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いつもの朝

水瀬神社を初めて訪れてから、四日目の朝。


 俺は今日も、長い石段を上っていた。


「お願いします!」


 二礼二拍手。


 目を閉じる。


 今日こそ面接で上手く話せますように。


 ……よし。


 今度は声に出していない。


 念のため周囲を確認する。


「大丈夫ですよ。今日は聞こえておりません」


「うわっ!?」


 背後から声がした。


 振り返ると、箒を手にした水瀬さんが立っていた。


「お、おはようございます」


「おはようございます、佐伯さん」


 いつもの巫女装束。


 いつもの落ち着いた表情。


 そして、ほんの少しだけ上がった口元。


「確認してたの、見てました?」


「はい」


「恥ずかしい……」


「ふふっ。お気になさらず」


 三日前。


 俺は就職祈願を盛大に声に出してしまった。


 それ以来、参拝するたびに自分の口が閉じているか確認する癖がついた。


 自分の口なのに信用がない。


「今日は面接ですか?」


「はい。十時から」


「そうでしたか」


 水瀬さんは俺の格好を見る。


 今日もランニングウェア。


 面接には一度家へ帰ってから向かう予定だ。


「緊張されています?」


「めちゃくちゃ」


「まだ二時間以上ありますよ?」


「俺の面接はもう始まってるんです」


「……?」


「朝起きた瞬間から緊張してるので」


「それでは面接が始まる頃には、お疲れになってしまいますね」


「確かに」


 二人で笑う。


 最初に会ったときは、この神社の空気に溶け込んでいるような、どこか神秘的で近寄りがたい人だと思った。


 でも何度か話してみると、意外とよく笑う。


 ……いや。


 俺が毎朝来てるから、慣れてきただけか。


「では」


 水瀬さんが箒を持ち直した。


「本日の面接も、良いご縁になりますように」


「ありがとうございます」


 良いご縁。


 また、その言葉だ。


 不思議と嫌いじゃなかった。



     ◇



「お気をつけて」


「はい。また明日」


「…………」


 また明日。


 湊が何気なく残した四文字。


 いろはは表情を変えない。


「はい。また明日」


 鳥居をくぐる湊を見送る。


 一段。


 二段。


 三段。


 その姿が石段の下へ消える。


「…………」


 右。


 左。


 父、なし。


 参拝客、なし。


「よし」


 安全確認完了。


「『また明日』いただきました!」


 小さく拳を握る。


 ここ三日、湊は毎朝やって来る。


 一日目。


 二日目。


 三日目。


 そして今日も、就職祈願。


 つまり。


「これはもう……毎朝会う関係なのでは?」


 違う。


 彼は参拝しているだけである。


 しかし、妄想恋愛無双中のいろはにとって、そんな些細な事実は問題ではない。


「毎朝同じ場所で会う男女……」


 いろはは目を閉じる。


 ――妄想開始。


 朝の境内。


『おはよう、いろは』


『おはようございます、湊さん』


『今日も会えたね』


『毎日会っているではありませんか』


『でも、会えると嬉しい』


『もう……湊さんったら』


 妄想いろはは余裕たっぷりに微笑む。


『いろはは?』


『え?』


『俺に会えて嬉しくない?』


『それは……』


 いろはは一度言葉を止める。


 ここで少し焦らす。


 恋愛上級者としては当然の技術である。


『秘密です』


『そっか』


 湊がいろはの耳元へ顔を近づける。


『じゃあ、明日も確かめに来る』


「~~~~っ!」


 現実のいろはが箒を抱きしめた。


「余裕……! 完璧です!」


 妄想なら。


 そのときだった。


「水瀬さん!」


「ひゃいっ!?」


 いろはの身体が跳ねる。


 振り返る。


「忘れ物しました!」


「さ、佐伯さん!?」


 帰ったはずの湊が走って戻ってきた。


「イヤホン、ここに落としてませんでした?」


「あ……」


 見ると、賽銭箱の近くに黒いワイヤレスイヤホンが落ちている。


「こちらでしょうか」


「あ、それです!」


 いろははイヤホンを拾う。


 湊が近づいてきた。


「ありがとうございます」


「い、いえ……」


 手渡そうとする。


 湊が手を伸ばす。


 指先が、ほんの少し触れた。


「…………」


「…………」


「ありがとうございます」


「…………」


「水瀬さん?」


「は、はいっ!」


 声が裏返った。


「大丈夫ですか?」


「もちろんです」


 大丈夫ではない。


 なんだ今のは。


 指。


 触れた。


 湊さんの指と。


 私の指が。


 妄想では手を繋いだことくらい、数え切れないほどある。


 腕を組んだ。


 抱きしめられた。


 それなのに。


 現実では、指先がほんの少し触れただけで――


 思考停止。


「水瀬さん?」


「問題ございません!」


「そ、そうですか」


 湊が少し驚いた顔をする。


「じゃあ、本当に行きますね」


「はい!」


「また明日」


「…………はい」


 今度こそ、湊は石段を下りていった。


「…………」


 いろはは自分の右手を見る。


 人差し指。


 ほんの一瞬。


 触れただけ。


「…………なに、これ」


 頬が熱い。


 妄想とは全然違う。


 妄想の湊なら、どれだけ近づいてきても平気だった。


 だって全部、自分が作った湊だから。


 何を言うのか。


 どう触れるのか。


 次に何が起きるのか。


 全部、自分が知っている。


 でも。


 現実の佐伯湊は違う。


 何をするのか分からない。


 何を言うのか分からない。


 だから。


「……指が触れただけですよ?」


 自分に言い聞かせる。


「この程度で動揺するなんて……恋愛上級者としてあるまじき失態です」


 もちろん恋愛上級者ではない。


 ただの恋愛未経験者である。


「次は大丈夫です」


 いろはは右手を握りしめた。


「次に佐伯さんと手が触れても、完璧に対応してみせます」


 なぜ再び手が触れることを前提にしているのか。


 本人は気づいていない。



     ◇



 その日の夕方。


「ただいま戻りました」


 いろはは社務所へ入った。


「おかえり」


 奥から女性の声がする。


「お母様?」


 台所から顔を出したのは、母の美琴だった。


「今日は大学、早かったのね」


「はい。講義が午前中だけでしたので」


「そう」


 美琴はいろはを見る。


「…………」


「どうかなさいましたか?」


「いろは」


「はい」


「最近、朝のお掃除楽しそうね」


「…………」


 一秒。


 二秒。


 三秒。


「いつも通りですが?」


 完璧な回答。


 しかし。


「そう?」


 母親という生き物は厄介である。


 父よりも、こういう変化には妙に鋭い。


「このところ毎朝、同じくらいの時間に若い男の子が来ているでしょう?」


「…………」


 いろはの心臓が跳ねた。


「参拝者の方です」


「名前は?」


「佐伯湊さんです」


「…………」


「…………」


 しまった。


 いろはは悟った。


 母の口元が、わずかに上がる。


「名前、知ってるのね」


「…………!」


「ふふっ」


「ち、違います! これはその、参拝者の方との会話の中で自然に……!」


「私は何も言ってないわよ?」


「…………」


 やられた。


 恋愛無双を自称する女、水瀬いろは。


 母親との心理戦。


 開始十秒で敗北。



     ◇



 その夜。


 布団に入ったいろはは、右手を天井へ伸ばしていた。


「…………」


 今日、湊と触れた指を見る。


「たった一瞬なのに……」


 まだ覚えている。


 あの感触。


「変なの」


 いろはは手を布団の中へ戻す。


 いつもなら、ここから妄想が始まる。


 今日の出来事を材料にして、湊との続きを好きなように作ればいい。


 手が触れる。


 湊が微笑む。


 そして――。


「…………」


 いろはは目を閉じる。


 しかし。


「……あれ?」


 何も浮かばない。


 もう一度目を閉じる。


「…………」


 湊の顔は浮かぶ。


 でも。


 その先をどうすればいいのか、分からない。


「……どうして?」


 これまでなら簡単だった。


 相手が何を言うのかも。


 自分がどう答えるのかも。


 全部、自分の好きなように描けた。


 なのに。


 今日、指先に残ったほんの一瞬の感触だけが、何度も頭をよぎる。


「…………」


 いろはは布団を鼻まで引き上げた。


「明日……来るかな」


 妄想の中の湊ではなく。


 明日の朝、本当に石段を上ってくるかもしれない佐伯湊を思う。


 胸の奥が、少しだけ騒がしくなる。


 恋愛経験ゼロ。


 妄想の中では恋愛無双。


 そんな彼女の思い通りにならない朝が、


 またひとつ、始まろうとしていた。

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