滲み出る、幸せ
冬休み。
今日は、小宮さんと会う約束をしていた。
北海道のお土産を渡すためだ。
待ち合わせ場所は、行きつけのパン屋さん。
一階でパンを販売しており、二階がイートインスペースになっている。
店の前に着くと、小宮さんがこちらに気づいて手を振った。
「いろは、こっち!」
「お待たせしました、小宮さん」
「ううん。私も今来たところ」
「それじゃあ、入りましょうか」
「うん。お腹空いちゃった」
私たちは店に入り、トレーを手に取った。
焼きたてのパンの香りが、ふわりと漂ってくる。
店内には、焼きたてのパンがずらりと並んでいた。
「うわ、おいしそう。ここ、種類多いね」
「そうなんです。いつも迷ってしまって」
「いろは、よく来るの?」
「はい。大学の帰りに寄ることもありますよ」
「へえ。知らなかった」
小宮さんはトレーを持って、惣菜パンの並ぶ棚へ向かった。
私は、その隣の甘いパンを眺める。
定番のクロワッサン。
人気のクリームパン。
季節限定のチョコレートの入ったパン。
……悩みます。
「いろは、まだ決まらないの?」
「……もう少し待ってください」
「さっきから同じところ見てない?」
「だって、どれも美味しそうなんですもの」
「じゃあ、二つ買えばいいじゃん」
「……なるほど」
「そこは素直なんだ」
小宮さんが笑った。
……でも。
二つ選ぶとなると、それはそれで悩みます。
「……小宮さん」
「今度は何?」
「クロワッサンは決めたんですけど、もう一つが……」
「クリームパンとチョコのやつ?」
「はい」
「季節限定なんでしょ? だったらチョコじゃない?」
「……確かに」
私は、季節限定のチョコレートパンをトレーに乗せた。
「決まりました!」
「よかったねえ。長い戦いだった」
「そんなに時間かかってませんよ?」
「私、もう三つ選んだよ」
「……えっ?」
小宮さんのトレーには、明太フランスパン、バジルチーズパン、ミニマーブルパン。
……いつの間に。
◇
会計を済ませ、飲み物を受け取って二階へ上がる。
窓際の席が空いていた。
「ここでいい?」
「はい」
向かい合って座り、コートを脱ぐ。
窓の外には、冬の街並みが広がっていた。
「そういえば、小宮さん」
「ん?」
「これ、北海道のお土産です」
私は、鞄から紙袋を取り出した。
「わ、ありがと!」
「お菓子なんですけど、お口に合うといいなと思って」
「嬉しい! 帰ってから食べるね」
小宮さんは、紙袋の中を覗いて笑った。
「で、北海道どうだった?」
「とても楽しかったです」
「札幌に行ったんだよね?」
「はい。小樽にも行ってきました」
「いいなあ。写真ある?」
「もちろんです」
私はスマートフォンを取り出した。
雪の積もった街並み。
札幌で見上げた建物。
小樽で歩いた道。
一枚ずつ見せていく。
「うわ、綺麗!」
「この日は、雪も降っていたんですよ」
「寒そう。でも、こういう景色いいよね」
「はい。歩いているだけでも楽しかったです」
「一人で寂しくなかった?」
「最初は、少しだけ。でも、行ってよかったと思っています」
「そっか」
小宮さんは、明太フランスパンを一口食べた。
「なんか、いろは、ちょっと変わった?」
「……そうでしょうか?」
「うん。前よりすっきりした顔してる」
私は、少し考えてから口を開いた。
「実は、将来のことも決めたんです」
「えっ、そうなの?」
「はい。私、水瀬神社を継ぐことにしました」
小宮さんは、パンを持つ手を止めた。
「……そっか」
「北海道でいろいろ考えて、帰ってから両親にも伝えました」
「お父さんとお母さん、何て?」
「二人とも、喜んでくれました」
「よかったじゃん」
小宮さんは、嬉しそうに笑った。
「いろはが自分で決めたんだね」
「……はい」
「そっかあ。応援するよ」
「ありがとうございます」
私は、クロワッサンを一口食べた。
サクッとした生地が、口の中でほどける。
……美味しい。
◇
それからも、大学のことや冬休みの過ごし方など、他愛のない話が続いた。
そんなとき。
テーブルに置いたスマートフォンが、小さく震えた。
画面を見る。
佐伯さんからだった。
『今日はバイトです。終わったら電話しますね』
……電話。
付き合う前は、メッセージを送り合うだけでも嬉しかった。
それが今は、夜になると佐伯さんの声が聞ける。
最初は、お互い何を話せばいいのか分からなくて。
少し沈黙が続くだけで、どきどきしてしまった。
でもすぐに、その沈黙さえも心地よくなった。
……ふふっ。
「……いろは?」
「はい?」
顔を上げると、小宮さんがこちらを見ていた。
「何、その顔」
「……えっ?」
「スマホ見て、すっごい嬉しそうにしてたけど」
「そ、そうですか?」
「うん。何かいいことあった?」
「……いえ、別に」
小宮さんは、私のスマートフォンをちらりと見た。
そして、何かを思いついたように笑った。
「……ああ、なるほど」
「……?」
「さては、また佐伯さんとの妄想?」
「えっ!?」
「今度は何? 北海道から帰ってきたら、佐伯さんが迎えに来てくれたとか?」
「ち、違います!」
「じゃあ、電話で甘い言葉でも囁かれる妄想?」
「そ、そんなこと……!」
「はいはい。で、今回はどこまで進んだの?」
「ですから、今度は妄想じゃ……!」
……あ。
私は、慌てて口を閉じた。
小宮さんの動きが止まった。
「……ん?」
「今度は……って、どういうこと?」
「……」
「いろは?」
「……何でもありません」
「いやいや、今、妄想じゃないって言ったよね?」
「……言ってません」
「言ったよ」
「……」
小宮さんは、私の顔をじっと見つめた。
さっきまでの、からかうような笑顔が少しずつ消えていく。
「……え?」
「……」
「ちょっと待って」
小宮さんが、ゆっくりと身を乗り出した。
「……まさか?」
私は、思わず視線を逸らした。
「いろは……佐伯さんと、何かあった?」
……もう、誤魔化せそうにありません。
私は、膝の上で両手をぎゅっと握った。
「……佐伯さんと」
「……うん」
「……お付き合いすることになりました」
「…………」
小宮さんは、固まった。
一秒。
二秒。
そして。
「……ええっ!?」
「こ、小宮さん! 声が大きいです!」
近くの席から、ちらりと視線が向けられる。
小宮さんは慌てて口を押さえた。
「ご、ごめん……!」
声を潜めて、もう一度私を見る。
「……本当に?」
「……はい」
「夢じゃなくて?」
「起きてました」
「妄想でもなくて?」
「現実です!」
「……うそ」
「嘘じゃありません!」
小宮さんは、しばらく私の顔を見つめていた。
そして、ふっと表情を緩めた。
「……そっかあ」
「……はい」
「よかったじゃん、いろは」
その声は、いつものからかうようなものではなかった。
「……ありがとうございます」
私も、照れながら笑った。
◇
「で、いつから?」
「北海道から帰ってきた翌朝です」
「えっ、帰ってきてすぐ?」
「……はい」
「どっちから告白したの?」
私は、思わず手元のパンに目を落とした。
「……私から、です」
「…………え?」
小宮さんが、また固まった。
「いろはから?」
「……はい」
「自分で?」
「……そうです」
「……すごいじゃん」
小宮さんは、驚いたように笑った。
「いや、本当に。頑張ったね」
「……はい」
「佐伯さん、何て?」
「……佐伯さんも、好きだって言ってくれました」
「そっかあ……」
小宮さんは、嬉しそうに頬杖をついた。
「よかったねえ」
「……はい」
「今まで、あんなに妄想ばっかりしてたのに」
「そ、それは言わないでください!」
「ふふっ。ごめんごめん」
小宮さんは笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ。ちゃんと自分で伝えたんだね」
「……はい」
「いろは、変わったね」
その言葉に、私は少し考えた。
北海道へ行く前の私なら。
きっと、こんな勇気は出せなかった。
「……そうかもしれません」
「うん。いい顔してる」
私は、照れ隠しに残っていたパンを一口食べた。
……甘い。
いつもより、少しだけ。
◇
「……ところでさ」
「はい?」
小宮さんが、飲み物のカップを置いた。
「佐伯さん、今日バイト?」
「え? はい。そうみたいですけど……」
「じゃあ、行こっか」
「……どこへですか?」
「佐伯さんのお店」
「…………え?」
思わず、小宮さんの顔を見た。
「い、今からですか?」
「うん」
「で、でも、お仕事中ですよ?」
「お客さんとして行くんだから、いいでしょ?」
「そ、それはそうですけど……」
「それに、ちゃんとお祝いも言いたいし」
小宮さんは、にっこり笑った。
……嫌な予感がします。
非常に、嫌な予感が。
「……小宮さん」
「ん?」
「変なこと、しませんよね?」
「変なことって?」
「……大きな声を出したり、とか」
「大丈夫、大丈夫!」
……。
その返事が、まったく信用できません。
「ほら、いろは。行くよ!」
小宮さんは立ち上がり、紙袋を手に取った。
「ま、待ってください! まだ心の準備が……!」
「付き合ったんだから、堂々としてればいいじゃん」
「そ、そういう問題じゃありません!」
私の抗議もむなしく。
小宮さんは、楽しそうに階段へ向かっていった。
……佐伯さん。
どうか。
今日だけは、お店が混んでいますように。
◇
カラン。
喫茶店の扉を開けると、聞き慣れたベルの音が響いた。
「いらっしゃいませ」
……佐伯さん。
カウンターの向こうにいた佐伯さんが、こちらを振り向いた。
「あ、水瀬さん」
私を見つけると、少し驚いたように笑った。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
「小宮さんも。お二人でお出かけですか?」
「そうなんです!」
小宮さんが、元気よく答えた。
「いろはから北海道のお土産をもらって、ちょっとお茶してたんですよ」
「そうだったんですね」
佐伯さんが、私を見る。
「楽しめました?」
「は、はい。とても……」
……。
おかしいです。
今朝もメッセージを交わしたのに。
昨日の夜だって、電話で話したのに。
こうして顔を合わせると、どうしてこんなに緊張するんでしょう。
「いろは、顔赤いよ?」
「小宮さん!」
佐伯さんが、少し照れたように笑った。
……もう。
お願いですから、余計なことは言わないでください。
◇
窓際の席に案内され、注文を済ませる。
幸い、お店にはほかのお客さんが数組いるだけだった。
……幸い?
いえ。
むしろ、もう少し混んでいてほしかったです。
「それじゃあ、少々お待ちください」
佐伯さんが、注文を取って戻ろうとした。
そのとき。
「……あ、佐伯さん!」
小宮さんが呼び止めた。
「はい?」
「そうそう。大事なこと言い忘れてた」
……。
嫌な予感がしました。
「小宮さん……?」
私の声など聞こえていないかのように、小宮さんは満面の笑みを浮かべた。
「いろはのこと、よろしくね!」
……。
…………。
「こ、小宮さぁぁん!?」
思わず立ち上がりそうになった。
佐伯さんは、一瞬きょとんとして。
それから、みるみる耳を赤くした。
「……はい」
小さく頷く。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
……。
……佐伯さん。
そんな真面目に答えなくても。
いえ。
嬉しいですけど!
◇
「……おい、湊」
カウンターの奥から、マスターの声がした。
「今のは、どういうことだ?」
「何? 何かあった?」
すると、奥から見知らぬ女性も顔を出した。
……どなたでしょう?
佐伯さんは、少しだけ私の方を見た。
そして、二人に向き直る。
「水瀬さんと、お付き合いすることになりました」
「……ほう」
マスターが、少し驚いた顔をした。
「そうか。よかったじゃないか」
「ありがとうございます」
「えっ、佐伯くん、彼女できたの?」
女性が、目を丸くする。
「はい」
「やるじゃん! おめでとう!」
「ありがとうございます、井上さん」
……井上さん。
どうやら、こちらで一緒に働いている方のようです。
私は、慌てて頭を下げた。
「は、初めまして。水瀬いろはです」
「あ、初めまして! 井上です。佐伯くんと一緒に働いてます」
「よ、よろしくお願いします」
井上さんは、にっこり笑った。
「こちらこそ。佐伯くん、よかったね!」
……。
佐伯さんは、いつもと変わらない様子なのに。
どうして私だけ、こんなに恥ずかしいんでしょう。
隣を見ると、小宮さんが満足そうに笑っていた。
……絶対、こうなると分かっていましたよね。
◇
「いやあ、めでたいねえ」
井上さんが、嬉しそうに笑った。
「佐伯くん、全然そんな話してくれなかったじゃん」
「まだ、付き合い始めたばかりなので」
「それでも、一言くらい教えてくれてもいいのに。あんなにウジウジ悩んでたじゃない」
「い、井上さん!」
佐伯さんが、珍しく慌てた声を上げた。
……え?
悩んでいた?
佐伯さんが?
……私のことで?
思わず、佐伯さんの顔を見る。
すると、佐伯さんは少し気まずそうに視線を逸らした。
……。
……そう、なんですか?
私だけじゃ、なかったんですね。
そう思った途端、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……ふふっ」
「……水瀬さん?」
「い、いえ。何でもありません」
今度は、佐伯さんが少し赤くなっていた。
……なんだか。
ちょっとだけ、嬉しいです。
◇
「……まったく、井上は余計なことを」
マスターが、呆れたように笑った。
「えー? だって本当のことじゃないですか」
「……井上さん、もう勘弁してください」
佐伯さんが、小さくため息をついた。
その様子を見て、小宮さんが私の肩をつついた。
「ねえ、いろは」
「……はい?」
「よかったね。両想いだったんじゃん」
「……っ!」
「しかも、佐伯さんも相当悩んでたみたいだし?」
「小宮さんまで……!」
……もう。
どうして、皆さんそんなに楽しそうなんでしょう。
マスターが、そんな私たちを見て笑った。
「まあ、そういうことなら」
「はい?」
「二人とも、ケーキは食べられるか?」
「……え?」
小宮さんが、ぱっと顔を上げた。
「食べられます!」
……早いです。
お返事が、ものすごく早いです。
「お祝いだ。サービスするよ」
「えっ、いいんですか!?」
「ああ。好きなのを選びな」
「ありがとうございます!」
小宮さんは、嬉しそうにショーケースを見た。
私は、慌ててマスターに頭を下げた。
「で、でも、そんな……」
「遠慮しなくていいよ。今日は特別だ」
マスターが、穏やかに笑った。
「……ありがとうございます」
◇
しばらくして。
私たちのテーブルに、ケーキが二つ運ばれてきた。
「お待たせ」
マスターが、皿を置く。
「改めて、おめでとう」
「ありがとうございます!」
小宮さんが、嬉しそうに答えた。
私も、もう一度頭を下げる。
「ありがとうございます。いただきます」
マスターは、カウンターにいる佐伯さんをちらりと見た。
「まあ、こんな気も利かないつまんないやつだけどさ」
「……マスター」
佐伯さんが、苦笑する。
「よろしく頼むよ、水瀬さん」
私は、思わず笑ってしまった。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
マスターは満足そうに頷くと、佐伯さんのそばを通り過ぎた。
そのとき。
パンッ!
「痛っっ!」
佐伯さんが、驚いてマスターを見る。
マスターは何事もなかったように、カウンターへ戻っていった。
◇
「……ふふっ」
思わず笑いがこぼれた。
「佐伯さん、大丈夫でしょうか……」
「大丈夫でしょ。あれ、マスターなりのお祝いなんじゃない?」
小宮さんは、楽しそうに笑っている。
「……そうかもしれませんね」
「それにしても、いいお店だねえ」
「はい。私も、そう思います」
私は、目の前のケーキを一口食べた。
優しい甘さが、口の中に広がる。
「……美味しい」
「でしょ? しかもサービスだよ。来てよかったねえ」
「……小宮さんは、そうでしょうね」
「えー? いろはだって嬉しかったでしょ?」
「それは……嬉しかったですけど」
マスターにも、井上さんにも祝福してもらえた。
佐伯さんも、私とのことを隠さずに話してくれた。
それに。
……佐伯さんも、悩んでいた。
井上さんの言葉を思い出す。
『あんなにウジウジ悩んでたじゃない』
……ふふっ。
「……いろは」
「は、はい?」
「また笑ってる」
「えっ?」
「今、佐伯さんのこと考えてたでしょ」
「……どうして分かるんですか」
「分かるよ。顔に書いてあるもん」
「……そんなに?」
「うん。ものすごく」
……困りました。
恋人になった途端、私の顔はそんなに分かりやすくなってしまったのでしょうか。
小宮さんは、楽しそうに笑った。
「でも、よかったね」
「……はい」
「ずっと好きだったもんね」
私は、少しだけ俯いた。
「……そうですね」
「しかも、自分から告白するなんて。正直、びっくりした」
「私も、びっくりしています」
「自分で?」
「……はい」
小宮さんが吹き出した。
「何それ!」
私も、つられて笑ってしまった。
◇
「……でさ」
「はい?」
小宮さんが、フォークを置いた。
「初デートはいつ?」
「……えっ?」
「付き合ってからの、ちゃんとしたデート」
「そ、それは……まだ決めていません」
「へえ。じゃあ、これからだ」
「……はい」
「楽しみだねえ」
「……そうですね」
思わず笑みがこぼれる。
「ほら、また!」
「こ、小宮さん!」
「もう隠さなくていいんだから、素直に喜べばいいじゃん」
……。
そう、ですよね。
私は、そっとカウンターの方を見た。
佐伯さんが、お客さんに飲み物を運んでいる。
いつもと変わらない姿。
けれど、今は。
……私の、恋人。
その言葉を心の中で呟くだけで、胸が温かくなる。
「……いろは」
「はい?」
「幸せそうで、よかった」
小宮さんが、優しく笑った。
「……ありがとうございます」
今度は、照れずに笑えた。
◇
帰り際。
佐伯さんが、入口まで見送ってくれた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ! ケーキもごちそうさまでした!」
小宮さんが、元気よく頭を下げる。
「マスターにもよろしく伝えてください」
「はい。伝えておきます」
佐伯さんが、私を見た。
「水瀬さん」
「……はい?」
「今日、終わったら電話しますね」
朝のメッセージと同じ言葉。
それなのに。
直接聞くと、やっぱり嬉しい。
「……はい。待ってます」
佐伯さんが、優しく笑った。
「はい」
……ああ。
早く、夜にならないでしょうか。
「……いろは」
「はい?」
隣から、小宮さんが顔を覗き込んだ。
「私、まだいるんだけど?」
「……っ!」
「いやあ、仲がよろしいことで」
「こ、小宮さん!」
佐伯さんが、小さく笑った。
私は、もう何も言い返せなかった。
◇
店を出ると、冬の冷たい空気が頬に触れた。
「……ねえ、いろは」
「はい?」
小宮さんが、隣を歩きながら言った。
「本当によかったね」
「……はい」
「今度は、ちゃんと現実なんだね」
私は、思わず笑った。
「……はい。現実です」
「じゃあ、これからは妄想の話、減っちゃうのかな」
「……どうでしょう」
「え?」
「それは、それで……別のお話です」
「……あははっ!」
小宮さんの笑い声が、冬の街に響いた。
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
想いが届いても。
恋人になっても。
……妄想はやめません。




