第26話 黒い影
「……っ!」
横から飛んできた声にギクリと身を凍らせ、恐る恐る振り向く。その先にいたのは……エリカだった。
右手に白のハンドバックを提げて、派手な化粧を施した目をキョトンとさせている。
「なんだ、エリカか……」
「なんだって何⁉ いきなり失礼じゃね⁉」
エリカはキンキンした声で憤慨し始めた。
いちかは手を振って否定する。
「いや、いい意味でね。本当にいい意味で」
「……ふーん? ま、いいや。ねぇ、エリカ暇なんだけどさぁ、一緒にどっか行かね?」
エリカからの誘いに、いちかは少し感慨深くなった。
同じ部の同期だし、この二ヶ月で仲良くなってはいたが、改めて肩も脚も露出したギャルに当然のように誘われると、なんかこう、グッとくるものがある。
「いいよ。どこ行く?」
「いちかの友達とか、なんかやってねぇの?」
「まず友達がいない」
「さみし」
エリカはゲラゲラ笑った。
「んじゃ部室行こうぜ。どうせ行く気だったし」
「なんか用あるの?」
「別にないけど。うちらのホームっしょ」そう言うと、エリカは腕をパタパタさせた。「それに、翠がいるかも!」
翠の話になると、彼女はいつも無邪気に振舞った。
◇
いちかとエリカは、キャンパス外れの第三部室棟へと向かうため、大ホール脇の坂を降りていった。通い慣れた道を数分歩けば、竹藪の先に、皆に忘れ去られた建物が現れる。
数千人のざわめきも愉快な音楽も届かない、静かすぎる棟を三階まで上がり、重い防音扉を押し開けると、そこには同じく暇を持て余した先客がいた。
「うぃー、お疲れぃーっす」
チャラい見た目の男が、セカンドテナーの席から軽い調子で手を上げた。
彼、三条隼人は、テナーサックスのエキストラだった。
エリカが連れてきた彼は、普段はスカバンドに属しているのだが、持ち前の気安さで瞬時にセルリアンへ順応し、今や部員以上に部室に入り浸るようになっていた。いわゆるコミュ強である。
エリカは部室を見渡した。
「……他に誰かいんの?」
「ううん。俺っちだけ」
「はぁ⁉ お前鍵は?」
「プレートの裏にあるっしょ」
「いや勝手に開けんな!」
エリカが叱るも、彼はカラカラと明るく笑う。反省の色なし。
「エリカといっちーは、何しに来たん?」
「暇だから来ただけで。隼人さんは?」いちかが荷物を置きながら聞く。
「俺っちはスカの出番待ち」
「ならそっちの部室行けよ」エリカが呆れたように言った。
「いさせてよぉ~。あそこ上下関係とか堅っ苦しくてさぁ。だってさぁ、敬語とかウザくね?」
「まぁそれはわかる。ウザい」エリカが深く頷く。
「だよなー」
気さくに話しているが、隼人は二年生で、エリカやいちかよりひとつ年上だった。
このフランクさが、彼の売りだ。
「食う?」隼人がスナック菓子を二人に差し向けた。
「マジで家みたいに過ごしてんな」
エリカは鼻で笑って、それをいくつか手に取るとトランペット列の定位置へ戻っていく。
いちかも自席に座って、隼人からお菓子をもらった。
しばらく、三人のスナックを咀嚼する音だけが部室に広がる。
窓からは、十一月の陽光が穏やかに空気を暖めていて、のどかだった。
「んー……!」
エリカは椅子の上であぐらをかき、脱力するように天井を見上げていたが、突然跳ね起きて言った。
「やっぱ暇だわ! じゃんけんで勝ったやつが買い出しね。エリカ、飲みもん買うの忘れたから」
「男気じゃんけんっつーわけね」隼人はもう両手を捻って手の隙間を覗き込んでいる。「勝ちてぃー」
「今来たばっかなのに……」
「いいじゃん、どうせやることないし」
「……致し方なし」いちかも礼儀として肩を回す。勝ちてぃー。
「さいしょはグー!」エリカが甲高く叫ぶ。「じゃんけんぽん!」
三本の腕が差し出される。
最も男気を見せたのは……いちかだった。
◇
よく考えたら、シフトで一番疲れてるはずの私が、なぜ買い出しに……?
今更そんなことに気づくが、後の祭りで。
いちかは屋台村を回って、部室にいる二人から託されたお使いを黙々とこなす。
エリカと隼人は、ここぞとばかりにバナナジュースやら牛串やらと所望したため、いちかの両腕には大量の品が提がっていた。
ようやくオーダーをすべて揃え、さて部室へ戻ろうかというときだった。
はしゃいだ衣装の学生たちや一般客に紛れて、黒い影がひとつ道路を横切っていくのがいちかの目に止まった。
影は、学内の熱気には目もくれず、人気のない道へと消えていく。
黒の楽器ケース、周囲を威嚇する服、そしてサングラス……
遠目でも見間違えるはずはない。
いちかは人知れず緊張し、こっそりと跡をつけ始めた。




