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歩幅を合わせくれた、始まりの日

十二月三日。


 午前七時。


 私は、鏡の前に立っていた。


「…………」


 右を向く。


 左を向く。


 もう一度、正面。


「……うん」


 悪くありません。


 ……たぶん。


 今日は。


 私の誕生日。


 そして。


 佐伯さんと。


 二人きりで。


 お出かけする日。


「…………」


 ……デート。


 デートです。


 お誕生日デートです!


 しかも。


 佐伯さんからのお誘い。


「……ふふ」


 いけません。


 顔が緩みます。


 ちなみに。


 昨夜は、なかなか眠れませんでした。


 何を着ていくか。


 髪をどうするか。


 佐伯さんに会ったら、最初に何と言うか。


 そんなことを考えていたら。


 いつの間にか、午前二時。


 ……大学の試験前でも。


 ここまで真剣に悩んだことはありません。


◇


「いろは?」


「……はいっ!」


 部屋の外から、お母さんの声。


「そろそろ朝ごはんよ」


「はーい!」


 私は、もう一度鏡を見た。


 今日の私は。


 いつもより。


 少しだけ。


 大人っぽい。


 ……気がします。


◇


「お誕生日おめでとう、いろは」


「おめでとう」


「ありがとう、お父さん、お母さん」


 朝食の席。


 両親が、いつものように祝ってくれた。


「二十一歳か。早いものだな」


 お父さんが、しみじみと言う。


「この間まで、小さかったのにな」


「もう大人ですから」


「そうね」


 お母さんが微笑む。


「それで、今日はお出かけ?」


「……うん」


「誰と?」


「…………」


 来ました。


 この質問。


「……お友達と」


「あら、そう。佐伯さん?」


「…………っ!」


 なぜ。


 名前が。


「……ど、どうして分かるの!?」


「ふふ。やっぱり」


 しまった。


 自白しました。


「楽しんでいらっしゃい」


「……はい」


 向かいでは、お父さんが静かに味噌汁を飲んでいる。


「……お父さん」


「ん?」


「何か言うことは……」


「……誕生日おめでとう」


「それは、さっき聞きました!」


 お母さんが笑った。


 もう。


 この家では、味方がいません。


◇


 待ち合わせ場所には、少し早く着いた。


 ……少し。


 と言っても、三十分ほど。


 早すぎました。


 でも、仕方ありません。


 今日は、特別な日ですから。


「水瀬さん!」


「……あっ!」


 振り向く。


 佐伯さんが、こちらへ歩いてきた。


 いつもとは違う私服姿。


 今日の佐伯さんは、いつもより少しだけ格好よく見えます。


「おはようございます」


「お、おはようございます!」


 佐伯さんは、私の前で足を止めた。


 そして、にっこりと笑った。


「誕生日、おめでとうございます」


「…………」


 だめです。


 朝から、これは反則です。


「……ありがとうございます」


 何とか、それだけ答えた。


「じゃあ、行きましょうか」


「……はい!」


 私は、佐伯さんの隣に並んだ。


「まず、水族館に行こうと思ってるんです」


「……水族館!?」


「はい。嫌いでした?」


「い、いえ!」


 むしろ、大好きです。


 ……水族館が。


 というより、佐伯さんと行く水族館が。


◇


 館内に入ると、目の前に大きな水槽が広がっていた。


「……わあ」


 青い水の中を、魚たちが泳いでいる。


 光が揺れて、まるで別の世界みたいだった。


「綺麗ですね」


「……はい」


 隣を見る。


 佐伯さんも、水槽を眺めていた。


 今日は、妄想している場合ではありません。


 ちゃんと、この時間を楽しみたい。


 これは、頭の中で描いたデートじゃなくて。


 本当に、佐伯さんと過ごしている私の誕生日なのだから。


◇


「あっ」


「どうしました?」


「あの魚、さっきから同じところを泳いでます」


「本当だ」


 佐伯さんが、私の指さした方を見る。


 少し、顔が近い。


「……っ」


 私は、慌てて水槽へ視線を戻した。


 魚。


 魚を見ましょう。


 今日は、魚を見に来たんです。


 ……佐伯さんと。


 やっぱり、魚どころではありません。


◇


 次に向かったのは、クラゲの展示だった。


 薄暗い空間。


 淡い光の中を、透明なクラゲが漂っている。


「……わあ」


 ゆっくり。


 ふわり。


 ふわり。


「……いいなあ」


「クラゲですか?」


「……はい」


「どうして?」


「……何だか、自由そうで」


「自由、か」


「はい。どこへ行くか、決めなくてもいいみたいで」


 ……また、将来のことを考えてしまいました。


「……でも」


 佐伯さんが、水槽を見つめたまま言った。


「クラゲって、自分で泳ぐのが苦手なんですよね」


「……え?」


「水の流れに乗ってることが多いって、聞いたことがあります」


「……そうなんですか?」


「たぶん。詳しくはないですけど」


 佐伯さんが笑う。


「自由に見えて、案外そうでもないのかもしれませんね」


 水槽の中。


 クラゲが、ゆっくりと流れていく。


 自由に見えて、流れに任せている。


 何だか、少しだけ自分に似ている気がしました。


◇


 水族館を出る頃には、すっかりお昼になっていた。


「お腹、空きました?」


「……はい」


「じゃあ、お昼にしましょうか」


 佐伯さんに案内されたのは、落ち着いた雰囲気のレストランだった。


 窓際の席。


 向かい合って座る。


「何にします?」


「……迷いますね」


 メニューを開く。


 パスタ。


 ハンバーグ。


 オムライス。


 以前も、一緒に食事をしたことはある。


 でも今日は、私の誕生日。


「……水瀬さん?」


「は、はい!」


「決まりました?」


「……まだです!」


 危ない。


 また、メニューを見ずに佐伯さんを見ていました。


◇


 食事を終えたあと、私たちはアウトレットへ向かった。


 広い通路に、たくさんのお店が並んでいる。


「何か見たいもの、あります?」


「……そうですね」


 洋服。雑貨。バッグ。


 どこも気になる。


 けれど、佐伯さんを振り回してしまうのも……。


「遠慮しなくていいですよ」


「……え?」


「今日は水瀬さんの誕生日なんですから」


 そんなことを、さらっと言わないでください。


 心臓が、もちません。


「……じゃあ、少しだけ」


「はい」


◇


 いくつかのお店を見て回ったあと。


 私たちは、通路にあるベンチで少し休むことにした。


「……結構、歩きましたね」


「そうですね。疲れてませんか?」


「大丈夫です!」


 ……本当は、少しだけ足が疲れています。


 でも、佐伯さんと一緒なら、まだまだ歩けそうです。


「……あ、そうだ」


 佐伯さんが、隣に置いていたバッグに手を伸ばした。


「水瀬さん」


「……はい?」


「渡したいものがあるんです」


「……え?」


 佐伯さんが取り出したのは、小さな紙袋だった。


「誕生日プレゼントです」


「…………」


「……私に、ですか?」


「もちろん」


 差し出された紙袋。


 そこには、見覚えのあるロゴ。


 これ、私の好きなブランドです。


「……開けても、いいですか?」


「はい」


 私は、そっと包みを開いた。


 中に入っていたのは、淡いピンクベージュの手袋。


 手首には、小さなリボン。


 上品で、可愛らしくて。


 すごく、私の好みです。


「……どうして、これを?」


「この前、境内で手が冷たそうだったので」


 ……覚えていて、くれたんだ。


「それに、水瀬さんに似合いそうだなって」


 私は、手袋をそっと手に取った。


「……ありがとうございます」


「すごく、嬉しいです」


「よかった」


 佐伯さんが、ほっとしたように笑う。


「実は、結構迷ったんです。こういうの、選んだことがなくて」


「……そうなんですか?」


「はい。お店の人にも相談して」


 私のために。


 お店まで行って。


 悩んで、選んでくれた。


 その時間が、とても嬉しかった。


「……つけてみても、いいですか?」


「もちろん」


 私は、そっと手袋をはめた。


 柔らかくて、温かい。


「……どうですか?」


「……ぴったりです」


「よかった」


 これから、寒い朝も。


 境内を掃くときも。


 きっと、この手袋を使うのでしょう。


「……大切にします」


「使ってくださいね。飾らないで」


「……っ!」


 なぜ、分かったのでしょう。


 危うく、神棚に飾るところでした。


 ……いえ、さすがにそれはしませんけど。


 ……たぶん。


◇


 アウトレットを出る頃には、空が茜色に染まり始めていた。


「……もう、こんな時間なんですね」


「そうですね」


 佐伯さんが、腕時計を見る。


「水瀬さん、もう少し時間ありますか?」


「……はい」


「じゃあ、最後に一か所だけ、寄ってもいいですか?」


「……どこですか?」


「前に、一緒に行った場所です」


 前に、一緒に行った場所。


「行けば分かりますよ」


 佐伯さんが笑う。


「……はい!」


 私は、頷いた。


 手には、先ほどいただいた手袋。


 温かい。


 それだけで、何だか嬉しくなってしまう。


◇


「……あ」


 たどり着いた場所を見て、思わず声が漏れた。


 覚えている。


 ここは、以前佐伯さんと一緒に訪れた場所。


 街を見渡せる、小高い場所だった。


 眼下には、夕暮れの仙台。


 建物の窓に、少しずつ明かりが灯り始めている。


「……久しぶりですね」


「そうですね」


 佐伯さんが、隣に並んだ。


 しばらく、二人で景色を眺めた。


「俺、ここには結構来るんです」


「……そうなんですか?」


「はい。考え事があるときとか」


「就職活動がうまくいかなかった頃も、何度か」


 佐伯さんは、少し照れたように笑った。


「まあ、ここに来たからって、何か解決するわけじゃないんですけど」


「……そうなんですね」


「でも、何となく落ち着くんですよ」


 私は、もう一度街を見下ろした。


 たくさんの建物。


 たくさんの明かり。


 その一つ一つに、きっと誰かの暮らしがある。


 誰かの仕事がある。


 そして、誰かの選んだ道がある。


「……佐伯さん」


「はい?」


「私、最近、いろんなことを考えていたんです」


「……うん」


「大学を卒業したら、どうするのか、とか」


 私は、手袋をはめた両手を見つめた。


「今までは、神社を継ぐことしか考えていませんでした」


「でも、それって、本当に自分で決めたことなのかなって」


 佐伯さんは、何も言わずに聞いてくれていた。


「小宮さんと、いろんなお店を見たり。図書館で調べたり。昔の先生に会ったり」


「……そうだったんですね」


「はい」


 私は、小さく笑った。


「いろんな人の話を聞くたびに、分からなくなっちゃって」


「……でも」


 私は、顔を上げた。


「一つだけ、やってみたいことができたんです」


「……何ですか?」


 少しだけ緊張した。


 まだ誰にも話していないこと。


 でも、佐伯さんには最初に聞いてほしかった。


「……私、一人で旅行してみようと思うんです」


「……旅行?」


「はい」


「一人で?」


「……はい」


 佐伯さんは、少し驚いた顔をした。


「へえ。いいですね」


「……そう、ですか?」


「はい。どこに行くんです?」


「……まだ、決めていません」


「そうなんですか」


「はい。冬休みに行けたらなって」


「なるほど」


 佐伯さんは、街の方へ目を向けた。


「冬だと、寒いところは結構大変かもしれませんね」


「……そうですよね」


「でも、楽しそうです」


 私は、思わず佐伯さんを見た。


「……止めないんですか?」


「え?」


「その……私、一人で遠くへ行ったことが、あまりなくて」


「ああ」


 佐伯さんは、少し考えてから答えた。


「心配なこともあるでしょうけど、行きたい場所があるなら、いいと思いますよ」


「俺も、仙台に出てきたばかりの頃は、知らないことだらけでしたし」


「……そうですよね」


「まあ、準備だけはしっかりした方がいいですけどね」


 そう言って、笑った。


 私は、つられて笑った。


「……はい」


 何だか、少しだけ肩の力が抜けた気がした。


 まだ、どこへ行くかも。


 何を見たいのかも、決まっていない。


 それでも、行ってみようと思った。


 その気持ちを、大切にしてもいいのかもしれない。


「……ありがとうございます」


「何がですか?」


「……何でもありません」


 私は、笑った。


 そして、手袋をはめた両手をぎゅっと握った。


 温かい。


 佐伯さんが、私のために選んでくれた手袋。


 これをつけて、知らない街を歩くのも。


 きっと、楽しいのでしょう。


◇


 帰り道。


 佐伯さんは、家の近くまで送ってくれた。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。楽しかったです」


「……私もです」


 私は、小さく笑った。


「……すごく」


 佐伯さんも、笑ってくれた。


「じゃあ、また明日」


「……はい!」


 佐伯さんが、手を振る。


 私も、手を振り返した。


 そして、その背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。


 今日、二十一歳になった。


 何かが急に変わったわけじゃない。


 将来の答えが、見つかったわけでもない。


 でも、初めて自分で何かを決めてみようと思った。


 知らない場所へ、一人で行ってみる。


 それだけのこと。


 だけど、今の私には、とても大きな一歩だった。


◇


恋愛経験ゼロ。


妄想の中では恋愛無双。


二十一歳。


初めての一日。


まだ見ぬ景色。


まだ知らない私。


そして。


今日という日を。


あなたと。


いつか振り返る。


そんな日が訪れますように。

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