懐かしむ、笑顔
北海道。
一人旅、二日目。
「……よし」
私は、ホテルの鏡の前で。
小さく、気合いを入れました。
今日の目的地は。
小樽。
幼い頃に、何度か訪れた街です。
そして。
久しぶりに、祖母に会う日でもあります。
「……楽しみです」
私は、手袋をはめました。
淡いピンクベージュ。
小さなリボンのついた、大切な手袋です。
「……ふふ」
鏡の中の私は。
少しだけ、嬉しそうな顔をしていました。
◇
札幌駅。
私は、電車の窓側に座っていました。
行き先は、小樽。
車窓には。
雪に覆われた街並みが流れていきます。
やがて。
建物が少なくなり。
窓の向こうに。
海が見えました。
「……わあ」
冬の海。
灰色がかった空。
波打ち際に、残る雪。
仙台で見る海とも。
少し違う表情をしています。
私は、窓に顔を近づけました。
「……綺麗」
しばらく。
その景色を眺めていました。
誰かと一緒なら。
きっと、何かを話していたのでしょう。
でも。
今は、一人。
窓の外の景色を。
自分の好きなだけ、眺めています。
それも。
悪くありません。
◇
小樽駅。
「……着きました」
ホームに降り立つと。
冷たい空気が、頬を包みました。
札幌とは、また違う雰囲気。
どこか、ゆっくりとした時間が流れているように感じます。
私は、駅の外へ出ました。
目の前には。
海へ向かって続く、坂道。
そして。
雪をまとった街並み。
「…………」
不思議です。
初めて見るような。
でも。
どこか、懐かしい。
そんな景色でした。
◇
祖母の家へ向かう前に。
私は、少しだけ街を歩くことにしました。
小樽運河。
雪の積もった石造りの建物。
静かに流れる水面。
観光客の姿。
「……綺麗」
私は、しばらくその景色を眺めていました。
ふと。
手袋をはめた手を、ぎゅっと握ります。
冷たい風が、頬を撫でました。
けれど。
不思議と、寒さは感じませんでした。
一人で歩いているはずなのに。
まるで。
あの人が、隣にいてくれるような。
そんな安心感を、覚えました。
「……ふふ」
私は、もう一度。
雪の街へと目を向けました。
そのとき。
ふと。
小さな記憶が、蘇りました。
『いろは、転ばないようにね』
「…………」
誰かの声。
優しく、手を引いてくれた人。
小さな私。
雪の道。
「……おばあちゃん」
思わず、呟きました。
そうです。
幼い頃。
祖母と、ここを歩いたことがあったのです。
……たぶん。
曖昧な記憶ですが。
胸の奥に残る温かさだけは。
確かに、覚えていました。
私は、もう一度。
雪の道を見つめました。
「……ただいま」
小さく、呟きます。
誰に聞かせるでもなく。
懐かしい街へ。
帰ってきたような気がしました。
◇
午後。
私は、祖母の家の前に立っていました。
「…………」
久しぶりです。
本当に。
何年ぶりでしょう。
私は、玄関の呼び鈴を押しました。
少しして。
扉が開きます。
「……あら!」
そこには。
懐かしい笑顔がありました。
「いろは!」
「おばあちゃん!」
祖母は、目を細めました。
「まあまあ。大きくなって」
「……もう、二十一歳です」
「そうだったねえ」
祖母は、嬉しそうに笑います。
「寒かったでしょう。さあ、入りなさい」
「はい。お邪魔します」
「何言ってるの。自分の家だと思って、ゆっくりしていきなさい」
「……はい!」
私は、笑顔で頷きました。
◇
居間には。
温かいお茶と。
お菓子が用意されていました。
「……懐かしい」
私は、部屋を見渡しました。
昔と。
あまり変わっていない気がします。
棚の上の置物。
壁の時計。
窓際の、小さな花。
「覚えてるかい?」
祖母が尋ねました。
「……少しだけ」
「小さい頃は、よくここで遊んでたんだよ」
「そうなんですね」
「雪が降ると、外に出たがってねえ」
「……私が?」
「そうそう。寒いのに、なかなか帰ろうとしなくて」
「お母さんに、よく怒られてたよ」
「……そうなんですか」
「でも、帰ってくると、すぐに眠っちゃってね」
祖母は、楽しそうに笑いました。
「懐かしいねえ」
「……はい」
私は、お茶を一口いただきました。
温かい。
身体の奥まで。
ほっとするような味でした。
◇
「それにしても」
祖母が、私を見つめました。
「一人で北海道まで来るなんて、立派になったねえ」
「……そんなことありません」
「そうかい?」
「空港では、少し迷いましたし……」
「ふふふ」
「雪道では、キャリーケースが動かなくなりました」
「あらまあ」
祖母は、声を上げて笑いました。
「それでも、ちゃんと来られたじゃない」
「……はい」
「自分で行きたいと思って、自分で来たんでしょう?」
「……はい」
祖母は、優しく頷きました。
「それなら、十分だよ」
「…………」
その言葉に。
胸の奥が、少し温かくなりました。
私は、少し迷ってから。
口を開きました。
「……おばあちゃん」
「何だい?」
「私、今まで……」
言葉を探します。
「将来のことを、あまり考えてこなかったんです」
祖母は、黙って聞いてくれました。
「神社を継ぐのが、当たり前だと思っていて」
「うん」
「でも、最近……それでいいのかなって」
私は、膝の上で手を重ねました。
「自分で決めたことじゃないのに、当たり前だと思っていたんです」
「……そうかい」
祖母は、ゆっくりと頷きました。
「だから、少しだけ……外の世界を見てみたくなって」
「それで、北海道に?」
「……はい」
祖母は、しばらく私を見つめていました。
そして。
穏やかに、微笑みました。
「お母さんもねえ」
「……え?」
「若い頃は、いろんなことを考えていたよ」
「……お母さんが?」
「そう。今のいろはと同じくらいの頃かな」
私は、思わず身を乗り出しました。
「お母さんも、将来のことで悩んでいたんですか?」
「悩んでいたというより……」
祖母は、少し考えるように目を細めました。
「自分のやりたいことに、まっすぐな子だったねえ」
「…………」
お母さんが。
自分のやりたいことに。
まっすぐ。
「……そうだったんですね」
「ふふ。今とは、少し違って見えるかい?」
「……はい」
祖母は、楽しそうに笑いました。
「そうだねえ。せっかくだから、昔の写真でも見せようか」
「……写真?」
「うん。お母さんが若い頃のね」
「…………」
お母さんの。
若い頃の写真。
そういえば。
私は、あまり見たことがありません。
「ちょっと待ってておくれ」
祖母は、ゆっくりと立ち上がりました。
そして。
居間の奥へと歩いていきます。
私は、一人。
湯飲みを手にしたまま。
その背中を見送りました。
……お母さんの、昔。
どんな人だったのでしょう。
今と同じように。
優しくて。
少しだけ、いたずら好きで。
そして。
私のことを。
何でも見透かしてしまうような人だったのでしょうか。
しばらくして。
祖母が戻ってきました。
その手には。
少し古びた、一冊のアルバム。
「……これこれ」
祖母は、懐かしそうに表紙を撫でました。
「ずいぶん久しぶりに出したねえ」
私は、そっと。
アルバムを覗き込みました。
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
そこには。
まだ、私の知らない。
母の時間が。
静かに、眠っていました。




