ほどけない、温もり
十二月二十六日。
クリスマスの翌朝。
冬の空は、よく晴れていた。
「……ふふっ」
さっ、さっ。
竹箒で境内の落ち葉を集める。
「……ふふふっ」
……いけません。
どうしても、顔が緩んでしまいます。
私の頭の中では、昨日のページェントが、まだ輝いている。
佐伯さんと一緒に食べたオムライス。
二人で歩いた、一番町。
そして。
……初めて、繋いだ手。
私は、そっと右手を見つめた。
あのときの温もりが、まだ残っているような気がする。
ああ。もう一度、繋ぎたい。
その拍子に、胸元で小さな石が揺れた。
昨日、佐伯さんからいただいたネックレス。
……ふふっ。
だから! 掃除に集中してください、私!
◇
「……おはようございます」
聞き慣れた声がした。
「……あ」
顔を上げると、鳥居の向こうから佐伯さんが歩いてきた。
「……佐伯さん!」
「おはようございます、水瀬さん」
「お、おはようございます! 今日はどうされたんですか?」
「これからバイトなので、その前に寄ろうと思って」
……私に会いに?
い、いえ。参拝ですよね。もちろん。
佐伯さんは、いつものように拝殿へ向かった。
鈴の音が響く。
二礼、二拍手、一礼。
参拝を終えた佐伯さんが、こちらへ戻ってきた。
「昨日は、ありがとうございました」
「こ、こちらこそ! とても楽しかったです」
「ページェント、綺麗でしたね」
「はい。何度も見ているはずなのに、昨日は特別綺麗に見えました」
「……俺も、水瀬さんと一緒に見られてよかったです」
……っ。
私は、コートの襟元から、そっと銀色のチェーンを覗かせた。
「……今日も、着けてきました」
「……あ。本当だ」
佐伯さんが、嬉しそうに笑った。
「すごく似合っています」
「……ありがとうございます」
……そんなふうに笑われたら。
また、昨日のことを思い出してしまいます。
「じゃあ、そろそろ行きますね」
「……はい」
佐伯さんが、鳥居の方へ身体を向ける。
私は、思わず一歩踏み出した。
「……佐伯さん」
「はい?」
私は、そっと右手を差し出した。
佐伯さんは、一瞬だけ驚いた顔をした。
それから。小さく笑って。
私の手を、握ってくれた。
……ぎゅっ。
ほんの数秒。
それだけなのに、胸の奥がいっぱいになる。
「……行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
手が離れる。
佐伯さんが鳥居の向こうへ歩いていく。
……ふふっ。
「……いろは」
「ひゃいっ!?」
突然、背後から声がした。
振り向くと、お母さんが立っていた。
「……お、お母さん!?」
「昨日は、よほど楽しかったみたいね」
「……っ!」
み、見られていました!?
「さあ。そろそろ、お正月の準備を始めましょう」
「……は、はい!」
水瀬神社にとって、一年で最も忙しい時期がやってくる。
境内の清掃。授与所の準備。お守りやお札の確認。
「……佐伯さんにも、よろしく伝えておいてね」
「……っ!」
……お母さん!
最後の一言、必要でしたか!?
◇
一方、その頃。
「おはようございます」
湊がカフェの扉を開けると、カウンターの奥から声が返ってきた。
「おう、おはよう」
マスターが、いつものようにカップを磨いている。
「おはよう、湊君」
井上さんも、開店準備の手を止めて顔を上げた。
「……あれ?」
「はい?」
「なんか、今日、ずいぶんご機嫌じゃない?」
「……そうですか?」
「うん。顔に書いてある」
「……そんなことないですよ」
湊は、苦笑いしながらエプロンを手に取った。
……。
そんなに、分かりやすいだろうか。
「あ、そういえば」
井上さんが、思い出したように言った。
「昨日、クリスマスで休み取ってたよね?」
「……はい」
「どうだった? いろはちゃんとのデート」
「……っ!」
……。
いきなり、そこですか。
「……楽しかったですよ」
「へえ?」
井上さんが、にやりと笑う。
「それだけ?」
「……それだけって」
「だって、せっかくのクリスマスじゃん。どこ行ったの?」
「……ご飯を食べて、買い物して。それから、ページェントを見に行きました」
「おお、王道だねえ!」
「……まあ」
「プレゼントは?」
「……渡しました」
「何あげたの?」
「……ネックレスです」
「えっ! いいじゃん!」
井上さんが、嬉しそうに声を上げた。
「いろはちゃん、喜んでた?」
「……はい」
湊は、昨日のことを思い出した。
小さな箱を開けたときの、驚いた顔。
ネックレスを着けて、嬉しそうに笑ってくれたこと。
そして。
今朝も、そのネックレスを着けてくれていた。
「……すごく、喜んでくれました」
思わず、頬が緩む。
「……あっ!」
井上さんが、すかさず指を差した。
「今、笑った!」
「……え?」
「ほら! やっぱりご機嫌じゃん!」
「……井上さん」
湊は、困ったように笑った。
◇
「……まあ、いいじゃねえか」
マスターが、コーヒー豆の袋を棚に戻しながら言った。
「せっかく休み取ったんだ。楽しく過ごせたなら何よりだ」
「……ありがとうございます」
「それにしても、湊」
「はい?」
「お前、ずいぶん変わったな」
「……そうですか?」
「ああ。前は何か決めるにも、ずいぶん悩んでただろ」
湊は、少し照れくさそうに頷いた。
「今回は、自分から誘ったのか?」
「……はい」
「そうか」
マスターは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、満足そうに頷いた。
……なんだか、少し嬉しかった。
◇
「……で、湊君」
「……はい?」
井上さんが、再び口を開いた。
「手は?」
「……え?」
「手。繋いだ?」
「……っ!」
……。
…………。
どうして、そこを聞くんですか。
「……あれ?」
井上さんの目が輝いた。
「その反応……!」
「……井上さん」
「繋いだんだ!」
「……っ、声が大きいです!」
「やったじゃん!」
「……だから!」
カウンターの奥で、マスターが笑い始めた。
「はははっ! そうか、そうか!」
「……マスターまで」
湊は、赤くなった顔を隠すように俯いた。
でも。
昨日、初めて握った水瀬さんの手。
少し冷たくて。
でも、握り返してくれたときは、驚くほど温かかった。
そして。
今朝も、彼女の方から手を差し出してくれた。
思い出しただけで、また笑ってしまう。
「……ほら! また笑ってる!」
「……仕事しましょう、井上さん!」
「はいはい。幸せ者は真面目だねえ」
「……もう」
湊は、ため息をついた。
けれど、その表情はどこか嬉しそうだった。
◇
開店時刻が近づき、湊は店の入口へ向かった。
ドアの札を、裏返す。
『CLOSED』から『OPEN』へ。
ガラス越しに、冬の街が見えた。
クリスマスの飾りは、まだ少し残っている。
けれど、街はもう次の季節へ向かっていた。
……今年も、あと少し。
湊は、ふと考えた。
去年の今頃。
自分が、こんな気持ちで年末を迎えるなんて、想像もしていなかった。
就職活動も。
これからのことも。
何一つ、思うように決められなかった自分。
それでも。
今年は、一つだけ。
自分の気持ちで、選べたことがある。
……水瀬さんと、一緒にいたい。
その気持ちを、ちゃんと伝えられた。
「……湊!」
店の奥から、マスターの声が飛んできた。
「ぼーっとしてないで、頼むぞ!」
「……あっ、はい!」
慌てて振り返る。
すると。
「……ふふっ」
井上さんが、また笑っていた。
「今日の湊君、ちょっと危なっかしいねえ」
「……すみません」
「ま、気持ちは分かるけど」
「……井上さん!」
カフェに、いつもの笑い声が響いた。
◇
「……いろは、そちらは終わった?」
「はい! 今、終わりました!」
私は、手元の箱を閉じた。
中には、新年に向けて用意されたお守り。
種類ごとに数を確認し、授与所へ運ぶ準備を進めていた。
……ふぅ。
ようやく、一段落です。
クリスマスが終わった途端、水瀬神社はすっかりお正月の準備一色になっていた。
境内の清掃。
お札やお守りの確認。
破魔矢や絵馬の準備。
参拝者の方々をお迎えするために、やることは山ほどある。
毎年のこととはいえ、この時期ばかりは、のんびりしていられません。
「いろは、次はこっちをお願いできる?」
「はい!」
お母さんに呼ばれ、私は立ち上がった。
その拍子に、胸元のネックレスが小さく揺れた。
「……ふふっ」
……っ!
い、いけません!
またです!
今は、お仕事中!
私は、慌てて表情を引き締めた。
◇
午後になり、境内には新年を迎えるための準備が少しずつ整い始めていた。
「……今年も、あと少しですね」
私は、授与所の前から境内を見渡した。
つい先日まで、落ち葉の掃除をしていたと思ったのに。
もう、お正月。
一年というのは、本当に早いものです。
今年は、いろいろなことがありました。
大学での毎日。
神社のお手伝い。
そして。
……佐伯さんとの、出会い。
私は、鳥居の方へ目を向けた。
あの日。
就職祈願に訪れた、一人の男の人。
まさか、その人が。
今では、私の大好きな人になっているなんて。
人生って、本当に何が起こるか分かりませんね。
「……いろは?」
「ひゃいっ!?」
お母さんが、不思議そうにこちらを見ていた。
「また、ぼんやりしていたの?」
「し、していません!」
「そう?」
……お母さん。
お願いですから。
もう少し、気づかないふりをしてください。
◇
夕方。
一日の準備を終え、私は社務所で温かいお茶を飲んでいた。
「……ふぅ」
湯呑みを両手で包む。
冷えた指先に、じんわりと温かさが広がった。
……温かい。
私は、ふと右手を見た。
今朝。
佐伯さんと、ほんの少しだけ繋いだ手。
昨日のページェントの下で、初めて握ってもらった手。
……ふふっ。
どうしましょう。
一日中、忙しくしていたのに。
こうして少し落ち着くと、すぐに思い出してしまいます。
そのとき。
スマートフォンが、小さく震えた。
……あ。
画面には、佐伯さんの名前。
私は、思わず背筋を伸ばした。
『今日もお疲れさまでした。神社の準備、忙しかったですか?』
私は、指先で返信を打った。
『お疲れさまです。今日はお守りやお札の準備をしていました。佐伯さんも、お仕事お疲れさまでした』
少しして、また画面が光る。
『ありがとうございます。今日はお店で、昨日のことをいろいろ聞かれました』
……え?
昨日のこと?
私は、思わず画面に顔を近づけた。
『井上さんとマスターに、ですか?』
『はい。井上さんには、手を繋いだことまで聞かれました』
「ひゃあっ!?」
思わず、声が出た。
て、手を繋いだことまで!?
い、井上さん!
一体、どこまで聞くつもりなんですか!?
慌てて、続きを確認する。
『でも、すごく楽しかったって伝えました』
私は、画面を見つめた。
そして、ゆっくりと笑みがこぼれる。
……嬉しい。
佐伯さんも、昨日のことを。
そんなふうに思ってくれているんですね。
私は、少し考えてから返信した。
『私も、昨日は本当に楽しかったです。今日もずっと思い出していました』
……あ。
……送ってしまいました。
こ、これでは!
一日中、佐伯さんのことばかり考えていたみたいじゃないですか!
……考えていましたけど!
◇
少しして、返事が届いた。
『実は、俺もです』
私は、画面を見つめたまま動けなくなった。
……佐伯さん。
……もう。
本当に。
ずるいです。
私は、胸元のネックレスにそっと触れた。
そして、もう一度、右手を見つめる。
昨日、初めて繋いだ手。
今朝、もう一度握った手。
離れてしまえば、温もりは消えてしまうはずなのに。
不思議ですね。
思い出すたびに。
また、温かくなるんです。
◇
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
クリスマスが終わっても。
いつもの日常に戻っても。
あの手の温もりだけは。
……まだ、ほどけそうにありません。




