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第40話 昔話


 翌日、いちかは東央大から人里へ降りるバスに乗り、駅前へと向かった。

 十二月の休日はどこか慌ただしく、街中は気の早いクリスマスの装飾で彩られている。


 指示された通り駅の入り口に向かうと、碧音と翠の姿があった。


 翠は、いちかを見るとニコニコと嬉しそうに手を振ったが、碧音は心なしか不機嫌そうに見える。

 彼は珍しく大きなバックパックを背負っていた。ヤンチャな服装には絶望的に似合っていない。


「とりあえず来ましたけど、どこかに行くんですか?」


 いちかが尋ねると、翠は目を丸くした。


「あれ? あお、話してないの?」


「あぁ」


 碧音が無愛想に答える。

 翠は呆れたというように弟の横顔を眺めた。


「あのね。今日は、私の治療についてきてもらおうと思って呼んだの。いい?」


 治療――

 その言葉は、翠の過去を知った今、重く響く。


「それは全然いいですけど、なぜ……」


「んー、色々話したいけど、時間ないから移動しながらにしましょうか。では、出発進行! えいえいおー!」


 翠はいつもと変わりなく、先頭切って改札に向かっていく。


「お、おー……」


 いつにもましてピリピリしたオーラを発する隣の男には触れないようにしつつ、いちかは翠の後についていった。



   ◇



 都内に向かう急行電車に乗っている間、彼女はあっけらかんと自身の過去と現在のことをいちかに説明した。


 ほとんどはインターネットで知った通りだったが、文字で読むのと、翠自身の口から語られるのとでは、現実味がまるで違った。


「って感じで、イップスのでっかいやつ、みたいな感じでさ。一分くらい連続で弾いたら、もう手が震えちゃってダメなの」


 翠が右手を軽く振ってみせる。やはり、問題は手の震えらしい。


「でも、バンドのときは……? 一分越えてますよね?」


「実はね、うまくサボってるの。バレてないでしょ?」彼女は悪戯っぽくウィンクした。「でもねぇ、それも、今は主役じゃないぞ、お手伝いしてるだけだぞって頭が判断してるから出来るのかもしれないんだよね。結局、精神的なものだから」


「それって、一人でステージに立つのが怖い、とか?」


「うーん、怖くはないんだよねぇ。心は準備オッケーなんだけど、体が断固拒否! みたいな。なんなんだろうね? ね、あお?」


「分かってたら、こんな苦労してねぇよ」


 ぶっきらぼうに答える碧音に、翠は楽しそうに笑う。


 先ほどから、翠は遠足に行く子供のように無邪気だった。これではどちらがイップスに苦しんでいるのかわからない。


 いちかは今日ずっと気になっていたことを尋ねた。


「どうして私、ここに呼ばれたんですか? そんなプライベートなところ、他人が見ていいものでは……」


「それ、あおにも言われた」翠がくすくす笑う。「でも、隠しごとは不誠実な気がしてさ。いちかちゃんはあおを連れてきてくれたのに」


 車内には、走行音に紛れて、停車駅のアナウンスが流れていた。

 次が、いちかたちの降りるべき駅のようだ。


 翠は車内液晶を眺めながらポツリと呟いた。


「まぁでも、今日で治るかもしれないけどね」


「え、本当ですか⁉」


「なんでも、すごい先生らしいよ。似たような人、何人も復活させたって。代わりに、あおのバイト代数ヶ月分飛んじゃったけど」


「え、これ碧音さんがお金出してるんですか⁉」


「うん。ずっとね」


 翠が少し切なそうに微笑む。

 いちかは窓際に佇む碧音に目をやった。


 こちらの会話が聞こえているのかいないのか、じっと車窓の景色を眺めたまま動かない


 彼は、どんな思いで翠の病と向き合っているのだろう……




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