第四章 歴史の闇
「小林探偵事務所」の噂は、シュウが通っていた大学の壁さえも通り抜けていた。事の発端は、シュウの恩師から届いた一通の連絡だった。知人の歴史学研究の重鎮が、どうしてもシュウに「見せてもらいたい事件」があるというのだ。相手は別の大学の見ず知らずの老教授。本来なら、得体の知れない依頼は門前払いするところだが、恩師の顔を立てないわけにはいかない。シュウは溜息をつきながら、事務所の重い扉を開けた。
やってきたのは二人組だった。一人は、この道四十年のベテランといった風貌の曽根教授。もう一人は、その教え子で修士課程の高田という男だ。もちろんシュウにとっては、二人とも初対面だった。
「無理を言って申し訳ありません、シュウさん」
曽根は丁寧に頭を下げた。これまで依頼に訪れた「成金連中」とは、明らかに空気が違う。金さえ払えば神様になれると信じている横柄な連中に比べ、曽根の態度はどこまでも紳士的だった。
「実は…さまざまな説が飛び交う『本能寺の変』を、この目で確かめたいのです」
本能寺の変。日本史上最大のミステリーだ。シュウの心の中に、冷めた好奇心が微かに灯った。
「なるほど。現在のGFⅡなら、千年前までなら鮮明に『視』ることができます。戦国時代なら射程圏内です。ですが視た後、どうされるおつもりですか? 歴史を書き換える気ですか?」
シュウの問いに、若気の中にある高田が即座に食いついた。
「もちろんです! 歴史は、常に真実でなければならない。歪められた記録を正すのが、我々の使命ですから」
だが、その言葉を遮るように、曽根が重々しく口を開いた。
「待ちなさい、高田君。シュウさん、鋭いですね。専門外でありながら、あなたは歴史の『劇薬』としての側面を理解している。実は私自身、迷っているのです。もし真実が今の定説と違っていたら、それを公表すべきかどうか。武将たちの末裔や、その地を誇りとして生きる人々がいる。千年の信仰を、たった一人の観測者が壊していいものだろうか、と」
「そこまでお考えになられているのでしたら、お引き受けしましょう。ただの好奇心で『開かずの箱』を壊されるのは、こちらの本望ではありません。もちろん我々の方から、視たものをも口外するつもりはありません。ご判断はお任せします」
シュウは二人を観測船GFⅡへと案内した。シュウには持論がある。記録として残された「史実」など、時の権力者が自分たちに都合よく編纂したプロパガンダに過ぎないのではないか。不都合な真実を記した紙など、焚き付けにされるのが関の山だ。残っているのは、残ることを許された勝者の言い訳だけだ。
「では、座標の補正を行います。本能寺のあった場所まで案内してください」
曽根の指示に従い、船は現代の京都市中京区へと向かった。 「京都市中京区元本能寺南町。それから、その後の秀吉が明智を討った『山崎の戦い』も外せません。乙訓郡大山崎町にも寄ってください」
その声は、操縦席の「オヤジ」にも届いていた。
「了解だ。GFⅡ、潜行開始!」
オヤジの威勢のいい声とともに、船は海中へと沈み込み、その後空へと舞った。元自動車部という異色の経歴を持つオヤジの運転は、相変わらず胃がひっくり返るほど荒っぽかった。
現代の本能寺跡地に到着したが、そこには老人ホームと高校が整然と並んでいるだけだった。
「道が狭いな。一方通行の嵐だ」
オヤジは苦労しながら油小路通に船を停めた。五人は一度外に出て、付近を探索することにした。 すれ違うブレザー姿の高校生たちが、長身のナミを見て「でかっ」と囁いている。ナミは聞き飽きたと言わんばかりの無表情で、端末の座標をチェックしていた。
続いて、山崎の戦いの跡地へ。現在の島本町から大山崎町にかけての広大なエリアだ。オヤジは府道十号線沿いに船を停めた。ここでも、目につくのは老人ホームと小学校だった。
「戦いの跡には、なぜか老人ホームが建つのが定番らしいな」
シュウが皮肉っぽく呟くと、そばには有名なウィスキーの蒸溜所も顔を覗かせていた。
「よし、計測完了だ。光速の檻を超え、戦国時代の『光』を捕まえに行くぞ」
オヤジがコンソールを叩く。五人の視界が白く弾け、彼らは時間という概念を飛び越えた。
千五百八十二年七月一日。 グレゴリオ暦換算で、本能寺の変、当日の朝だ。
モニターに映し出されたのは、騒然とする寺の風景だった。武装した兵たちが、蟻の這い出る隙もなく本能寺を包囲している。
「お、始まりましたね。あの、猿みたいな顔で指揮を執っている男がリーダーですか? 明智光秀にしては、イメージと違いますが」
歴史に疎いシュウが尋ねる。
「ええ、肖像画とは似ても似つきません。ですが、あの陣羽織は確かに」
高田が息を呑む。なぜか隣の曽根教授は、幽霊でも見たかのように口を半開きにしていた。
「あいつら、なんて言ってる?」
シュウがナミに尋ねると、ナミが口を開くより先に、曽根がそれを制した。
「いや、結構。解説は不要です。ただ、静かに見させてください」
明智軍が寺へなだれ込む。
「あれが、織田信長ですか?」
シュウは青ざめた顔の曽根を無視してモニターを指差した。
「そうですね。あの男は肖像画の面影がある。間違いなく信長だ」
高田が答えた。
だが、そこで起きた光景は、あまりにもあっけなかった。寝起きの信長は、防戦する間もなく背後から数人の雑兵に突き刺され、泥の中に転がった。切腹をする暇も、辞世の句を詠む猶予もなかった。
「あれ? 歴史じゃ自刃したんじゃなかったんですか?」
シュウの素朴な疑問に、高田が力なく答える。
「英雄は、無残に殺されるより、自ら命を絶つ方がドラマチックですからね。後世の作家が盛ったのでしょう。よくある話です」
先ほどまでの「真実を追求する」という威勢は、どこかへ消え失せていた。
続いて、一行は『山崎の戦い』の座標へと飛んだ。光秀を討つべく、正義の軍勢・秀吉が駆けつけるはずの戦場。だが、そこに映し出された光景に、全員が絶句した。
両軍の兵たちは、武器を置いて車座になり、酒盛りを始めていたのだ。中央では、先ほどの「猿顔のリーダー」が、木箱から誰かの首を取り出している。
「なっ…なんだ、これは」
高田が声を震わせる。
「ナミ、今度こそ音を拾ってくれ」
シュウの指示で、当時の会話が再現される。
「この猿顔の人が『これが明智の首か?』って尋ねて、隣の兵士が『はい、正真正銘、明智光秀の首でございます』って言っている。『ははは、上出来だ。ここにいる連中も、私が関白になった後、一人残らず消されるとは夢にも思うまい』」
だって。シュウ以上に歴史に疎いナミが意味もわからず呟く。
「織田を殺した実行犯が、山崎では主役として酒を飲んでいる。戦いなんて、最初からなかったのか」
シュウは、解説してくれと言わんばかりに曽根を見た。
「もう、いい。帰りましょう」
曽根が絞り出すような声で言った。
「ちょっと船酔いしたみたいだ」
事務所に戻った後、曽根は深く俯いたまま、一言だけ残して去っていった。
「予想通りの、素晴らしい歴史でした。ありがとうございました」
その背中を見送りながら、シュウは重い溜息をついた。
「結局、勝った方が物語を書く権利を得る、か。…歴史の紐は、解かない方が幸せなのかもしれんな。今を生きる人間のために」
探偵としての成功は、彼らをさらなる闇へと引きずり込んでいく。彼らが目撃したのは、英雄の華々しい最期ではなく、欺瞞に満ちた泥臭い真実だった。
「歴史は、生き残った勝者のための脚本だ」
オヤジが苦い顔で煙草を咥えた。だが、彼らがこれから直面するのは、そんな人間の小細工さえも赤子のように思えるほどの、巨大な「記録」の奔流だった。




