私の知らない佐伯さん
「佐伯さん?」
その隣で。
結衣がゆっくりと、いろはを見た。
「…………」
そして。
にやりと笑った。
◇
「水瀬さん……ですよね?」
「……はい」
湊はいろはを見たまま、少しだけ首を傾げた。
「なんか、雰囲気違いますね」
「そうでしょうか」
「いつも巫女さんの格好だから」
「それは……そうですね」
白いブラウス。
淡い色のロングスカート。
後ろで緩くまとめた黒髪。
いろはは自分の服装へ視線を落とした。
別に。
なんてことのない、普通の格好だ。
「私服、初めて見ました」
「神社で私服を着ることはありませんので」
「ですよね」
湊が笑う。
「似合ってます」
「…………」
「水瀬さん?」
「……ありがとうございます」
いろはは少しだけ視線を逸らした。
そんな彼女の隣で。
あの結衣が黙っている。
それが、何より怖かった。
「いろは」
「なんですか」
「この人?」
「こ、小宮さ……」
「毎朝来る人」
「小宮さん!」
「え?」
湊がいろはを見る。
「毎朝来る人って……俺?」
「…………」
「確かに毎朝行ってるけど」
「…………」
なぜ自分で肯定するのだろう。
「そうです」
「やっぱり」
「やっぱり、とは?」
「いや、だって」
結衣は湊を上から下まで見る。
「なるほどなあって」
「何がですか」
「別に?」
「先ほどからそればかりですね」
「そう?」
「そうです」
いろはは小さく息を吐いた。
「あ、すみません。仕事中ですよね」
「そうでした」
湊も我に返ったように姿勢を正した。
「二名様ですね」
「はい」
「こちらへどうぞ」
急に店員へ戻った。
「…………」
いろはは、その背中を見つめる。
「いろは」
「なんですか」
「顔」
「私の顔が何か?」
「なんでもない」
「でしたら呼ばないでください」
「はいはい」
案内された席へ向かう。
その途中。
「湊、三番お願い」
「はい!」
「…………」
いろはの足が、ほんの少し止まった。
湊。
当然だ。
名前なのだから。
職場の人間が名前で呼ぶことなど、何もおかしくない。
それなのに。
「いろは?」
「……なんでもありません」
席につく。
いろははメニューを開いた。
「ふーん」
結衣が口元を緩める。
「なんですか」
「湊っていうんだ」
「…………」
「名前」
「知っています」
「知ってるんだ」
「以前、伺いましたから」
「へえ」
「なんですか」
「別に?」
「…………」
今日だけで何度目だろう。
いろははメニューで顔を隠した。
◇
「ご注文はお決まりですか?」
しばらくして、湊がテーブルへやってきた。
「私はこのパンケーキ」
「かしこまりました」
「いろはは?」
「私は紅茶を」
「え、それだけ?」
「先ほどケーキをいただいたばかりなので」
「私は食べるけど」
「それは存じております」
「じゃあ紅茶一つで」
「かしこまりました」
湊が伝票へ書き込む。
「水瀬さん、甘いもの苦手なんですか?」
「いえ。好きですよ」
「そうなんですね」
「はい」
「じゃあ今度、ここのおすすめで――」
「注文」
奥から声が飛んできた。
「あ」
湊が我に返る。
「すみません」
そう返してから、いろはへ向き直る。
「少々お待ちください」
その声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
「はい」
湊が離れていく。
「…………」
いろははその背中を目で追った。
注文を取る。
料理を運ぶ。
客に呼ばれれば笑顔で応える。
同僚と言葉を交わしながら、忙しそうに店内を歩いている。
いつものランニングウェアではない。
手を合わせてもいない。
願い事もしていない。
当たり前なのに。
どこか不思議だった。
「めっちゃ見てるじゃん」
「見ていません」
「見てたよ」
「店員さんが忙しそうだと思っただけです」
「店員さんねえ」
「なんですか」
「佐伯さんじゃなくて?」
「…………」
いろはは紅茶へ視線を落とした。
「いろはって分かりやすいね」
「以前も聞きました」
「自覚ない?」
「ありません」
「だろうね」
「失礼ですね」
結衣は楽しそうにパンケーキを切った。
◇
「湊」
「ん?」
カウンターへ戻った湊に、同僚の男が声をかけた。
「さっきの子、知り合い?」
「水瀬さん?」
「黒髪の子」
「ああ」
湊は一度だけ、いろはの席を見る。
「毎朝行ってる神社の巫女さん」
「巫女?」
「うん」
「へえ」
同僚もいろはを見る。
「かわいいじゃん」
「…………」
「何?」
「いや」
「彼女?」
「違う違う」
湊はすぐに否定した。
「ただの……」
そこで少しだけ止まる。
参拝者と巫女。
それだけだ。
「神社の人」
「なんだそれ」
「いや、他に言い方なくない?」
「知り合いでいいだろ」
「ああ。知り合い」
「毎朝会う知り合い?」
「そう」
「へえ」
「何だよ」
「別に」
「その顔やめろ」
湊は苦笑しながら、トレーを手に取った。
◇
「ごちそうさまでした」
「美味しかった」
「それは何よりです」
「なんでいろはが言うの?」
「なんとなくです」
二人が席を立つ。
レジにいた湊がこちらに気づいた。
「あ、水瀬さん」
「はい」
「もう帰るんですか?」
「はい」
「そうですか」
「今日は驚きました」
「俺もです」
湊が笑う。
「まさか水瀬さんが来るとは思わなかった」
「私も、佐伯さんがこちらで働いているとは思いませんでした」
「お互い様ですね」
「そうですね」
「…………」
「…………」
一瞬。
会話が途切れる。
「じゃあ」
先に口を開いたのは湊だった。
「明日も神社行きます」
「…………」
明日も。
その言葉が、不思議と耳に残った。
「はい」
「いつもの時間くらいに」
「分かりました」
「じゃあ、また明日」
「…………」
いろはは小さく笑った。
「また明日」
店を出る。
扉のベルが鳴った。
◇
「いい人じゃん」
店を出てしばらくして。
結衣が突然そう言った。
いろはは一拍置いて、首を傾げた。
「私のことでしょうか」
「佐伯さん」
「……ですよね」
「へえ」
「なんですか」
「素直に認めるんだと思って」
いろははわずかに俯き、唇を尖らせた。
「良い方であることと、先ほどのお話は別です」
なぜか、頬が少し熱かった。
「先ほど?」
「…………」
「好きかどうか?」
「…………」
いろはは答えられなかった。
「いろは?」
「違います」
「遅っ」
「違います」
「さっきは即答だったのに」
「…………」
「いろは」
「なんですか」
「顔」
「もう、その手には乗りません」
「何も言ってないけど」
「…………」
いろはは崩れかけた表情を隠すように、足早に歩いた。
「あ、逃げた」
「逃げておりません」
「待ってよ」
「待ちません」
結衣が笑いながら追いかけてくる。
佐伯湊。
毎朝、神社へやってくる人。
就職活動中。
ランニングが日課。
少し変わっていて。
よく笑う。
それくらいは知っている。
でも今日。
知らない佐伯湊を、たくさん見た。
働いている姿。
同僚と話す姿。
自分の知らない場所で笑っている姿。
「…………」
知らないことが、まだたくさんある。
◇
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
彼のことなら、何だって分かる。
けれど現実は、知らないことばかり。
もう少しだけ、知りたいと思った。




