第74話 春
桜一色の季節を迎え、東央大学には再び大勢の新入生がやってきた。
各サークル・部活の宣伝活動や新歓コンサートなどが、キャンパス全体を活気づかせている。
去年は長く困らされる側だったいちかも、今年は初めから罪深き勧誘側だ。
セルリアンジャズオーケストラも、学校が再開すると共に、再始動し始めた。
練習への参加率は以前よりずっと高くなり、空気も軽い。
いちかの中にあった不安や焦りは、川の底に落としてきてしまったかのように霧散していた。
とにかく全員でいられることが嬉しく、楽しかった。
ただ、翠の練習する姿を見る瞬間だけは、心が針で突かれるように痛んだ。
彼女は今、まるで立てた十円玉を倒さないようにでもするように慎重にピアノを弾いていた。
いちかはただ祈り、願った。
もう一度、翠さんが思うままに弾けるなら、なんでもしたい……
◇
春の嵐は、新入生歓迎コンサートのリハーサル中にやってきた。
バンッ、と重たい防音扉が突然開き、勢い余って壁に跳ね返る。
一人残らず身じろぎした部員たちが、一体どんな大男が来たのかと入り口に目をやると、そこには小さな女の子が仁王立ちしていた。
背中に四角い楽器ケースを背負い、まるで登下校中の小学生のようだ。
「セルリアンジャズオーケストラの部室ってここけ⁉」
小柄な彼女が大声で叫んだ。
「は、はい。そうですけど」 ピアノ椅子から翠が首を伸ばす。「えっと、お母さんとかと来たのかな……?」
「……? 親は来とらんよ? 入部希望なんじゃけど」
「入部……? あ、新入生⁉」
「うん!」
彼女のパッチリした二重まぶたは限界まで見開かれ、体は好奇心で膨らんでいた。
立っているだけで快活さとパワーを感じさせ、彼女のオーラが部室を飲み込んでしまう。
漫画みたいに両手を重ねて駆けていった翠に案内され、休憩スペースに赴くも、仕切りのホワイトボードなど無意味と言わんばかりに、元気な声が筒抜けてきた。
「高苗清菜です!……そう、広島! すごい、なんでわかったんですか?……あ、今度他の友達も連れてくるけぇ、待ってて!」
「元気だ……」
芳樹が眩しそうに目を細めている。セルリアンの陰代表が、陽の気にあてられて消滅しそうだ。
「俺、暇やから書類とか貰ってきますわ」
夏雄は休憩スペースを覗いて翠に言うと、小走りで部室を出て行った。彼の足もだいぶ良くなってきていた。
長い冬を乗り越え、ようやくセルリアンにも芽吹きの春が訪れようとしていた。




