巫女の休日
翌朝。
午前七時十分。
「お願いします!」
二礼二拍手。
目を閉じる。
そして一礼。
「……よし」
佐伯湊は満足そうに頷いた。
「今日は声に出されるのですね」
「え?」
聞き慣れた声に、湊が振り返る。
箒を手にしたいろはが立っていた。
「いや、『お願いします』くらいならいいかなって」
「何をお願いしたのかまで叫ばなければ、よろしいかと」
「成長しました」
「成長なのでしょうか……」
いろはは小さく笑った。
いつもの朝。
いつもの神社。
そして。
いつもの彼。
「最終面接の日程、決まりました」
「本当ですか?」
「来週の金曜日です」
「来週の……金曜日」
「はい」
「そうですか……」
いろはは、その日付を頭の中でもう一度繰り返した。
「緊張するなあ」
「まだ一週間ありますよ?」
「俺の場合、一週間前から面接が始まるんで」
「それでは一週間、ずっと緊張なさるおつもりですか?」
「たぶん」
「お疲れになってしまいますよ」
「ですよね」
二人で笑う。
「では、今日はバイトなので」
「アルバイトをされているのですか?」
「はい」
いろはが少し目を丸くした。
「意外ですか?」
「いえ。ただ、初めて伺いましたので」
「大学と就活とバイト。ちゃんと大学生してますよ」
「それは何よりです」
「じゃ、行ってきます」
「はい。お気をつけて」
湊が鳥居へ向かっていく。
「佐伯さん」
「はい?」
「……最終面接」
いろはは一瞬だけ言葉を止めた。
「良いご縁になりますように」
「ありがとうございます」
湊は笑って、石段を下りていった。
「…………」
いろははその背中を見送る。
来週の金曜日。
「…………」
箒を動かしながら、もう一度頭の中で繰り返す。
忘れないように。
ただ、それだけだった。
◇
その日の午後。
「遅い」
「申し訳ありません」
「五分」
「ですから、申し訳ありません」
「いろはが五分も遅刻するなんて珍しいね」
「少々、支度に時間がかかりまして」
「ふーん」
「……なんですか」
「別に?」
「その顔は何か言いたそうですね」
「何も言ってないって」
駅前。
いろはは友人の小宮結衣と並んで歩いていた。
白いブラウスに淡い色のロングスカート。
腰まで伸びた黒髪は、今日は後ろで緩くまとめている。
巫女装束ではない。
箒も持っていない。
今ここにいるのは、水瀬神社の巫女ではなく。
二十歳の、ごく普通の女子大学生――
「あっ」
いろはが突然立ち止まった。
「どうしたの?」
「…………」
視線の先。
店頭に大きなポスターが貼られていた。
五人組男性アイドルグループ。
その中央。
いろはの視線が、一人の男性に吸い寄せられている。
「新しいやつ出たんだ」
「…………」
「いろは?」
「知っています」
「そうなの?」
「本日発売です」
「詳しいね」
「昨日、公式から告知されていましたので」
「へえ」
「正確には昨日の午後八時です」
「そこまで聞いてない」
「限定特典が三種類あります」
「もっと聞いてない」
いろはは店へ向かう。
「ちょっと待って。入るの?」
「何か問題でも?」
「今日カフェ行くんじゃなかった?」
「行きます」
「じゃあ――」
「その前に寄ります」
迷いがない。
先ほどまでのゆったりした歩調はどこへ行ったのか。
結衣はその背中を見て、小さく息を吐いた。
「神社にいるときもこれなら面白いのに」
「何かおっしゃいましたか?」
「何も」
「そうですか」
十分後。
いろはは一枚のアクリルスタンドを手にしていた。
「それ、持ってなかった?」
「持っています」
「じゃあなんで買ったの?」
「衣装が違います」
「同じ人じゃん」
「違います」
「何が?」
「衣装が」
「…………」
「それに、こちらは今回限定の――」
「分かった。分かったから」
「まだ説明の途中ですが」
「説明されてもたぶん分かんない」
「そうですか……」
少し残念そうだった。
◇
「それで?」
「何がですか?」
「最近どうなの?」
カフェのテーブル。
いろはは紅茶のカップを持ち上げた。
「質問が曖昧です」
「恋愛」
「ああ……」
いろはは窓の外を見ながら、小さく息をついた。
「実は今、三人の方から言い寄られていまして……」
「…………」
「モテすぎるのも、罰が当たりそうです」
「神様も妄想までは管轄してないと思うよ」
「妄想ではありません」
「じゃあ三人の名前は?」
「…………」
「全員アイドルでしょ」
「…………」
「図星じゃん」
「ですが、三人とも私への想いは本物です」
「いろはの頭の中ではね」
「…………」
いろはは静かに紅茶を飲んだ。
「で、現実は?」
「現実?」
「本物の男の人」
「……先ほどから、随分と失礼ですね」
「だって全員アイドルでしょ」
「だからといって、私の恋愛を否定する理由にはなりません」
「恋愛じゃなくて妄想ね」
「恋愛です」
「妄想です」
「恋愛です」
「はいはい」
結衣は慣れたようにストローをくるくると回した。
「じゃあ、実際に会ったことある男の人は?」
「…………」
「大学とか」
「おりません」
「バイト先とか」
「アルバイトはしておりません」
「じゃあ神社」
「神社?」
「若い男の人、来ないの?」
「…………」
紅茶を飲もうとしていた手が、ほんの少し止まった。
毎朝。
七時過ぎ。
ランニングウェア。
就職活動中。
そして、あの言葉。
『だったら、これから決めればいいんじゃないですか?』
「…………」
いろははカップを置いた。
「いるんだ」
「え?」
「今、誰か思い浮かべたでしょ」
「思い浮かべておりません」
「間があった」
「ありません」
「あったよ」
「ありません」
「誰?」
「誰もおりません」
「怪しい」
「何がですか」
「顔」
「私の顔はいつも通りです」
「耳、赤いよ」
「…………」
いろはは両手で耳を隠した。
「ほら」
「店内が少々暑いだけです」
「涼しいけど」
「私は暑いのです」
「へえ」
「なんですか」
「別に?」
「その顔、やめてください」
結衣が笑う。
いろはは紅茶へ視線を落とした。
「……本当に、そういう方ではありませんから」
「どういう人?」
「ですから……」
言葉に詰まる。
「ただの参拝者です」
「男?」
「……男性です」
「歳は?」
「私より少し上です」
「イケメン?」
「…………」
「また止まった」
「質問が不躾です」
「イケメンなんだ」
「そのようなことは申しておりません」
「でも否定もしない」
「…………」
面倒なことになった。
いろははそう判断した。
「その人、よく来るの?」
「……最近は」
「どれくらい?」
「…………毎朝」
「毎朝!?」
「就職祈願です」
「いや、毎朝って……」
「何か問題でも?」
「いや……別に」
「でしたら、よろしいでしょう」
「名前は?」
「なぜそこまでお答えしなければならないのですか」
「いいじゃん」
「よくありません」
「じゃあ好き?」
「違います」
今度は即答できた。
「…………」
「何ですか」
「いや」
「違いますから」
「二回言った」
「大事なことです」
「ふーん」
「…………」
結衣がストローを咥えながら、こちらを見ている。
非常に居心地が悪い。
好き。
そんなはずはない。
そもそも、自分は佐伯湊のことをほとんど知らない。
大学生。
就職活動中。
毎朝走っている。
少し変わっていて。
よく笑って。
それから――
「…………」
「また考えてる」
「考えておりません」
「分かりやすくなったね、いろは」
「何がですか」
「前より」
「意味が分かりません」
本当に。
意味が分からなかった。
◇
「次どうする?」
店を出ると、結衣がスマートフォンを確認した。
「私は特に」
「じゃあ、もう一軒付き合って」
「先ほどカフェにいたばかりでは?」
「甘いものは別腹」
「先ほどケーキも召し上がっていましたよね?」
「それとこれとは別」
「人間の胃はそれほど都合よく分かれておりません」
「いろはだって推しのグッズは別会計みたいなもんでしょ」
「まったく違います」
「似たようなもんだって」
「違います」
「はいはい」
「違いますからね?」
「分かった分かった」
結衣の後について歩く。
しばらくして、一軒のカフェの前で足を止めた。
「ここ」
「ここですか?」
「前から来たかったんだよね」
木目調の落ち着いた外観。
大きな窓から午後の日差しが差し込んでいる。
「混んでるかな」
「少し待つ程度なら構いませんよ」
「じゃ、入ろ」
扉が開く。
小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「二人なんですけど――」
「…………」
いろはの足が止まった。
聞き慣れた声。
毎朝。
神社で聞いている……。
「水瀬さん?」
「…………」
ゆっくりと顔を上げる。
白いシャツ。
腰には黒いエプロン。
いつものランニングウェアとはまるで違う姿。
そして何より。
ここにいるはずがない人物が、目の前に立っていた。
いろはの頭の中から、用意していた言葉がすべて消える。
「…………」
湊も驚いたように、いろはを見ている。
「こんなところで会うなんて」
「…………」
言葉が出ない。
代わりに。
いつも妄想の中で呼んでいる名前が、反射的に口からこぼれかけた。
「みな……」
「ん?」
「…………」
いろはは我に返る。
「佐伯さん?」
その隣で。
結衣がゆっくりと、いろはを見た。
「…………」
そして。
にやりと笑った。
◇
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
どんな展開だって、思いのまま。
そんな彼女は、まだ知らない。
現実は、思い通りには描けない。




