飛び立つ先の呼吸
冬休み。
ついに。
この日が、やってきました。
「…………」
私は、玄関に置かれたキャリーケースを見つめていました。
三泊四日。
北海道への、一人旅。
行き先は。
札幌と、小樽。
「……大丈夫」
小さく、呟きます。
荷物は、確認しました。
着替え。
化粧品。
スマートフォン。
充電器。
お財布。
そして。
お父さんから預かった、お土産。
札幌にいらっしゃる、神職の先輩へお渡しするものです。
「……よし」
準備は、万全。
……の、はずです。
「いろは」
振り返ると。
母が立っていました。
「忘れ物はない?」
「はい。何度も確認しました」
「そう。おばあちゃんによろしくね」
「はい」
母は、私の首元に目を向けました。
「マフラー、ちゃんと巻いていきなさいね」
「巻いています」
「手袋も?」
「……はい」
私は、両手を持ち上げました。
淡いピンクベージュの手袋。
佐伯さんからいただいた、大切な贈り物です。
母は、それを見ると。
少しだけ、笑いました。
「よかったわね」
「…………」
なぜでしょう。
その言い方には。
別の意味が含まれている気がします。
「……行ってきます」
「気をつけてね」
そこへ。
父が、廊下の奥から姿を現しました。
「いろは」
「はい」
「札幌は、仙台より寒いぞ」
「はい」
「雪道には気をつけろ」
「はい」
「それから、土産を忘れるな」
「……はい」
「……本当に入れたか?」
「入れました!」
三回、確認しました。
父は、満足そうに頷きます。
「そうか」
そして。
少しだけ、表情を緩めました。
「楽しんでこい」
「……はい!」
私は、キャリーケースの持ち手を握りました。
初めて。
自分で決めた、旅。
いよいよ、出発です。
◇
仙台空港。
「…………」
私は、出発案内の電光掲示板を見上げました。
新千歳。
その文字を見つけた瞬間。
胸が、どきりとします。
本当に。
北海道へ行くのですね。
「……ええと」
まずは。
搭乗手続き。
荷物を預けて。
保安検査を受けて。
搭乗口へ。
……予習は、完璧です。
スマートフォンにも。
手順を保存してあります。
念のため。
紙にも書いてきました。
さらに。
頭の中でも、三回確認しました。
「…………」
それなのに。
なぜでしょう。
目の前にすると。
急に、何もわからなくなります。
……落ち着いてください、私。
空港は、逃げません。
飛行機は。
……時間になったら、飛んでいきます。
「……っ!」
それは困ります!
私は、慌てて歩き出しました。
◇
無事に手続きを終え。
搭乗口の椅子に腰を下ろします。
「……ふう」
第一関門、突破です。
まだ。
北海道には着いていませんが。
すでに、ひと仕事終えた気分です。
そのとき。
スマートフォンが震えました。
画面には。
佐伯さんの名前。
『今日から北海道でしたよね。気をつけて行ってきてください』
「…………」
思わず。
頬が緩みました。
『ありがとうございます。今、仙台空港です』
少しして。
返信が届きます。
『もう空港なんですね。北海道、楽しんできてください』
『はい!』
送信してから。
私は、スマートフォンを胸元に寄せました。
……ふふ。
不思議です。
たった数行のやり取りなのに。
さっきまでの緊張が。
少しだけ、和らぎました。
「…………」
私は、窓の向こうに目を向けました。
大きな飛行機が。
ゆっくりと、動いています。
あれに。
乗るのですね。
一人で。
「……大丈夫」
今度は。
先ほどよりも。
少しだけ、自然に言えました。
◇
機内。
私は、窓側の席に座っていました。
「…………」
シートベルト。
確認。
荷物。
確認。
スマートフォン。
機内モード。
確認。
……完璧です。
たぶん。
やがて。
機内にアナウンスが流れました。
飛行機が。
ゆっくりと、動き始めます。
「…………っ」
手袋を外した両手を。
膝の上で、ぎゅっと握りました。
速度が。
少しずつ、上がっていきます。
そして。
ふわり。
身体が、浮き上がるような感覚。
「……!」
窓の外で。
地面が、遠ざかっていきました。
建物が。
道路が。
街が。
少しずつ、小さくなっていきます。
「…………」
私は。
思わず、息を呑みました。
見慣れたはずの景色が。
まったく違うものに見えます。
やがて。
飛行機は、雲の上へ。
「……綺麗」
窓の外には。
どこまでも続く、白い世界。
まるで。
雪原のようでした。
私は、しばらく。
その景色を見つめていました。
今まで。
自分の世界は。
神社と。
大学と。
いつもの街。
それだけで。
十分だと思っていました。
けれど。
その外には。
こんな景色が、広がっていたのですね。
「…………」
私は、窓に映る自分を見つめました。
少しだけ。
緊張した顔。
でも。
どこか、楽しそうな顔。
……こんな私も。
いたのですね。
◇
新千歳空港。
「……着きました」
北海道。
ついに。
到着です。
飛行機を降りると。
仙台とは違う、冷たい空気が感じられました。
私は、預けた荷物を受け取り。
案内表示を頼りに、駅へ向かいます。
「……札幌行き」
切符の買い方。
乗り場。
時刻。
一つずつ、確認します。
誰かが隣にいて。
教えてくれるわけではありません。
少し、不安です。
でも。
自分で調べて。
自分で決めて。
自分で進む。
それが。
なんだか、楽しくもありました。
◇
札幌。
駅を出た瞬間。
「…………!」
私は、思わず立ち止まりました。
白い。
街が、白いのです。
歩道の脇に積もった雪。
屋根の上の雪。
遠くまで続く、冬の街並み。
「……すごい」
思わず、声が漏れました。
冷たい風が。
頬を撫でます。
私は、手袋をはめ直しました。
「……温かい」
小さく、微笑みます。
そして。
キャリーケースを引きながら。
一歩、踏み出しました。
……が。
「……あれ?」
ケースが。
動きません。
「…………」
もう一度。
引っ張ります。
ごろごろ。
……ご。
「…………」
雪。
車輪。
動かない。
「……えっ」
まさか。
ここに来て。
最大の敵が。
雪道だったとは。
「…………」
私は、キャリーケースを見つめました。
そして。
ゆっくりと、持ち上げます。
「……重い」
三泊四日。
荷物を詰めすぎたようです。
……先が思いやられます。
それでも。
私は、顔を上げました。
目の前には。
まだ知らない、冬の街。
初めて見る景色。
初めて歩く道。
そして。
これから出会う、何か。
私は。
小さく、息を吸いました。
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
降り立つ、北の大地。
不安。
期待。
そのすべてが。
今。
目の前に、広がっていました。




