近づく、背中
翌朝。
「…………」
石段の下。
見慣れた姿が、
こちらへ向かってくる。
「…………」
佐伯さん。
「…………」
昨日までなら。
ただ、
そう思うだけだった。
「…………」
なのに今日は。
『俺もです』
「…………」
昨夜の文字が、
頭に浮かぶ。
「…………ふふっ」
なぜ今、
思い出すのでしょう。
「…………」
佐伯さんが、
石段を上ってくる。
「おはようございます、水瀬さん」
「…………」
「おひゃ、おはようございます」
「…………」
噛みました。
朝の挨拶で。
噛みました。
「どうかしました?」
「い、いえ」
「…………」
佐伯さんが、
不思議そうにこちらを見る。
「…………」
いけません。
今日は、
朝からおかしいです。
「…………」
「じゃあ、俺そろそろ行きます」
「あ……はい」
「また明日」
「…………」
「はい」
「また明日」
「…………」
佐伯さんが、
石段を下りていく。
「…………」
でも。
今日は、
明日まで待たなくても。
夜になれば、
また話せる。
「…………ふふっ」
◇
「いろは」
「はい?」
「…………」
「なに、その顔」
「顔?」
「うん」
「…………」
向かいに座る結衣が、
じっと私を見る。
「何か、
ついていますか?」
「ついてないけど」
「…………」
「今日、なんか機嫌よくない?」
「…………」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
「…………」
ランチを一口、
口へ運ぶ。
「いつも通りです」
「ふーん」
「…………」
そう。
いつも通り。
「…………」
そのはずなのですが。
「…………」
テーブルの端に置いた、
スマートフォンを見る。
「…………」
まだ、
何も来ていない。
「…………」
夜は、
まだでしょうか。
「…………」
「いろは」
「はい?」
「スマホ」
「…………」
「さっきから何回見てるの?」
「…………」
「見てません」
「見てるじゃん」
「…………」
スマートフォンを、
伏せる。
「…………」
「誰かから連絡待ってる?」
「いえ」
「即答」
「…………」
結衣が、
にやりと笑う。
「何?」
「何でもありません」
「ふーん」
「…………」
その時。
ぶるっ。
「…………」
スマートフォンが、
震えた。
「…………」
反射的に、
手が伸びる。
「…………」
『佐伯湊』
「…………」
「ふふっ」
「…………」
「あ」
「…………」
向かいを見る。
結衣が、
じっとこちらを見ていた。
「…………」
「佐伯くん?」
「…………」
「な、なぜ」
「見えた」
「…………」
迂闊でした。
「…………」
結衣が、
少し身を乗り出す。
「連絡先、交換したんだ?」
「…………」
「はい」
「へえー」
「…………」
「いつ?」
「昨日です」
「昨日!?」
「声が大きいです」
「だって」
「…………」
もう一度、
スマートフォンを見る。
『今日はバイトです』
「…………」
たった、
それだけ。
「…………」
なのに。
「ふふっ」
「…………」
「いろは」
「はい?」
「顔」
「…………」
「すっごい嬉しそう」
「…………」
慌てて、
口元を押さえた。
「…………」
「別に」
「別に?」
「バイトなのですね、と」
「それでその顔?」
「…………」
返す言葉が、
ありません。
「…………」
『頑張ってください』
送信。
「…………」
すぐに、
既読がつく。
『ありがとうございます』
「…………」
そして。
『終わったら、また連絡します』
「…………」
「ふふっ」
「…………」
「いろは」
「…………」
「はい」
「もう隠す気ないでしょ」
「…………」
そんなつもりは、
ないのですが。
「…………」
どうやら。
今日の私は、
少しだけ。
浮かれているようです。
◇
「佐伯くん」
「はい」
「三番、お願い」
「はい」
「…………」
トレーを持って、
テーブルへ向かう。
「…………」
ポケットの中で、
スマートフォンが震えた。
「…………」
今。
来た……?
「佐伯くん」
「はい?」
「…………」
井上さんが、
俺を見る。
「今日、機嫌いいね」
「…………」
「そうですか?」
「うん」
「…………」
昨日は、
ずっとぼーっとしてるし。
今日は、
機嫌がいい。
「…………」
我ながら、
分かりやすすぎる。
「…………」
注文を運び、
カウンターへ戻る。
「…………」
一度だけ。
「…………」
ポケットから、
スマートフォンを取り出す。
『頑張ってください』
「…………」
水瀬さん。
「…………」
思わず、
頬が緩む。
「…………」
『ありがとうございます』
送信。
「…………」
少し考えて。
『終わったら、また連絡します』
「…………」
送信。
「…………」
「佐伯くん」
「っ」
「…………」
顔を上げる。
井上さんが、
こちらを見ていた。
「な、何ですか」
「いや」
「…………」
「昨日と全然違うなと思って」
「…………」
やっぱり。
分かりやすすぎるらしい。
「何か、いいことあった?」
「…………」
「別に」
「ふーん」
「…………」
井上さんが、
少しだけ笑う。
「例の人?」
「…………」
「仕事します」
「はいはい」
「…………」
図星だった。
◇
バイトを終え、
店を出る。
「…………」
スマートフォンを、
取り出す。
「…………」
約束したから。
「…………」
『今、バイト終わりました』
送信。
「…………」
昨日は、
一言送るだけで、
あれだけ悩んだのに。
「…………」
今日は。
少しだけ、
指が軽かった。
◇
「…………」
ぶるっ。
「…………」
来ました。
『今、バイト終わりました』
「…………」
『お疲れさまでした』
送信。
「…………」
すぐに、
既読。
『ありがとうございます』
「…………」
昨日より、
少しだけ。
自然に言葉が続く。
「…………」
『今日の夕食は、これからですか?』
『はい。帰ったら作ります』
「…………」
作る。
「…………」
『佐伯さんが作られるのですか?』
『そうですよ』
「…………」
知りませんでした。
『お料理、されるのですね』
『一人暮らしなんで』
「…………」
少しして。
もう一つ、
届く。
『でも、今は結構好きです』
「…………」
料理が、
好き。
「…………」
また一つ。
私の知らなかった、
佐伯さんを知った。
「…………」
『何を作られるのですか?』
送信。
「…………」
少しして。
『今日はパスタにしようかなと』
「…………」
パスタ。
『お洒落ですね』
『そうですか?』
「…………」
『店でもたまに作りますよ』
「…………」
店でも?
『佐伯さんがですか?』
『はい』
『メニューもいくつか考えました』
「…………」
思わず、
画面を見つめる。
「…………」
あのお店の、
メニューを。
「…………」
佐伯さんが……。
『すごいです』
「…………」
送信。
「…………」
今まで。
毎朝、
たくさん話してきたつもりだった。
「…………」
それでも。
知らないことが、
こんなにある。
「…………」
『水瀬さんは?』
「…………」
来ました。
「…………」
『私、ですか?』
『はい』
『何か趣味とかあります?』
「…………」
趣味。
「…………」
もちろん、
あります。
「…………」
推し活。
「…………」
ライブ。
グッズ。
新曲。
「…………」
推し。
「…………」
指が、
止まる。
「…………」
これは……。
佐伯さんに、
お伝えしてもよいのでしょうか。
「…………」
なぜか。
少しだけ、
恥ずかしい。
「…………」
『私は――』
そこまで打って。
「…………」
また、
指が止まった。
「…………」
『読書を、少し』
「…………」
送信。
「…………」
嘘では、
ありません。
「…………」
ただ。
一番好きなことを、
言わなかっただけです。
「…………」
『読書するんですね』
『はい』
「…………」
少しだけ、
胸がちくりとする。
「…………」
佐伯さんのことは、
もっと知りたいと思うのに。
「…………」
私は。
まだ、
全部を見せる勇気がない。
「…………」
画面を見る。
「…………」
いつか。
推しのことも、
話せるのでしょうか。
「…………」
『今度、おすすめの本教えてください』
「…………」
おすすめ。
「…………」
『はい』
送信。
「…………」
少しして。
『じゃあ俺も、今度料理の写真送ります』
「…………」
料理の、
写真。
「…………」
『楽しみにしています』
送信。
「…………」
また一つ。
約束が増えた。
「…………」
明日の朝ではなく。
その先の、
いつかの約束。
「…………」
画面を見つめる。
「…………ふふっ」
どうやら。
夜も、
楽しみな時間に、
なってしまったようです。
◇
「…………」
『楽しみにしています』
「…………」
その文字を、
もう一度見る。
「…………」
楽しみに、
してくれてる。
「…………」
たかが、
料理の写真なのに。
「…………」
明日は、
何作ろう。
「…………」
いや。
別に、
明日送るとは言ってない。
「…………」
なのに。
もう、
考えている。
「…………」
水瀬さんに、
何を見せようかって。
「…………」
スマートフォンを、
ポケットにしまう。
「…………」
少し歩いて。
また、
取り出す。
「…………」
『水瀬さん』
「…………」
入力して。
少し考える。
『明日の朝なんですけど』
「…………」
送信。
『はい』
「…………」
『話したいことがあります』
「…………」
送信。
「…………」
明日。
ちゃんと、
伝えよう。
「…………」
実家に、
帰ることを。
◇
恋愛経験ゼロ。
妄想の中では恋愛無双。
朝だけだった、
二人の時間。
だけど……今は。
少しずつ、
知らなかったあなたに
近づいている。




