記憶にある響き
札幌。
新千歳空港から電車を乗り継ぎ、宗一郎は市内の神社を訪れていた。
境内には、冷たい風が吹いている。
「……久しぶりだな」
社務所の奥から現れた男性が、宗一郎を迎えた。
宗一郎が以前から世話になっている、神職の先輩だった。
「ご無沙汰しております」
「遠いところ、よく来たね」
「いえ。今日は、お時間をいただきありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくていい。さあ、入りなさい」
◇
温かいお茶が、二人の前に置かれた。
「それで?」
男性が、湯飲みを手に取る。
「わざわざ北海道まで来たんだ。何か、話があるんだろう?」
「…………」
宗一郎は、少しだけ視線を落とした。
「……神社のことです」
「うん」
「いずれは自分が継ぐものだと、ずっと思っていました」
「そうだろうね」
「でも、最近になって……」
宗一郎は、少し言葉を探した。
「本当に、それでいいのかと思うようになりまして」
「継ぎたくないのかい?」
「……いえ。そういうわけではないんです」
「…………」
「ただ、自分で選んだ道なのかと聞かれたら、答えられないんです」
男性は、静かに頷いた。
「なるほどね」
宗一郎は、湯飲みに目を落とした。
「小さい頃から、神社があるのが当たり前でした」
「うん」
「そこで生まれて、育って。いつか自分が宮司になるものだと……」
「…………」
「でも、それ以外の人生を考えたことがないまま、決めてしまっていいのかと」
しばらく。
部屋に、沈黙が流れた。
◇
「宗一郎君」
男性が、ゆっくりと口を開いた。
「神社を継ぐというのは、簡単なことじゃない」
「……はい」
「守るものも多いし、責任もある」
宗一郎は、頷いた。
「でもね」
男性は、湯飲みを置いた。
「継がないという道を選ぶことも、簡単じゃないんだよ」
「…………」
「どちらを選んでも、何かを背負うことになる」
宗一郎は、顔を上げた。
「だからこそ、自分で決めなさい」
「……自分で」
「ああ」
男性は、穏やかに笑った。
「君の家族のためでも、私のためでもない」
「…………」
「君が、これから生きていく人生なんだから」
その言葉に。
宗一郎は、すぐには答えられなかった。
「……ありがとうございます」
ようやく、それだけを口にした。
◇
神社を後にした頃には、午後になっていた。
宗一郎は、札幌の街を歩きながら考えていた。
自分で決める。
言葉にすれば、簡単なことだ。
けれど。
今まで当たり前だと思っていた道を、自分の意思で選び直す。
それは、思っていた以上に難しかった。
「……せっかく北海道まで来たんだしな」
立ち止まり、時計を見る。
まだ、時間はある。
宗一郎は、駅へと向かった。
行き先は、小樽。
特別な理由があったわけではない。
ただ、少しだけ。
知らない街を歩いてみたくなった。
◇
小樽。
駅を出ると、札幌とはまた違った街並みが広がっていた。
坂道。
古い建物。
観光客の姿。
宗一郎は、特に目的地を決めずに歩いた。
「……いい街だな」
初めて訪れる場所。
知らない道。
誰も、自分が神社の息子だとは知らない。
それが、不思議と心地よかった。
しばらく歩いていると、一軒の菓子店が目に入った。
店先には、色とりどりの菓子が並んでいる。
「……土産でも買っていくか」
宗一郎は、店の中へ入った。
◇
店内には、甘い香りが漂っていた。
棚に並ぶ菓子を眺めながら、宗一郎はゆっくりと歩く。
「……これなら、父さんも食べるかな」
小さな箱を手に取る。
そのまま、会計へ向かった。
「こちらでよろしいですか?」
「はい。お願いします」
店員が、丁寧に箱を包んでいく。
宗一郎は、代金を支払い、紙袋を受け取った。
「ありがとうございました」
「どうも」
軽く頭を下げ、店を後にした。
◇
冷たい風が、頬を撫でる。
宗一郎は、紙袋を片手に歩き始めた。
「……さて、次はどこへ行こうか」
見知らぬ街を、あてもなく歩く。
それも、悪くない。
そう思ったとき。
「あの、すみません!」
背後から声がした。
宗一郎は、足を止めた。
「…………」
聞き覚えのある声。
まさか。
そう思いながら振り返る。
一人の女性が、小走りで近づいてきた。
「こちら、落とされませんでしたか?」
差し出されたのは、財布だった。
「……あっ!」
宗一郎は、慌ててポケットを確かめた。
ない。
「すみません! ありがとうございます」
財布を受け取り、女性に目を向けた。
「……やっぱり」
「え?」
女性が、不思議そうに顔を上げる。
宗一郎の顔を見て、一瞬動きを止めた。
「あ……!」
そして、驚いたように笑った。
「飛行機のときの!」
「はい。あのときはお世話になりました」
「こちらこそ。こんなところでお会いするなんて」
女性は、もう一度宗一郎の顔を見た。
「でも、今はお顔の色がいいみたいですね」
「……おかげさまで」
二人は、思わず笑った。
◇
「本当に、ありがとうございました」
宗一郎は、財布をポケットにしまいながら言った。
「いえ。お気になさらないでください」
「……あの」
宗一郎は、少し迷った。
「お仕事は、もう終わられたんですか?」
「はい。今日はもう終わりなんです」
「そうだったんですね」
「実は、実家がこの近くにありまして」
「そうなんですか」
「ええ。帰る前に、ちょっと買い物をと思って」
「なるほど」
会話が途切れる。
けれど。
不思議と、気まずくはなかった。
「あの……」
今度は、女性が口を開いた。
「もし、お時間があるようでしたら」
「……はい?」
「少し、お話ししませんか?」
宗一郎は、目を瞬かせた。
「……僕と、ですか?」
「はい」
女性は、にっこりと笑った。
「せっかく、二度もお会いしたので」
「…………」
宗一郎は、少しだけ考えた。
そして。
「……ぜひ」
そう答えた。
女性の笑顔が、ふわりと明るくなる。
「よかった」
その声を聞いた瞬間。
宗一郎は、思い出していた。
揺れる機内で。
肘掛けを握りしめていた自分に。
優しく声をかけてくれたことを。
あのとき。
不思議と、気持ちが落ち着いたことを。
記憶に残っていた、その響き。
今は。
すぐ隣から、聞こえていた。




