51:ニコです
フィーネさんが目を開けたのは、それからしばらくしてからだった。
鎧のまま眠っていたので、起き上がるときに肩が鳴った。
彼女は何度か瞬きをして、それから俺の顔をじっと見た。
「起きてる」
「はい」
「三日寝てたって」
「そう聞きました」
彼女は椅子に座り直した。
指は立たなかった。
手の甲が汚れている。切れているのは指の付け根で、埃と混ざって黒くなっていた。半年前にも、同じところを見た。
「怒らないんですか」
「怒るよ。あとで」
「……はい」
「いま怒っても、シュウさん、聞いてないでしょ」
そのとおりだったので、黙った。
窓の外で、荷車の音がしていた。壊れた家の材木を運んでいるのだろう。三日前まで、この音は無かった。
彼女は膝の上で手を組んで、しばらくそのままでいた。
「西でね、二日目の夜に、感じたの」
「はい」
「すぐそこ。二本先の通り」
「はい」
「走った。着いたら、もう終わってた」
彼女は膝の上で、指を組み直した。
「うちの若い子が、下敷きになってて。でも、別の隊が入ってて、荷車をどけてた」
「はい」
「わたし、いらなかった」
言葉が途中で止まった。止まってから、続いた。
「あの隊、三日前にわたしが置いたんだ。紙に線を引いて、こことここ、って」
彼女は、そこで初めて手のひらを見た。
黒くなった指の付け根を、もう片方の手で押さえている。
俺は何も言わなかった。
「あのね、シュウさん」
「はい」
「わたしが分かるの、すぐそこだけなんだよ。二本先とか、そのくらい」
「はい」
「あの夜、街には何百人もいた。わたしが分からない場所の方が、ずっと多い」
「……はい」
「そっちも、助かってた」
彼女はそこで、初めて笑った。疲れた笑い方だった。
「わたし、ずっと自分が行かなきゃって思ってた。家訓だから」
「一人も見捨てるなって、言ってましたね」
「うん。……でも、あれ、わたしが行けって意味じゃないのかも。誰かが行けばいいんだ。行ける形にしておけば」
「はい」
「だから、そういうのを作る。走るのは、そのあとでいい」
「遺跡には、来ないんですか」
「行かないよ。ここでやる」
「はい」
「シュウさんが向こうを直したみたいに、わたしはこっちを良くするから」
半年前、崩れた家の前で、この人には三人が同時に分かった。一人しかいないので、順番をつけた。
あのときできなかったことを、今度は仕組みの側でやろうとしている。
「シュウさんと同じだよ」
「私は、直しただけです」
「ほら、それ」
彼女は少し身を乗り出した。
「シュウさんもでしょ。壊れてるもの、放っておけないんだから」
彼女の緑の瞳が、俺の顔を覗き込んでいた。
* * *
落ちていた四つを戻したのは、それから三日かけてだった。
供給を止めて、原因を辿って、繋ぎ直す。一つ目に二日かかって、残りの三つは半日ずつで済んだ。壊れ方が同じだったからだ。
五百年、誰も辿らなかった経路が、五百年ぶんの理由でそうなっていた。書き取ったのはラウルさんで、紙は教会に置いた。
外周防衛結界:正常
稼働系統:11
境界重複:あり
全部戻った。
それから、聖典をもう一度開かせてもらった。今度は急いでいない。
三つ目の手順書の脇に、あの書き足しがある。日付と、名前。
ヴェルナー。
一つ目まで遡って、日付の並びを追った。旧市街の記録の最後の方に、同じ字がある。指示を出す側の字だ。それが途中で止まって、二つ目の、新しい街を作る話の中でまた出てくる。
間に、空白がある。
「ニコに訊いたことがあります」
コンラート司祭が顔を上げた。
「あちらの管理者は、記録には残っているのに、登録が消えていました。理由は上位の権限が要るので、私には読めません」
「では、こちらには」
「書いてあります」
規定どおりだった。
避難に際して、管理者は権限を返上する。返上した。そこまでは正しい。
次の者を登録する前に、都市が放棄された。
「やっぱり、引き継ぎ失敗か」
声に出してから、こちらの言葉ではなかったことに気づいた。
コンラート司祭が何かと訊いたので、言い直した。
「渡す人はいました。受け取る人が、決まらないうちに終わったんです」
「……それだけ、ですか」
「それだけです」
五百年、正式な管理者が不在だった理由がこれだ。
誰も裏切っていない。誰も怠けていない。手続きが途中で止まって、そのまま誰も戻らなかった。
俺に出たのが仮の管理者だったのも、同じ理由だった。空いていたから、埋まった。それだけのことだ。
選ばれてはいない。
少しだけ、ほっとした。
選ばれていたのなら、なぜ自分なのかを説明できなければならない。説明のつかないものを、半年背負ってきたことになる。
空いていたから埋まった、なら、次に誰かが来たときに渡せる。渡せるものを持っている方が、俺には楽だった。
* * *
街を出る前に、いくつか寄った。
飯屋は板が外れていた。中は暗いままだが、火鉢が出ていなかった。
代わりに、奥のテーブルに見覚えのある金物が置いてあった。摘まみのついた、手のひら二つ分ほどの箱。椅子は、今度は奥のテーブルに寄っていた。
誰が作ったものかは、たぶん誰も気にしていない。
教会の中枢部屋では、ラウルさんが若い人を三人連れて壁の前に立っていた。
「箱の左隣からです。外側から内側へ」
「なぜそこからですか」
「大元に近い方から見るためです。先に入る量を見て、それから出る量を見ます」
答えたのは、ラウルさんではなかった。もっと若い声だった。
コンラート司祭は、少し離れたところで記録帳を開いている。いつもどおり、法衣は上まできっちり止まって、隙がない。
何も言わずに、何かを書いている。
俺もそうだ。何も言う必要が無かった。
守備隊の詰所には、紙が貼ってあった。
街の形が炭で描いてある。門が四つ、番号が振ってある。前に見たときより線が増えて、左の端に遺跡が足してあった。街道が一本、その二つを繋いでいる。
誰かが図の前で言った。
「こうして見ると、もう別の街って感じじゃないよな」
別の誰かが、紙の束をめくっていた。
「遺跡は、結界が止まらなかったらしいな」
「二百人入れて、一晩な」
「要塞だろ、それ」
あの夜の伝令を探した。いなかった。
訊くと、二度目に教会へ来たあと、肩をやられて下がったのだという。命に別状はない、と言われた。
三度目に別の人が入ってきた理由が、これだ。
家にいるというので、見舞いに向かった。
話はできた。肩が戻るかは分からないと言っていた。
名前を訊いた。それしか、できなかった。
職人街の奥に、炉が一つだけの工房がある。
粗悪品が出回ったとき、話を聞いてその場で回収を決めた親方の店だ。肩が厚くて、若い弟子が二人いた。
行ってみると、炉が二つ点いていた。積み直したらしい。弟子は三人になっている。リタさんが床に金具を並べて、その真ん中にいた。
彼女は喋りながら、ずり落ちそうなゴーグルを片手で元の位置に戻した。
「型は写せばいい。だが、なんでこの厚みなのかは、写せねえ」
「……はい」
「だから訊け。作ったやつに訊け」
「作ったやつが、いなくなったら」
「そのときのために、理由を書いとくんだよ」
彼女は俺に気づいたが、手は止めなかった。顎で戸口の方を示された。行け、ということらしい。
俺は頭を下げて、外へ出た。
街道へ出て、一度だけ振り返った。
端から目で追った。どこも途切れていない。半年前に初めて見上げたときと、同じ形だ。
歩きながら、考えていた。
紋様を読む人がいる。図を描く人がいる。厚みの理由を訊けと言う人がいる。どれも俺がいなくても続く。
半年前、読めるのも、気づけるのも、俺だけだった。読んだところで、言う先が無かった。手順書に無いと言われ、前例がないと言われた。
いまも、俺にしか読めないものはある。ただ、読んだあとに何をするかを知っている人が、この街に何人もいる。
要塞だ、と言われた。
そんなものを作ろうと思ったことは、一度もない。住むところが無かったので直して、人が来たので受け入れて、足りないものを作っただけだ。
それでも、こうなった。
* * *
遺跡の食堂は、朝の音がしていた。
半年前、ここは廊下の奥の空き部屋だった。埃と、水の出ない口と、点かない灯りがあった。水だけ出るようにして、自分の部屋で一人、保存食をかじっていた。
エマさんが鍋を掻き回している。ハンスくんとレニくんが器を運んで、途中でぶつかって、ヨナスさんに笑われていた。この部屋の顔ぶれは、変わっていない。
通りの向こうの棟からも、同じ音がしている。
九人だったのが、いま何人なのかを俺は数えていない。数えているのはニコで、朝に棟ごとの数を読み上げる。あとは、棟ごとに鍋の数になる。
端に座って、出されたものを食べた。味は毎朝同じだ。同じであることが、たぶん一番の成果だった。
誰かが、三階の灯りが一つ点かないと言った。
俺が顔を上げるより先に、ヤンさんが立ち上がった。東側だろ、と言って、道具を取りに行く。
そういう順番になっている。
食べ終えると器を片付けて、通りへ出た。
トモが足元を抜けていく。追いかけている子がいた。街から来た子だ。名前はまだ知らない。
その子が、通りの先で止まった。
ニコが立っていた。いつからいたのかは、もう訊かないことにしている。
「あなたは?」
子供が訊いた。
ニコは少しのあいだ、動かなかった。考える、というのが彼女の機能にあるのかは、いまも分からない。ただ、考え込んでいるような長さだった。
それから、首を傾けた。青い髪が、揺れた。
「ニコです」
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