第七十六話 水面の影と、日常の輪郭
神代家の朝は、静かなようでいて、どこか落ち着かない。
窓から差し込む光の中で、神代レンは天井を見上げたまま、昨夜の光景を反芻していた。あの“黒い気配”。言葉にできない違和感だけが、胸の奥に残っている。
「……昨日のあいつ」
呟きは、誰にも届かないはずだった。
だが、部屋の扉がわずかに開く。
そこから顔を出したのは、海の気配をまとった少女だった。
「主さん、どうしました?」
フリートの声は、波のように柔らかい。
レンは軽く頭を振る。
「あぁ、いや。少し考え事だ」
「そうですか?」
フリートは小さく首を傾げたあと、視線を廊下へ向ける。
「ソレイナさんたちは、一階でお母様のお手伝いをしています。起きますか?」
「あぁ」
レンが体を起こすと、フリートは嬉しそうに頷いた。
「では、呼んできますね!」
そう言って、軽やかに部屋を出ていく。
一人になった部屋で、レンは息を吐いた。
「考えてても仕方ないか……」
その独り言に応えるように、階下から声が重なる。
「おはよ〜主様〜」
「おはようございます、主様」
「主様!おはようございます!」
「おはようございます、主さん」
「ふゆぅ〜……おはよ〜」
一気に賑やかになる神代家。
母が台所から顔を出し、柔らかく笑った。
「起きたのね。顔洗ってらっしゃい」
「わかった」
レンが洗面所へ向かおうとすると、母はふと四人の擬神たちを見た。
「そうだわ、ソレイナちゃんたち」
「はい、母様」
「ん?」
「なんでしょう」
「?」
四人の視線がそろう。
母は少しだけ微笑んで、静かに言った。
「これからも、レンをよろしくね」
その一言に、空気がふわりと変わった。
一瞬の間のあと――
「はい!もちろんです!」
四人の声が、きれいに重なった。
その言葉は、誓いのようでもあり、当然のようでもあった。
そして同じ頃。
現実とは異なる静かな領域。
そこには果てのない水面だけが広がっていた。
揺れる鏡のような世界。
その中心に、ひとりの少年――神代レンの姿が映る。
その周囲には、いくつもの“影”。
紫のフードの少女が静かに言う。
「順調のようですね」
岩陰の黒いフードの少女が、低く続ける。
「……でも……危険も、たくさん来ています」
黄色のフードの少女が、少しだけ身を乗り出す。
「ん、早く私を召喚すべき」
黄土色のフードの少女は肩をすくめる。
「まぁまぁ、急がば回れ、と言いますし」
木陰の影が、淡々と呟く。
「……でも、全員そろうには時間が」
氷のようなフードの少女が、それを受け止めるように言った。
「ですが、我らは必ず集まります」
黄色の少女が小さく頷く。
「ん、リーダーが言うなら」
黒フードの少女も静かに続ける。
「ですね。いつかは」
氷の少女は、揺れる水面を見つめたまま告げる。
「そのときまで、待つのです」
水面がわずかに歪み、少年の姿が揺れる。
それはまだ遠い未来の輪郭だった。
――そして。
『異能学園高等学校』
大きな一本杉の下で、風が静かに揺れていた。
ユシルが両手を広げる。
「大きくなぁ〜れ〜」
木の枝が、ほんの少しだけ伸びた気がする。
月影詩乃がその様子を見上げる。
「……何してるの?」
「さあ?」
レンは肩をすくめた。
ソレイナが淡々と説明する。
「ユシルは、大きい植物を見ると成長させたくなるのです」
「へぇ……」
レンは少しだけ納得するように頷いた。
アヤネは冷静に観察する。
「制御はできています。問題ありません」
フリートは微笑む。
「でも、なんだか可愛いですね」
その言葉にレンは苦笑した。
「まぁ、わからなくはないけどな」
詩乃はノートを閉じながら呟く。
「勉強の時間、終わり」
その瞬間、遠くから声が響いた。
「いたいた!生徒会会議するよ〜!」
朝比奈咲夜だった。
空気が一気に切り替わる。
レンは立ち上がる。
「あぁ!わかった。行くぞ、お前ら!」
「お待ちください、主様!」
「主殿!」
「え!?主さん待ってください〜!」
「ふゆぅ〜!?行くの〜!?まって〜!」
少し遅れて、騒がしい足音が追いかけていく。
一本杉の下に残るのは、揺れる葉と、日常の余韻だけだった。
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