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第33話 ボロのトランペット


 結論から申し上げますと、練習する時間はありませんでした。


 翌日、碧音から呼び出されたいちかは、部室につくや、彼から手書きの楽譜を突きつけられた。


 それは、アドリブが出来ないいちかのために用意されたソロ用の譜面――通称『書き譜』――だった。

 一晩で作られたものだろうが、五線譜の上は音符で真っ黒。


 しかも、それが全部で三枚……


「あの、あと一週間ちょっとしかないんですけどぉ……」


 いちかが恐る恐る尋ねると、


「だから? 早く準備しろ」


 碧音がパラパラとトランペットを鳴らしてアップし始めた。

 こちらを見向きもしない。


「日向子には優しいのに……」


「あぁ? なんか言ったか?」


「いえ……」


 言ったけど。


「……あいつは初心者なんだから当たり前だ。お前はこんくらい吹けんだろ」


 いちかは思わず、驚きに目を瞠った。

 え、何、今……褒められた……?


 いちかは、それだけでやる気になってしまった。



   ◇



 その日の練習は、二時間ノンストップだった。

 初見の楽譜を吹き、ダメ出しを喰らい、碧音の模範演奏を聞き漏らすまいと耳を澄ます。


 休憩と言われたときには、いちかの頭と体はヘロヘロになっていた。


「まぁ、少しはマシになったな。本番までに暗譜しとけよ。楽譜ガン見なんてクソダセェの、客に見せらんねぇから」碧音は手近な椅子にドカッと座って言い放つ。

「うす……」


 いちかも自席に座りながら思い直した。


 やっぱり、もう少し優しくてもよくないですか……?


 碧音は休憩中、トランペットについた皮脂をクロスで拭いていた。

 彼は、時間が空いたら、すぐに楽器の手入れをする。


 いちかも長いこと音楽をやってきたが、これほど頻繁に掃除する人には初めて会った。

 ただ、丁寧な扱いの割には、楽器のあちこちに傷やへこみの跡があり、その差がいささか不可解だ。


「そのトランペット、中古とかですか? だいぶボロボロですけど」


「言い方考えろよお前」碧音は呆れたように息を吐くと、思い出すように天井を仰いだ。「新品からずっと使ってるだけだ……もう十五年とかだな」


「すごっ……じゃあ、最初の楽器?」


「あぁ。音楽やるっつって親に買ってもらったやつ」


 いちかは感嘆してしまった。初めての楽器は長く使うものだが、十五年はなかなか聞かない。


「は~、だからそんなに手入れしてるんですね。愛着が凄そう」


「最初からそうだった訳じゃねぇけどな」彼は自嘲気味に笑う。「元々こいつは、翠が勝手に親と選んできたやつでな。あの時はマジふざけんなよって感じだったわ。姉って生き物はなんでこう自分勝手なんだ、弟を道具としか思ってないのか……教えろだの譜面作れだの……」


「でも、ずっと使ってるんですね」


「まぁ、相棒だからな」


 ニヤと笑った碧音に、いちかは少し感動してしまった。


 十五年も使っていれば、ピストンの摩耗や金属疲労で楽器は少しずつ扱いにくくなっているはず。それでも手入れして使い続けるのは、愛情以外の何物でもない。


 サックスを埃まみれにしていた過去の自分が恥ずかしくなってきた。


「それに、いい子だったしな、俺は。気に入らなくても妥協できたんだ、あいつより大人だから」


 そう言った後、碧音はいちかの驚愕した顔に気づいて憤慨した。


「んだよ、その顔。いい子だろうがよ、人の選んだ楽器で我慢したんだから」


「はい。だから、なんでこうなったのか……あっ」


 滑った口を抑えるが、後の祭り。


「……休憩終わりだ。さっさと立て」


 碧音が立ち上がると、音源を再びスピーカーから流し始めた。


「早くないですか⁉ まだ十分も経ってないんですけど!」


「充分だろ」碧音はにべもなく突き放す。


 絶対当てつけだと思いつつ、いちかの体は慌てて立ち上がっていた。


 中高の部活で染み付いた、スパルタについていってしまう習性は、どうやら未だに取れないようだ。



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