就職祈願
またか……。
『慎重に選考を重ねました結果、誠に残念ながら――』
「はぁ……最後まで読まなくたってわかる」
佐伯湊は一通の封筒を破り、そのままベッドへ倒れ込んだ。
二十一歳、大学四年生。
六月。
内定、ゼロ。
単語を並べただけでも、なかなかの破壊力だ。
周りでは、すでに内定をもらった友人たちが「どこにしようか」なんて話を始めている。
一方の俺は『選ぶ』どころか、『選ばれる』企業がない。
「はぁぁぁ……」
天井を見上げる。
最近、ため息が増えた気がする。
就活を始めた頃の俺が、今の俺を見たら絶望するだろうな。
適当に条件のいい企業を選んで、エントリーシートを書いて、面接を受けて。
まあ、どこかには拾ってもらえるだろう。
そう簡単に考えていたけど、現実は甘くなかった。
書類選考で落ちる。
一次面接で落ちる。
良くても二次面接で落ちる。
そして今日も届いた、非情な通知。
「俺、社会不適合者認定じゃないか……?」
つい、癖で思っていたことを口に出した瞬間、魂が抜けていくような感覚に襲われた。
ダメダメダメ!
こんな日は思考を止めて、身体を動かそう。
「……行くか」
俺は床に落ちたままのランニングウェアを拾い上げる。
不採用という絶望を初めて味わった日から、俺はまるで現実から逃げるようにランニングを始めた。
走っている間だけは、すべてを忘れられる。
少なくとも、走っている俺を不採用の闇が追いかけてくることはない。
いや、来ても全速力で逃げる。
俺が欲しいのは金メダルではなく、『採用』の二文字だ。
俺はどんよりとした重い空気の家を飛び出した。
◇
いつもの路地を抜ける。
六月の朝は、まだ空気が気持ちいい。
イヤホンから流れる音楽で世界を遮断しながら、何も考えず駆け抜ける。
五キロほど走ったところで、気分転換にいつもとは違う道へ入ってみた。
坂道を駆け抜けた先で、俺は足を止める。
「こんなところに神社……」
目の前には、大きな鳥居が立っていた。
鳥居の横には、歴史を感じさせる石碑。
『水瀬神社』
その奥には、長い石段が続いている。
「…………」
ランニング中に遭遇する階段ほど、敵意を感じさせるものはない。
でも、なぜか吸い込まれるような何かを感じた。
俺はイヤホンを外し、石段を上り始めた。
最後の一段を上り切る。
「ふぅぅ……」
そこには、想像していた以上に立派な神社が佇んでいた。
境内には大きな御神木。
その奥には、歴史を感じさせる社殿が建っている。
さっきまでの喧騒が嘘のように、ここでは何も聞こえない。
空気まで少し違う……気がする。
「せっかくだし、お参りしていくか」
賽銭箱の前まで歩く。
財布から五円玉を探していると、
「おはようございます」
「えっ!?」
突然背後から声をかけられ、驚いて振り返る。
そこには、一人の巫女が立っていた。
白衣に緋袴。
腰まで伸びた艶のある黒髪。
年齢は俺と同じくらいだろうか。
整った顔立ち。
可愛いというより、綺麗という言葉のほうが似合う。
ただそこに立っているだけなのに、なぜか目を奪われた。
「驚かせてしまいましたか?」
「あ、いえ。全然大丈夫です」
「そうですか。よかったです」
巫女は控えめに微笑んだ。
……マジか。
今どき、こんな絵に描いたような巫女がいるんだ。
俺は思わず目を擦り、改めて彼女へ視線を向ける。
「初めてお見かけしますね」
「はい。ランニングしてたら偶然見つけて」
「そうでしたか。朝は参拝される方も少ないので、どうぞごゆっくりなさってください」
「ありがとうございます」
俺は軽く頭を下げた。
彼女はそのまま、少し離れた場所へ戻っていった。
改めて賽銭箱を見る。
よし、お願いしてみるか。
五円玉を入れる。
二礼二拍手。
目を閉じた。
今の俺に願うことなんて、あれしかない。
なんとか、内定がもらえますように。
神様に就活を丸投げする大学四年生。
あぁ、我ながら情けない。
でも、縋れるものには縋りたい。
最後に一礼して、顔を上げる。
「…………」
何か、視線を感じた。
振り返る。
先ほどの巫女と目が合った。
ん? なぜだろう。
彼女がほんの少し困ったような顔をしている。
「……就職活動中なのですか?」
「え?」
「その……先ほど、内定が、と」
「…………」
嫌な予感が全身を駆け巡る。
「お、俺、もしかして……声に出して……」
「……はい。しっかりと」
またやってしまった。
恥ずかしい。
神様だけに交渉したつもりが、周りにまで筒抜けだったとは。
「申し訳ありません。聞くつもりはなかったのですが……」
「いや、悪いの俺ですから。まさか声に出してるなんて」
「それほど強く願っていらしたのですね」
「強くというか、必死というか……追い詰められてるんですよね」
悲しい。
こんな状況、悲しすぎるだろ。
「大学四年なのに、まだ内定ゼロで」
「それは……不安になりますね」
「周りは大抵決まってるから、余計に」
「そうでしたか」
彼女は笑わなかった。
気休めのように「大丈夫ですよ」と言うこともなかった。
ただ俺を見て、穏やかに微笑んだ。
「良いご縁があるといいですね」
「ご縁?」
「就職も、人と場所とのご縁だと思いますから」
「そっか……」
考えもしなかった。
「あなたにとって、本当に良いご縁がありますように」
穏やかな声だった。
たったそれだけのことなのに、不思議と心に残った。
「はい。ありがとうございます」
「いえ」
「なんか、もう受かる気がしてきました」
「それは困りました」
「え?」
「神様にお願いしたからといって、面接の準備を怠ってはいけませんよ?」
「……はい」
正論だった。
現実は、神様より巫女のほうが厳しい。
俺の反応がおかしかったのか、彼女が小さく笑う。
「冗談です。応援しております」
「ありがとうございます」
今日も不採用通知を受け取ったばかりなのに。
赤の他人に少し励まされただけで、さっきまでの重たい気分がほんの少し軽くなっていた。
「じゃあ、そろそろ行きます」
「はい。お気をつけて」
石段へ向かいかけて、俺は足を止めた。
「あの」
「はい?」
「お名前、聞いてもいいですか?」
一瞬。
彼女の大きな目が、さらに大きくなった。
けれど、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「水瀬いろはと申します」
「水瀬さん」
「はい」
「俺、佐伯湊です」
「佐伯……湊さん」
記憶に刻むように、彼女はゆっくり俺の名前を口にした。
「また来てもいいですか?」
「神社ですから」
いろはさんが、くすりと笑う。
「いつでもお越しください」
「じゃあ、また」
「はい。また」
俺は石段を下りた。
帰り道。
ふと、明日も走ろうと思った。
毎日祈ったからといって、神様が味方してくれるわけではない。
そんなことは分かっている。
でも。
少なくとも、走る目的くらいにはなる。
◇
「…………」
湊の背中が見えなくなるまで、水瀬いろはは鳥居の先を見つめていた。
「佐伯……湊さん」
小さく名前を口にする。
水瀬いろは、二十歳。
水瀬神社の宮司、水瀬宗一郎の一人娘。
幼い頃から、
『水瀬神社の娘なのだから』
そう言われて育ってきた。
礼儀作法、言葉遣い、立ち居振る舞い。
人前で感情を乱すことなど、あってはならない。
今日も巫女、水瀬いろはは完璧だった。
――佐伯湊が石段を下り切るまでは。
「…………よし」
辺りを見渡し、誰もいないことを確かめる。
確認終了。
「えっ、ちょっと待って。普通にタイプなんですけど……!」
完璧な巫女、水瀬いろは。
終了。
いろはは両頬を押さえた。
「ランニング男子! 大学生! 爽やか! しかも就活でちょっと弱ってる!」
いろはの頭の中が高速回転を始める。
「設定完了。これは……いけます」
何がいけるのか。
本人以外には分からない。
――妄想開始。
桜の舞う境内。
巫女装束姿のいろはの前に、スーツ姿の湊が現れる。
『いろは』
『湊さん……』
『内定、もらえたよ』
『本当ですか?』
『いろはが毎日祈ってくれたから』
『そんな……私は何も』
『だから、お礼がしたい』
『お礼……ですか?』
『俺と付き合ってください』
「きゃっ……!」
現実のいろはが顔を覆った。
「いきなり告白は早すぎます……!」
自分で妄想して。
自分で照れる。
なかなか器用な女性である。
無論、いろはに交際経験などない。
告白された経験もない。
男性と二人きりでデートした経験すらない。
だが本人は、この事実をまったく問題視していなかった。
そう。なぜなら――
「んー……こういうときは一度お断りしたほうが、より経験豊富っぽいでしょうか……」
妄想の中では、恋愛無双中だからである。
男性アイドル。
テレビで見かけた俳優。
神社に来た好みの参拝客。
いろはの脳内では、これまで数え切れないほどの恋愛が繰り広げられてきた。
出会い。
初デート。
告白。
喧嘩。
仲直り。
妄想なら、恋の始まりから結末まで、思うがままに描ける。
少なくとも本人は、自分を立派な恋愛上級者だと思っている。
「佐伯湊さん、かぁ……」
もう一度、鳥居を見る。
頬が緩む。
「明日も来てほしいな……」
ぽつりと呟いてから、いろはは首を傾げる。
「もし明日も来てくださったら……」
再び妄想の扉が開きかける。
「次は先輩後輩設定もいいですね。いえ、でも神社で運命的に出会った二人というのも神秘的で……」
「いろは」
「ひゃあっ!」
背後から突然名前を呼ばれた。
いろはの背筋が一瞬で伸びる。
振り返ると、社務所の前に一人の男性が立っていた。
父、水瀬宗一郎。
五十二歳。
この水瀬神社の宮司である。
「何をしている」
「……境内の確認をしておりました」
一秒前まで妄想彼氏との関係性を検討していた人間とは思えない完璧な回答だった。
「そうか」
「はい、お父様」
「今日は午後から氏子総代の方々がお見えになる。準備をしておきなさい」
「承知いたしました」
宗一郎は社務所へ戻っていった。
その姿が完全に見えなくなる。
「やばっ……危なかったぁ」
いろはは胸を撫で下ろした。
もし知られたら……考えただけでゾッとする。
由緒ある水瀬神社の一人娘。
将来、この神社を背負うことを期待されている身。
そんな娘が、神社へやって来た好みの男性を勝手に妄想彼氏へ仕立て上げているなど。
ふしだらにも程がある。
末代まで口が裂けても言えない。
「でも……」
いろはは、もう一度石段のほうを見る。
「明日も来てくれるといいな……」
ぽつりと漏れたその言葉だけは。
妄想ではなかった。
◇
翌朝。
いろはは箒を手に、境内を掃いていた。
時刻は午前七時十五分。
「…………」
ちらり。
鳥居を見る。
誰もいない。
掃除を続ける。
三十秒後。
ちらり。
「…………」
やっぱり誰もいない。
「別に、待っているわけではありません」
誰に対する言い訳なのか。
さらに一分。
石段の下から、足音が聞こえてきた。
いろはの顔が上がる。
「おはようございます、水瀬さん」
ランニングウェア姿の湊が、鳥居をくぐってきた。
「…………」
「水瀬さん?」
「……おはようございます、佐伯さん」
落ち着いた声。
控えめな笑顔。
問題ない。
完璧な巫女。
しかし、その脳内は。
――来た来た来た来た来た!
鐘でも鳴らしたいほどの大騒ぎだった。
「今日も就職祈願ですか?」
「はい。昨日より五円多く入れようかなって」
「神様を金額で買収しようとなさらないでください」
「ダメですか?」
「ダメです」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
このときのいろはは、まだ知らない。
佐伯湊が、いつか妄想の中でさえ思い通りにならない人になることを。
そして湊もまだ知らない。
就職祈願のために訪れたこの神社で、いつかまったく別の願いを神様に託すことになることを。
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
そんな一人の巫女が初めて知る――
想いだけでは描けない恋を。




