第三章 鉄壁の血縁
翌年七月一日。
小林探偵事務所は、宣言通りリニューアルの日を迎えた。収益性よりも事件の特異性を重視する。いわば「正義の味方」への転身だ。
事務所の入り口は最新のセキュリティーに守られ、事前予約なしには扉までたどり着けない仕組みになった。だが、その鉄壁の守りを嘲笑うかのように、予約外のノックが直接ドアに響いた。
「こんにちは。いつも娘がお世話になっています」
そこに立っていたのは、山縣雅彦警部、四十五歳。鋭い眼光と、オヤジに引けを取らない百八十センチ超の巨体。この男なら、娘を通してここまで入ってくるなど造作もないことだろう。
「これはこれは…山縣警部。新居の住み心地はいかがですか?」
シュウは先制攻撃として、恩着せがましい笑みを浮かべた。
「いやあ、極めて快適ですよ。それにしても、大物政治家を次々と辞職に追い込む皆様のご活躍、警察でも評判ですよ。私も鼻が高い」
皮肉を皮肉で返される。ナミとは違い、一筋縄ではいかない男だ。
シュウは一人で相手にするのは分が悪いと察し、助っ人を呼んだ。
「ナミさん、お父様にコーヒーを。ダイスケさんもこちらへ」
シュウが二人に「さん」を付けたのは初めてだったが、父親の前で娘を呼び捨てにし、二十七歳も年上の男を「オヤジ」と呼ぶのは、さすがに不謹慎が過ぎると思ったのだ。
「ところで、本日はどのようなご用件で?」
助け舟を期待して放ったシュウの質問だったが、事態は予想外の方向へ転がった。
「おにいさん、ご無沙汰しております」
山縣が立ち上がり、オヤジに対して深々とお辞儀をしたのだ。
「山縣さん、お久しぶり。結婚式以来ですな」
オヤジが豪快に笑う。
呆気にとられるシュウを余所に、ナミが平然とした顔で口を開いた。
「あ、お父さんとオヤジさんって兄弟だったんだ?」
男兄弟の場合、大人になると弟は兄のことを「兄貴」とか「兄さん」と呼ぶものだ。兄なら弟のことを「雅彦」とか「雅ちゃん」と呼ぶことが多い。ここで「おにいさん」に対して「山縣さん」と答えた以上「おにいさん」の漢字には『義』の文字が入る。しかもオヤジは独身なのに対して、結婚式以来とは、親族同士が結婚している以外に考えられない。となると、
「ナミさんのお母さんは、ダイスケさんの妹さんだったのですか?」
シュウは本職である探偵らしく、推理を働かせて尋ねた。
「はい。その通りです。お義兄さんとは、めぐみとの結婚式で初めてお会いしました」
山縣は答えた。
判明した事実はこうだ。ナミの母親はどうやら、旧姓大島めぐみ(おおしま めぐみ)という名前だったみたいだ。ということは、ナミは大介のことをオヤジさんと呼ぶのは間違いで、オジさんと呼ぶのが正しい。実の叔父にあたる。
「ところで秀さん、奈美は小さい頃から体が大きいことを気にしておりましてね。そんな思いを自分の娘にもさせたくない、ってことで小さい男性と結婚したいという願望があるのですよ」
山縣は何気にシュウを見下ろしながらそう言った。これは悪魔のささやきか。大体なぜ女の子が生まれるって決め付けているのかわからない。
「失礼ですけど山縣警部、ナミさんが大きいのは、あなたが大きいからですよね?」
さすがに温厚なシュウでも、我慢出来ずに言い返してしまった。
「シュウ、それは違うぞ。実はめぐみも私の妹だけあってでかいのだ」
オヤジの一言でシュウは当たり前のことに気付かなかったことにショックを受けた。探偵らしくない失態だ。
「そうなのですよ。我が家では奈美も大きくは感じないのです」
山縣がにこやかに追い討ちを掛けてきた。
今、ここに四人全員で立っているわけだが、ここにナミの母親が加わるとシュウは完全に埋もれてしまう。その後、この三人による異次元の会話は和気あいあいと続いた。
話の内容から全ての謎が解けた。
オヤジは、生まれつき喋れないハンデを、人並みはずれた努力で打ち破り、三十八か国語をマスターした妹を尊敬していた。そして妹も科学者としての兄を尊敬し、慕っていた。いつかはシュウの父親と三人で、今の小林探偵事務所のような稼業をしようと約束していたらしい。
そしてオヤジは結果を出し、約束を果たすためにこの地に戻って来た。しかし三十年近い年月は、無情だった。シュウの父親は他界し、オヤジの妹は結婚して母親になっていた。
それでもオヤジの妹は、決して約束を忘れてはいなかった。必ず兄は結果を出して、戻ってくると信じ、自分の能力を娘に口の動きだけで伝授していたのだ。
シュウの母親も、シュウがこの仕事をしたいと言ったときには、大層喜んだ。父親の夢を知っていたからだろう。
オヤジ、なんかちょっと格好良いじゃねえか。見直したよ。シュウが、そう感じるや否や幻滅したセリフを聞くことになる。
「実は私とシュウのお父さんは高校の時、同じ人を好きになってしまいましてね。私はめぐみをシュウのお父さんに紹介して、その女性がフリーになったところをビシッと決める予定だったのですが、うまく行きませんでしたよ。はっはっはっ、まあそれがシュウのお母さんなんですけどね」
今、それ言う必要ないだろう。
どうやらシュウの母親と、ナミの母親は高校時代の同級生で無二の親友だったみたいだ。
遠い昔からこの四人は知り合いだったことを初めて知った。なぜ二人は無給でも、何も文句を言わずシュウに付いてきてくれるのかを悟った。この探偵事務所は世代を超えた夢だったのだ。
「…で、山縣さん。昔話はそれくらいにして、本題を」
シュウは気を取り直して再度尋ねた。
「そうでした。危うくそのまま帰るところだった」
警部の顔が、一瞬で「刑事」のものに変わった。
「現在では三年前でも見ることが出来ると伺っておりますが、本当でしょうか?」
山縣の問いにはオヤジが答えた。
「三年と言わず現在では三百年前でも可能ですよ。私の友人にね、秋元ってヤツがいるんですけどご存知ですか?」
「もちろん存じ上げておりますよ。伝説の三人の中のお一人ですね?」
シュウは、オヤジが生きる伝説だったことを忘れていた。確かに以前は騒がれていたが、ずっと一緒にいると、単にでかい天然野郎にしか思えなかったのだ。
「こいつがね、慎重なヤツでしてね。まあこいつのせいで我々の研究は遅れたといっても過言ではないくらいでしてね。最初の実験は多摩川の河川敷で行ったのですけど、そう私がまだあなたくらいの歳の時ですよ。・・・もうパトカーのサイレンとかがうるさい中、必死で逃げたものですよ」
オヤジ、いくら義理の弟だからって、何も警察に対して武勇伝言わなくても良いだろうに。
シュウは変な汗をかいてきた。やっぱり仕事の話を伺うときに、この二人はいない方が良いと判断し、別の部屋行ってもらうことにした。やっと山縣と二人だけになり、
「大変申し訳ありません。あの二人が話に加わるといつもこんな感じに脱線してしまって、進まないのですよ」
といってもシュウが呼んだのだが、ここまで道を反れるとは予想外だった。かなり気まずい雰囲気だ。
「ところで三年前に何か?」
シュウは何事もなかったかのように山縣に問いかけた。
「はい、実はこの茨城県内で起こった事件で未解決のものがあるのです」
ついに来た。山縣のこの言葉にシュウは期待に胸を膨らませた。
「ほほー、それは密室殺人のような不可能犯罪と呼ばれているものですね?まあ一般的にこれらの推理は憶測だけで犯人を追い詰めて行き、自白に頼ることがほとんどだと思われます。しかし我々の場合は、れっきとした証拠を見せ付けることが出来ますのでご安心ください」
まあ、ただその現場から空が見えて、しかも晴れていないといけないという条件付きだが・・・。
とりあえず山縣から依頼内容を聞くことにしよう。
「密室?あーなるほど。先ず覚えておいて頂きたいのですが、手の込んだ殺人事件なんてものは、ほとんどありません。なぜかと言いますと、それほどの知能を持った人は、別の解決策を考えるもので、殺人という愚かな手段を選ばないからなのです。大抵はもう追い詰められて未来が見えなくなった人や、衝動的にそうなってしまったりすることがほとんどで、あまり計画性はないのです」
言われてみれば確かにその通りかもしれない。ならば、この探偵事務所の出番が薄れていく。
「ではご依頼というのは?」
シュウは聞き直した。
「普通の殺人事件です」
山縣からの、それでも殺人事件という言葉にシュウは最初の事件解決のような達成感が得られる、という思いで続きを伺った。
「三年前のクリスマスイブの夜に、水戸芸術館コンサートホールで、オーケストラの演奏会が行われました。その途中、十九時三十分から二十分間の休憩時間があり、その時に一人のヴァイオリニストが殺害されたのです。現場は大道具が仕舞われている倉庫の中だったため誰にも気付かれず、発見されたのがその演奏会が終わってしばらくしてからになってしまったのです。容疑者と考えられるオーケストラ関係者百名と観客二千名は既に帰路に向かってしまい、犯人の特定が出来ないまま今に至っています」
シュウは倉庫という現場に嫌な予感がしたが、とりあえず三年前の十二月二十四日の水戸の天気を調べた。運良く晴れだったが問題は窓だ。この稼業、空が見えているかが重要な要素なのだ。
「その現場に窓はありますか?」
シュウは恐る恐る聞いてみた。
「被害者は二階で殺害され、そのまま一階まで階段で転落したのです。で、窓ですが一階にはあります。遺体の場所からは外が見えていたことを覚えていますが、殺害場所からは外は見えません」
山縣のこの言葉にシュウは絶望した。
「残念ですが、それですと犯人を特定することは出来ないかと思われます」
シュウも残念だったが、山縣も「やっぱり」という思いで俯いていた。
「ただ、倉庫で密会のように被害者が会ったということは、観客ではなく、関係者に限定出来ますよね?」
シュウはそう言ってみたが、関係者だけでも百人か。厳しいなあ。
「そうなのです。しかしそれでも数が多いのです。犯人はナイフを引き抜かなかったために返り血もわずかしか浴びていないのです。しかも楽器の演奏者は、指を守るために手袋をしています。特に冬は必須アイテムです。もし即座に気付けば関係者全員の手袋や袖にルミノール溶液をかけて検査できたのですが、発見が遅れてしまったためにそれも出来ませんでした。しかも演奏者は黒で統一されていたため、返り血とかも目立たなくて気付かなかったみたいです」
山縣は顔を塞ぎこみながら言った。
「例えば指揮者の人は、後半の演奏で普段とは違う、いわゆる動揺しているような演奏をした者がいたとかに気付かなかったのですか?」
シュウはこんな都合の良い回答を、指揮者が語ってくれるとは思ってもみなかったが、ダメ元で聞いてみた。
「それが何名かの演奏者に、それは感じたと言うのです。ですが、その人達に伺ってみると、一名いなくなっていることで心が乱れて演奏に影響が出てしまったかもしれないという回答でした。まあ確かに筋は通っているのですよね」
さすがにシュウが気付くことくらいは既に警察も捜査しているみたいだ。
「それじゃあ厳しいかもしれませんね」
シュウはこの依頼は断ろうと思っていた。
そこへ「聞こえたぞ」とばかりに、隣の部屋からあの脱線コンビが戻って来た。
「やってみようよ」
ナミが何の根拠もなく口を挟んで来た。
「あの船に搭載されている望遠鏡は電波望遠鏡の要素も備え持つため、赤外線によって、ある程度壁の中の外形くらいは捉えることが出来るかもしれません」
オヤジも意味不明に乗り気だ。そんな何光年も離れたところから壁をすり抜けて、その先が見えるとは思えない。
しかし、他ならぬナミの父親の頼みなので、シュウもなんとかしてあげたいという思いで、トライしてみようということになった。
地下停船場は今では立派な基地のように改装され、自慢の一つだった。人を案内するのもちょっとした楽しみになっていた。ここにはGFⅡとナミの自家用車が停まっている。
「山縣警部、その事件現場へご案内願いますか?詳細はワープポイントを調べたいのです」
シュウは地図を見ながら現場へ向かうことにした。
「GFⅡ発進」
オヤジの声で船は動き出した。といっても海中に向けてだ。
シュウの父親の残したGF号はベースはそのままだが、改造に改造を重ね、今ではGFⅡ号と命名されていた。
このまま南に進み、適当なところで浮上し、空に飛ぶ。三十キロほどしか離れていなかったため飛ぶほどでもないのだが、オヤジはどこへ行くにも一度は空を飛ばないと気が済まないタイプなのだ。まるで伝書鳩のようなヤツだ。
この程度の距離、オヤジの豪快な運転なら、所要時間五分といったところだ。現場の水戸芸術館コンサートホールは、上から見ると、まるでベンゼン環のような形だった。
通常の車の二倍程度の大きさを持つGFⅡは、駐車場二台分を占拠した。そこから歩いて二分で入口に到着した。もう現場は封鎖されておらず、一般の人も自由に出入り出来るように開放されていた。三年前なら当たり前か。
シュウたちは山縣に案内されて、大道具の倉庫に向かった。ここも既に通常利用されていた。昼間でも薄暗く、確かに一階にしか窓が無い。
オヤジは遺体発見現場で、窓の位置からレーザービームを空に向かって放ち、正確にワープポイントを設定していた。念のため反対側の窓側からも見える空のポイントも控えているみたいだ。
シュウは階段を上がった二階にあるという殺害現場に行ってみた。そこからは、窓が下に見えており、空は見えない。綺麗に刈り揃えられた夏の芝生が青々と見えるだけだった。
池でもあれば、それに反射して空が見えている可能性があるのだが、都合よくそんな場所に池はなかった。
シュウ達の今までの戦法では不可能っぽい気がした。オヤジの言う赤外線で、どこまで人が絞れるかに期待がかかりそうだ。
その間、ナミは張り切ってコンビニでみんなのお茶と弁当を買いに行った。シュウが麺類マニアなことを知って『ナポリタン』と『ミートソース』の二つも買ってきた。さすがに父親の好みも知っているらしく、山縣用には『かつ丼』だった。オヤジはいつも『幕の内弁当』だ。ナミはサンドイッチ系のパンを主体としたものだったが、数が十人分くらいあった。
シュウたち四人は再び船に乗り込んだ。
「では、空に向かって飛び、しばらくしたらワープします」
オヤジの声で船は再び動き出した。
「なんかお父さんと宇宙旅行なんてワクワクするねえ」
ナミは「お弁当どこで食べる?」とかピクニック気分みたいだった。ナミの張り切りの原因はこれか?恐らく普段の山縣なら、目の両端を垂らして、ナミとニコニコしながら会話するのだろうが、シュウたちの目があるために必死で曖昧な返事だけを返していた。
船は、ポイントに到着した。地球を拡大して行き、世の中がクリスマス気分であることから、どうやら間違っていないことを認識した。
時刻は十九時半、二十分間の休憩が始まるところだった。現場が拡大されたが、やはり階段の下しか見えず、殺害現場は見えていない。
とりあえずみんなは弁当を食べて待つことにした。
このコンサートの間、現場の外とかに不審な人物がいないか見回ったが特に怪しいものはなかった。やはり内部の者による犯行が濃厚だ。
その時だった、胸にナイフが刺さった被害者が階段を転げ落ちてきて、全員の視界に入ってきた。被害者の背中しか見えない・・・。犯人が降りてきて遺体となっていることでも確認してくれるかと期待していたが、そんなことはしなかったみたいだ。
「無理ですね、これでは。犯行時刻が十九時四十分ということしかわからないなあ」
シュウはオヤジに期待した。画面には可視光線だけを映し出しているが、赤外線を解析してなんか出来るようなことを言っていたからだ。
「赤外線映像のはどうなっている?」
「先ほどご覧になられた映像は電磁波の中でも、360 nm~830 nmの波長のものだけをモニターに映し出しましたが、今度は赤外線領域を独自の色で映像化してみます」
得意気にそう言って、先ほど被害者が転がって来た映像が再生された。
「独自の色って言っても一色かよ・・・」
シュウはちょっと期待外れだった。
ダメだ、確かに二階の壁の向こう側で争いらしきものが起こり、誰かがナイフで迫っているようにも思え、その後刺されたらしき影があって、被害者は階段から落ちたらしい。そして犯人らしき人物は消えていった。
これで犯人を特定化することなど到底出来ない。
「山縣警部、申し訳ありません。ただあの影からタキシードを着ている男性っぽいということだけはわかりました」
シュウは今回敗北を認めることにした。
「ですね。まあそれだけでもかなりの進展です。数名の女性演奏者は除外されますから」
山縣もここまでかと諦めたようだった。
「別の角度から見てみると、何かわかるかもしれません。別の窓の方角に飛びます」
諦めの悪いオヤジはそう言って、先ほど調べていた別窓のポイントに飛ぶつもりでいた。角度変わっても状況変わらないだろうに。シュウはそう思って口を出そうとした。
「そうだ、そうだ、諦めるのはまだ早いぞー」
先にナミに言われてしまった。単に父親と宇宙旅行をしていたいだけにも見えた。
まあ山縣警部にも「お願いします」と言われてしまったので、仕方なくオヤジに従った。
今度は明確な犯行時間がわかっているので、その三分前くらいから見ることにした。
全員がじっと見ているところに、ゴロゴロ、バタッ、と一瞬でその時間は過ぎ、あとは被害者の遺体がずっと見えているだけだった。違う点といえば、被害者の顔がこっちを向いているだけだった。
すると突然ナミが当たり前のように口走った。
「オザワ、キサマー だって」
最初は何を言っているのかわからず、一瞬の沈黙が流れたが、ナミの特殊能力を思い出した。親子であるため、当然その能力を知っている山縣は目を輝かせた。
そして慌てて手帳を広げ、何枚かめくったところで、手が止まった。
「よくやった奈美。小沢という者は同じヴァイオリニストの中にいるぞ」
シュウどころかナミもそんなことは知らなかったはずだ。そこでこの名前が出たということは少なからず事件に関係があると考えても良いだろう。
犯行現場は見えなかったが、通常では犯人しか受け取ることが出来ない、被害者のダイイングボイスをナミは受け取ったのだった。その口の動きの映像を山縣に渡して、後は警察に任せることにした。
小沢誠(おざわ まこと 三十八歳)、ヴァイオリニストが逮捕された。被害者は、橋本桂一(はしもと けいいち 同じく三十八歳)。動機は、ヴァイオリン売買によるトラブルだった。
小沢は橋本からグァルネリのヴァイオリンを二億円で買った。ところが一年以上経ってそれが偽物であることがわかったらしい。
再三に渡って金を返すように催促していたが、一向に聞いてはもらえなかったという。そしてナイフで脅せば効果があるだろうと考え、わざわざ人気のいない倉庫に呼び出した。
「金を返さないと殺す」とナイフで脅しながら橋本に迫った。
ところが「ちゃんと音を聞いて納得して買ったのだから、お前はそれに二億の価値があると判断したのだ。プロなのだから音を聞いて支払ったものに、後から文句を言うな」と罵られたため、ついカッとなって殺してしまったということだった。
この事件の解決で、山縣は自分の娘の手柄を警察署内で大々的に宣伝したらしい。
最初の事件以来、今でも交流のある翔子は、たまにこの事務所に遊びに来る。この事件解決から数日後の午前中、シュウのスマホに「久しぶりに兄を連れて行くので、みんなで昼食はいかが?」という誘いがあった。『ヴァイオリニスト殺人事件』以後、特に仕事のなかった三人はそれを快諾した。
お昼時に二人はやって来た。五人で近くの中華レストランへ行った。シュウはここの『汁無し坦々麺』が大好きだった。
五人で座る場合、誰か一人はお誕生席と呼ばれる場所、一般的にはちょっと通行の邪魔になる場所に一席設けてもらうことが多い。まああまり好まれない席なのだが、オヤジはこの席が大好きだった。あのでかい図体で通路を遮ってしまうことになるが、まったくお構い無しでご機嫌に座っているのだ。
食事時の会話は、その『ヴァイオリニスト殺人事件』に関するものから始まった。
「奈美さんのご活躍を、私は山縣警部から十回近く聞かされましたよ」
翔子の兄隆宏も茨城県警の関係者だ。
「まあ、確かにあの時ナミが口走った、オザワという言葉に全員驚かされたのは事実ですよ」
一応シュウはフォローした。
シュウ達の証拠屋稼業は、やはり『百聞は一見にしかず』の諺通り映像が全てだと思っていた。そのため、すっかりナミの読唇術という武器のことを忘れていた。
「しかも決まって、『この私が諦めた時に、娘が何て言ったと思う?』と次がわかっているのに『いやー全く想像も出来ません』って言うのが辛かったですよ」
隆宏は頭に手を当てながら愚痴をこぼしていた。続けて
「すると『なんと、小沢が犯人だって断定するからこりゃ驚いたね~』っと、どんどん言うたびに話が大げさになって行ったんですよ」
隆宏の愚痴はその後も続いた。
翔子も
「すみません、奈美さんのお父さんの愚痴ばっかりで」
途中で眉間にしわを寄せながら謝っていた。オヤジとナミは全くそんなこと気にせず、ついでに周りの客のことも気にせず大声で笑っていた。この二人、体もでかいが声もでかい。
それにしても、翔子に笑顔が戻って来て安心した。やはりこの人には笑顔がよく似合う。
傷が完全に癒えることは無いだろうが「これで前に進める」という言葉は本当だったみたいだ。現代に生きる人のためになるような活動を続けていきたい。
隆宏も実に気さくな人だ。続けて隆宏は言った。
「最近はシュウさん達のご活躍で、晴れている日の犯罪率が激減したんですよ。さらに政治家達のよく行く料亭は、窓を全てはめ殺しにしてスモークドガラスに変更したそうです」
かなり悪人達から恐れられる存在になってきたみたいだ。こりゃあ事務所のセキュリティーをもっと強化しないと危険だな。迎撃ミサイルでも設置した方が良さそうだ。
今までとの大きな違いは、この稼業は映像しか映すことが出来ないと思われていたものに対して、音なき声を読み取る、という点が広く知れ渡るようになったことだ。




