第百二十一話 『核崩壊』
触れた瞬間、音が消えた。
いや、正確には“音という概念”そのものが剥がれ落ちた。
世界は静かだったのではない。
静かという状態にすら、まだなっていない。
ただ、何も“定義されていない空白”が広がっていた。
「……主君」
アイナの声だけが、かろうじて残っている。
だがそれも、遠い場所から届く記憶のように曖昧だ。
視界の中心。
黒い核。
それは触れた瞬間に崩れるはずだった。
だが――崩れない。
むしろこちらを“見返している”。
◇
ソレイナの炎が揺れる。
「これは……まずいですね」
いつもの余裕が消えていた。
炎の色が一瞬だけ暗くなる。
「核ではない」
「これは“核の形をした別の概念”です」
ユシルが空中でふわふわ揺れる。
「え〜……なにそれ〜」
アヤネが即座に制御を入れる。
「解析不能領域。通常法則外」
フリートが拳を握る。
「殴っていいやつですか?」
「多分ダメですね」
即答だった。
◇
黒衣の男が笑う声が聞こえる。
「触れたか」
「ならば見えるだろう」
その声は、空間を通してではなく“意識そのもの”に直接響いてくる。
巨獣は動かない。
いや、動けない。
この空間全体が“停止しているのではなく”、すでに別の層へ切り替わっている。
◇
「アイナ」
俺は呼ぶ。
声が出ているのかすらわからない。
だが、確かに届いた。
「はい」
「これは何だ」
一拍。
アイナの回答は、いつもより遅い。
「解析結果」
「現行世界構造との一致率――0%」
ソレイナが息を呑む。
「ゼロ……?」
アヤネが低く言う。
「つまり、既存の世界じゃない」
ユシルが首をかしげる。
「え〜、じゃあどこ〜?」
フリートが珍しく黙る。
◇
核が“脈打つ”。
そのたびに、周囲の光景が書き換わる。
校舎の残骸。
空の色。
地面の質感。
すべてが一瞬ごとに別のものへ変化している。
現実が安定していない。
いや――現実という枠そのものが壊れている。
◇
黒衣の男が一歩踏み出す。
その瞬間。
世界が“彼に合わせて整列する”。
「これは門だ」
男は言う。
「終わりではない」
「始まりでもない」
「“接続点”だ」
◇
ソレイナが炎を強める。
「主様、離れてください」
だが、俺の手は核から離れない。
離せないのではない。
離した瞬間、“自分が何であるか”が消えそうだった。
◇
アイナの声が鋭くなる。
「警告」
「同化進行」
「主君の存在情報が書き換えられています」
ユシルが慌てる。
「え、え、やばくないそれ〜!」
アヤネが即座に命じる。
「全擬神、主君保護優先」
フリートが前に出る。
「押し返します」
◇
だが、その瞬間。
核が“笑った”。
そんなはずはない。
物体が笑うなどという現象は存在しない。
しかし確かにそれは“笑った”としか表現できない変化を見せた。
◇
世界が裏返る。
空と地面が入れ替わる。
時間が前後する。
存在の順序が崩壊する。
ソレイナの炎が一瞬で消える。
「っ……!」
ユシルの姿がぶれる。
「うわ〜、なにこれ〜」
アヤネが叫ぶ。
「構造逆転!」
フリートが踏みとどまる。
「くっ……!」
◇
アイナの声が震える。
「主君」
「このままでは」
「“主君が主君でなくなります”」
◇
黒衣の男が静かに言う。
「お前は選ばれた」
「核に触れた時点でな」
◇
俺の中で、何かが軋む。
記憶ではない。
感情でもない。
もっと根本的な“自分の前提”が崩れていく。
俺は誰だ?
神代レン。
それはまだ“残っている”。
だがその名前すら、薄くなっていく。
◇
その時。
ソレイナが叫ぶ。
「主様!」
「思い出してください!」
ユシルも続く。
「主様は主様だよ〜!」
アヤネが冷静に言う。
「定義の再固定を試みます」
フリートが拳を構える。
「壊すなら、壊し返すだけです」
◇
その言葉が――
俺の中の“何か”を繋ぎ止めた。
◇
アイナの声が戻る。
「主君」
「再定義開始」
「存在情報、固定」
◇
核が再び脈打つ。
世界が軋む。
だが今度は、崩れ方が違う。
こちら側が“押し返している”。
◇
黒衣の男が初めて表情を崩す。
「……ほう」
◇
俺は核を握りしめる。
その瞬間、世界が再び走り出した。
静寂は終わり。
次の崩壊へ向けて、すべてが動き出す。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




