普通は何を聞けばいいのだろう。
好きな食べ物?
趣味?
休日の過ごし方?
女性の好み?
「…………」
脳裏に、結衣の薄笑いが浮かんだ。
小宮さん……!
いろはは即座に脳内から削除した。
「水瀬さん?」
「……あの……昨日」
「昨日?」
「お仕事をされていましたね」
「はい」
当然すぎる。
これは知っている。
見たのだから。
「…………」
「…………」
「大変そうでした」
「ああ」
湊が笑った。
「結構忙しいんですよ、あそこ」
「そうなのですね」
「でも楽しいですよ」
「楽しい?」
「はい。みんないい人だし」
「…………」
知らなかった。
「大学に入ってからずっと働いてるんです」
「そんなに長く?」
「なんだかんだ辞めるタイミングなくて」
湊が苦笑する。
「就職したら辞めることになると思いますけど」
「…………」
就職。
その言葉に、いろはは少しだけ引っかかった。
「そう……ですよね」
「はい」
「…………」
就職すれば。
生活も変わる。
毎朝ここへ来ることも。
いつか。
「水瀬さん?」
「いいえ。なんでもありません」
今はまだ、考えたくなかった。
「そういえば」
湊が言った。
「昨日の友達」
「小宮さんですか?」
「はい。仲いいんですね」
「幼い頃からの友人です」
「へえ」
「……何か?」
「いや」
湊が少し笑った。
「水瀬さん、ああいう感じなんだなって」
「…………」
「あっ」
湊が慌てる。
「悪い意味じゃないですよ」
「では、どういう意味でしょうか」
「神社にいるときと、ちょっと違うというか」
「…………」
「昨日の水瀬さん、いつもよりよく笑ってたので」
「…………」
いろはは瞬きをした。
「私が?」
「はい」
「…………」
自覚はなかった。
「神社だと、いつもしっかりしてるじゃないですか」
「巫女ですので」
「確かに」
湊が笑う。
「でも昨日の感じも、いいなって思いました」
「…………」
箒を握る指に、少しだけ力が入った。
「……そうですか」
「はい」
「…………」
昨日の私。
巫女ではない私。
結衣にからかわれて。
慌てて。
笑って。
そんな私を、この人は見てくれていた……。
「佐伯さん」
「はい?」
「…………」
いろはは少しだけ勇気を出した。
「昨日のお話ですが」
「昨日?」
「おすすめの……」
「あ」
湊が思い出したように笑った。
「あれ、途中でしたね」
「はい」
「今度来たら、俺のおすすめ教えますよ」
「…………」
今度。
また。
「では」
いろははほんの少しだけ口元を緩めた。
「そのときは、お願いします」
「はい」
湊が笑う。
「じゃあ、また明日」
「…………」
また明日。
昨日と同じ言葉。
けれど今日は。
「はい」
いろははまっすぐ湊を見た。
「また明日」
湊が走り去っていく。
いろはは、その背中を見送った。
◇
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
けれど現実では。
ただ……明日の朝が待ち遠しい。




