会いたい理由
翌朝。
午前七時十分。
鳥の囀りが響く境内に、朝の柔らかな陽射しが差し込んでいた。
「…………」
水瀬いろはは、箒を手に鳥居を見た。
誰もいない。
視線を戻す。
境内を掃く。
十秒。
「…………」
ちらり。
誰もいない。
さらに十秒。
ちらり。
やっぱり誰もいない。
「…………」
いろはは箒を止めた。
「別に、待っているわけではありません」
昨日も同じことを言った気がする。
しかし、昨日とは違う。
何より今日は、最近どうにも言うことを聞かない自分の脳内を納得させる、れっきとした理由がある。
「昨日は面接でしたから」
そう。
佐伯湊は昨日、面接を受けている。
つまり自分は、その結果が気になっているだけ、と……。
これは参拝者を気遣う巫女として、ごく自然なことなのだ、と……。
「ええ、ですから、別に佐伯さんに会いたいというわけでは……」
そう口にした途端。
「…………」
いろはは辺りを見回した。
誰もいない。
「私、誰に説明しているのでしょうか……」
答えなどあるはずもなく。
いろはは箒を手にしたまま、澄んだ朝空をぼんやりと見つめた。
「…………」
最近、自分でも自分のことがよく分からない。
そのとき。
石段の下から、足音が聞こえた。
「!」
いろはの視線が、空から鳥居へと落ちる。
一歩。
二歩。
近づく足音に合わせるように、いろはの鼓動も少しずつ速くなる。
「おはようございます」
聞こえてきた声に、いろはの表情がわずかに緩む。
鳥居をくぐってきたのは、彼だった。
「おはようございます、佐伯さん」
いつも通り。
完璧。
昨日のように思考停止などしない。
いろはは心の中で小さく頷く。
「今日も早いですね」
「水瀬さんも」
「私はここに住んでおりますので」
「あ、そっか」
「はい」
「じゃあ寝坊しても遅刻しませんね」
「します」
「するんですか?」
「します」
「厳しい……」
いろはは思わず噴き出した。
「ふふっ……申し訳ありません」
「笑いましたね?」
「……少しだけ」
意外だった。
初めて会ったときは、どこか神秘的で、近寄りがたい人だと思っていた。
清楚で、落ち着いていて。
まさに、絵に描いたような巫女。
でも今、目の前で笑っている彼女は。
思っていたより、ずっと普通の女の子に見えた。
「昨日の面接……結果、どうでしたか?」
「あー……」
湊は視線をそらした。
「…………」
数秒の沈黙が、いろはの表情を曇らせた。
「うん、結果はまだなんですが……」
「ただ、一つだけ、上手く答えられなかった質問があって……」
「…………」
「『あなたは将来、何をしたいですか』って聞かれたんです」
いろはは何も言わず、湊の目を見つめた。
「僕は、答えられませんでした」
「…………」
「もちろん、就職したいとは思っている」
湊は一度、言葉を切った。
「だけど……何をしたいのかなんて聞かれても、明確な答えが出なくて」
「…………」
「答えられませんでした」
「…………」
いろはは、しばらく何も言わなかった。
湊の呼吸が落ち着いた頃、静かに口を開く。
「明確な答えが出ない中で、無理に取り繕わなかったのは……ご自分の気持ちに正直でいようとしたからではないでしょうか」
「…………」
「それは、とても勇気のいることだと思います」
「…………」
湊の目が、わずかに見開かれた。
「勇気……ですか」
そんなふうに考えたことはなかった。
答えられなかった。
ただ、それだけだと思っていた。
それなのに、いろはの言葉は不思議なくらい、胸の奥まで染み込んできた。
今日まで何度も面接を受けてきた。
けれど、「答えられなかった自分」を肯定されたのは、初めてだった。
湊は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、もう一度いろはを見る。
「水瀬さんは、ありますか?」
「え?」
「将来、やりたいこと」
「…………」
確かに、唇は開いた。
いつもと同じ言葉を口にするだけだった。
それだけのことなのに、声にならなかった。
神社を守ることです。
父を支えることです。
水瀬家の娘として務めを果たすことです。
いつもなら、それでよかった。
何度聞かれても、そう答えてきた。
なのに。
今は、その言葉を湊に向けることができなかった。
「私は……」
一体、私自身の意思は、どこにあるのだろう。
そのとき初めて気づいた。
私は、自分にそう問いかけたことすらなかった。
湊は何も言わず、いろはの瞳を見つめていた。
「水瀬さん?」
「……申し訳ありません」
いろはは小さく笑った。
「どうやら、私も分からないようです」
「え?」
「将来したいこと」
「意外」
「そうでしょうか?」
「水瀬さんって、全部ちゃんとしてそうだから」
「…………」
その言葉に、いろはの胸がわずかに痛んだ。
ちゃんとしている。
昔から何度も言われてきた。
水瀬神社の娘だから。
宮司の一人娘だから。
ちゃんとしていて当然。
「そんなことありませんよ」
「私も、同じですよ」
「え?」
「分からないことだらけです」
「そっか」
「はい」
「じゃあ一緒ですね」
「…………え?」
「俺も水瀬さんも、まだ分からない」
湊は笑った。
「だったら、これから決めればいいんじゃないですか?」
「…………」
いろはは答えられなかった。
これから決める。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
自分の未来は、最初から決まっているものだと思っていたから。
「……そうですね」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
◇
「じゃあ、行ってきます」
「はい。お気をつけて」
湊が鳥居へ向かう。
「あ、佐伯さん」
「はい?」
「昨日の面接」
いろはは少し迷ってから言った。
「良い結果だといいですね」
「ありがとうございます」
湊は笑って石段を下りていった。
「…………」
いろははその背中を見送る。
いつもなら、ここから妄想が始まる。
スーツ姿の湊。
内定。
告白。
そこから始まる恋人生活。
いろはは目を閉じる。
――妄想開始。
『いろは、聞いてくれ』
『はい』
『内定、もらえたよ』
『本当ですか?』
『これも全部、いろはのおかげだ』
『そんな……私は何も』
『だから俺――』
「…………?」
「……あれ?」
いろはは目を開けた。
「……違いますね」
ここまでは、いつものように描けた。
なのに、その先を描こうとした途端、妄想がぷつりと途切れた。
代わりに浮かんだのは、
『だったら、これから決めればいいんじゃないですか?』
妄想の湊ではない。
紛れもない、本物の湊の言葉だった。
「これから……」
いろはは自分の手を見る。
「これから、自分で決める……私が?」
そんな未来が、自分にもあるのだろうか。
◇
その日の夕方。
「ただいま」
俺は玄関を開けた。
スマホを見る。
新着メール、一件。
「…………」
心臓が嫌な音を立てる。
企業名を確認。
昨日、面接を受けた会社だった。
「…………」
こんなに早いってことは……。
嫌な予感が、頭をよぎる。
開きたくない。
だが、開かなければ結果が変わるわけでもない。
メールを開く。
『選考の結果――』
「…………」
読む。
もう一度読む。
「…………」
俺はその場に立ち尽くした。
◇
翌朝。
水瀬神社。
いろはは境内を掃いていた。
午前七時十五分。
「…………」
ちらり。
鳥居を見る。
まだ来ない。
昨日より五分遅い。
「…………」
掃除を続ける。
でも。
気になる。
「今日は来ないのでしょうか……」
ぽつりと漏れた。
その瞬間。
「水瀬さーん!」
「!」
石段の下から声がした。
いろはが振り返る。
湊が駆け上がってくる。
いつものランニングより速い。
「佐伯さん?」
湊は息を切らしながら、いろはの前で足を止めた。
「はぁ……はぁ……やりました!」
「え?」
「昨日の面接、通りました!」
「…………!」
「最終面接、行けます!」
「本当ですか?」
「はい!」
湊の顔を見た瞬間。
いろはも自然に笑っていた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「あの……まだ内定ではありませんからね?」
「分かってますよ」
「でしたら、最後まで気を抜かずに」
「はい、先生」
「誰が先生ですか」
二人で笑う。
そして湊が賽銭箱へ向かう。
「今日は十円入れようかな」
「昨日申し上げましたよね?」
「最終面接ですよ? ここは神様にも本気を出してもらわないと」
「買収しないでください」
「じゃあ十五円」
「増えています」
また笑う。
その横顔を見ながら、いろはは思った。
よかった。
本当に。
よかった。
「…………」
そこで気づく。
昨日までとは違う。
湊が来て嬉しかった。
結果を聞けて嬉しかった。
面接を通過して、自分のことのように嬉しかった。
妄想の中で作った湊ではない。
目の前にいる、本物の佐伯湊。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
◇
帰り道。
俺は走りながら、ふと思った。
昨日、面接通過のメールを見たとき。
最初に報告したいと思った相手は、大学の友達でもなかった。
親でもなかった。
「…………」
なぜか。
水瀬さんの顔が浮かんだ。
だから今朝、いつもより速く走った。
「……なんでだろ」
自分でもよく分からない。
でも。
明日も神社へ行く。
就職祈願のため。
それだけのはずなのに。
「…………」
俺は少しだけ走る速度を上げた。
◇
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
そんな彼女が待ち遠しくなったのは、
妄想の続きではなく――
彼が来る、次の朝だった。




