第75話 東日本予選
学校が始まると、時間は短い。
新しい時間割や授業、環境に翻弄されているうちに、ゴールデンウィークはみるみる迫ってくる。
この大型連休は、大学生ビッグバンドにとって勝負の時だった。
東日本予選――
これで本選出場ラインに乗らなければ、夏に仰いだあの白い建物には辿り着けない。
不安要素はたくさん残っていた。
春休み中の七転八倒により、合奏の回数は足りていなかったし、美雪はフィーリングがジャズではないと、合宿から変わらずマスターに指摘され続けている。
翠の腕は今も震えたまま。舞台上で突然音がなくなっても、おかしくはない。
それでも不思議と、いちかに緊張はなかった。
ここまでやってきたという自負が、みんながいるという事実が、いちかを盤石に支えていた。
◇
予選当日は見事な五月晴れだった。
最寄りの駅から十分程度歩くと、会場となる音楽ホールと、広場でたむろする他大学の集団が姿を表す。
「人がいっぱいおるなぁ」
虎丸が見たままの感想を述べた。
「懐かしい。中学のときも会場ここだったんですよね」
さくらが怜と美雪を相手に吹奏楽談義をしている。
それを小耳に挟みながら、いちかも自然と高校時代に思いを飛ばした。
高校のコンクールと比べれば、会場の雰囲気はずっと明るい。
強豪校の隊列を下位バンドが遠巻きに眺める、などという生々しい現象も起こらない。
それでも、審査される立場から醸される、浮き足だった不安だけは払拭できていなかった。
「あっ! サックス持ってる人らがおる! 話しかけてきてええですか?」
いちかの隣にいた清菜――カネゴンが好きだと言ったために、日向子にかねきゅんと命名された――が、いちかを仰ぎ見た。
呆気に取られながら頷くと、他大学のサックス集団に向かって駆け出していく。
いちかはその後ろ姿に実家の犬を思い出していると、隣でゆうゆがポツリと呟いた。
「生まれ変わったらあの子になりたい……」
芳樹が深く頷いていた。
◇
会場に入り、楽器を車から降ろし、廊下のテープで区切られた一画で待つ。
すぐにスタッフに呼ばれ、音出し室へ。
ベルトコンベアに流される感覚は、吹奏楽コンクールと同じだ。
他のバンドも詰め込まれた騒がしすぎる部屋で、なんとかチューニングすると、また時間がきて、あれよという間に、セルリアンのメンバーは舞台裏に続く扉の前に並んでいた。
口数が多くなる者、少なくなる者。挙動が落ち着かない者、精神統一している者。過ごし方はそれぞれだ。
そして、まだピアノの前でさえないのに、翠の手は震えていた。
「大丈夫ですか?」いちかは心配になって声をかける。
「あはは、情けないね」翠がはにかんで手を擦った。「初めてなんだよね、本番で自信ないの……こんなに怖いんだねぇ、人前で演奏するのって」
彼女の、長い指を持つ手を取ってみる。
驚くほど冷たい……
「もし弾けなかったら、踊ってみたらどうですか?」
いちかが提案をすると、翠は目をぱちくりさせた。
「踊るの?」
「はい。前行ったクリニックみたいに、こう、うんたらパワー! って感じで」
翠は呆気に取られていたが、ふと笑った。
「……いいね、それ。見た人みんなビックリするよ、きっと」
「えへへ」
「確かに、弾けないよりはいいかもな」
思いがけない同意が、隣から飛んできた。
碧音だ。
相棒のトランペットをクロスで拭きながら、当然のことのように言葉を続ける。
「コンテストだろうが何だろうが、舞台に立ったら俺たちは楽しませる側だろ。ビビるくらいなら踊った方が百倍マシだ」
それは彼なりのエールだったのだろう。
「……うん、そうだね」
翠が儚げに微笑んだ。
そうこうしているうちに、スタッフが扉を開け、バンドに進むように促した。
懐かしい、暗い舞台裏。
前団体の演奏が終わり、ステージ前方で講評が行われるのと合わせて、いちかたちはそこからさらに舞台に上がった。
客席には、研究熱心な学生が片手で数えるほどと、中心後方で横並びに座る大人が数名。
プロのジャズミュージシャンでもある、審査員たちだ。
見られているということが、嫌でも意識される……
「ふぅ……」
いちかは息を吐き、左に目をやった。
怜と隼人が何やらゲラゲラ笑っていた。変わらない二人の様子に、ホッとする。
右を見る。
雄也がサックス列の端で頷いてみせ、隣のゆうゆは小さなガッツポーズをしていちかに言った。
「頑張ろうね……!」
「はい……!」
一分間のチューニング時間を取った後、ついにMCの女性が宣告した。
「それでは、東央大学セルリアンジャズオーケストラの皆さん、演奏を始めてください」
すぐに、美雪のスティックを叩く音が聞こえ始める。
いちかはサックスを咥えた。
これで、決まるんだ……
「ワン、ツー……ワンツッ!」
セルリアンジャズオーケストラの現在の精一杯が、ホールいっぱいに鳴り響いた――




