第十五話 感謝④
どちらにも迅から連絡をすることなく日常生活を送っていると、それから三日が過ぎたクリスマスの夜、ミサトからラインが送られてきた。
――「明日か明後日の夜、前に飲んだバーに来てもらえるかしら?」
前に飲んだバー、とは、forestメンバーで祝賀会をした店ではなく、二人で話をしたバーのことだろうか。
すぐにスケジュールを確認すると、明日の夜は泊まり予約が入っていたが、明後日はまだ予定が空いていた。
――「明後日でしたら空いてます」
――「そしたら九時に。待ってるわ」
そうしてさらに二日が過ぎて指定された時間にバーへ向かうと、前回と同じくカウンター席でワイングラスを片手にチャームのミックスナッツを摘まんでいるミサトの姿が目に入った。
赤褐色の赤ワインは、ミサトによく似合っている。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
迅の到着に気づいたミサトがこちらに向き、ほんの少しだけ苦味の混じった微笑みを浮かべた。
「少し早く着いたものだから、先に一杯飲んじゃってたわ」
「いえ、大丈夫です。気にしないでください」
椅子を引いてミサトの隣の席に座った迅は、カウンターの向こうにいるバーテンダーへ視線を送ると、最初のお酒を注文する。
「ジントニックで」
店内にいるお客様の姿はまばらで、それほど混んでいない。
すぐにジントニックを作り始めるバーテンダーの手際いい動きに目を奪われてしまい、気づけばグラスにライムが添えられていた。
氷が軽やかな音を立て、迅の前にグラスが置かれる。
「どうぞ」
と。隣からミックスナッツの置かれた小皿を差し出され、迅はそれに手をつける前にグラスを掲げてみせる。
「乾杯」
「ええ。乾杯」
グラスが触れ合う澄んだ音が響き、ジントニックを傾ける。
ライムの爽やかな香りが鼻を抜け、炭酸の刺激が舌に広がった。
そんな迅の姿をしばし見つめ、ミサトが静かな吐息をつく。
「……びっくりしたわ」
「なにがですか?」
迅が一人でここへ呼び出された理由には心当たりしかないが、万に一の可能性で違うことも考えて、無難な問いかけを返す。
するとミサトは少しだけ恨めしそうに半眼になり、迅の口元には苦笑が浮かんだ。
「とぼけないで」
グラスをテーブルに置いたミサトからは、わずかな困惑が伝わってきた。
「あなたが来ると思って店に入ったら、栞が……、娘がいるんだもの」
「びっくりさせちゃいましたよね、すみません」
ミサトが驚くのは当然で、迅は素直に謝罪する。
頭の中に、栞を見つけたミサトが固まる姿が浮かび、思わず悪戯っぽい苦笑が洩れた。
「サプライズも過ぎるほどの誕生日プレゼントだったわ」
だが、そう言って小さく肩を落としたミサトの反応に、「プレゼント」だと思ってくれたのならば、サプライズは成功したのだろうかと考える。
少しは嬉しいと思ってくれたのだろうか。
「経緯は娘から聞いたけど、本当に、いつの間に……」
「でも、オレが強引にセッティングしたわけじゃないですよ? 栞ちゃんのほうから、ミサトさんに会いたい、って言ってきてくれたので」
戸惑いと、喜びと、後ろめたさと。いろいろな感情が入り混じった表情で呟くミサトに、迅は静かな微笑みを返す。
ミサトへ歩み寄りたいと思い、最初の一歩を踏み出したのは、栞の意思だ。
迅はほんの少し、背中を押す手伝いをしただけ。
「栞ちゃん、誕生日にミサトさんがこっそり見に来ていたこと、気づいていたみたいなので」
「それも聞いたわ」
なんだか似た者親子だと思って苦笑を零せば、ミサトは自分を落ち着かせるようにワインを傾けた。
「あんな形で家を出ていって……。憎まれて、軽蔑されて当然のことをしたのに、あの子は……」
「すごくいい子ですよね」
「……ええ」
迅が抱いた感想を否定することなく頷いて、ミサトは残り少なくなったワインへ視線を落とす。
「きっと、あの人の育て方が良かったのね。私ではこうはいかなかったわ」
「そんなことは……」
あの人、とは、栞の父親――ミサトの元夫のことだろうか。
口元へ自嘲の笑みを刻むミサトへ、迅はそれを否定することも肯定することもなく、ただ自分が感じたそのままのことを口にする。
「オレは、すごくミサトさんの子供らしい子だな、って思いましたけど」
今時の高校生を迅は知らないが、それでも栞はかなりしっかりした性格をしていると思った。
ただ感情に流されるのではなく、物事を冷静に見て判断する知性を持っている。
その姿は、いくつもの店舗を抱え、成功させてきたミサトのそれと重なった。
「こんなふうになったら困るわ」
「なにを言ってるんですか」
迅のほうへ顔を向け、小さく苦笑するミサトに、迅は柔らかな笑顔を返す。
「ミサトさんは、オレにとって心から尊敬できる上司ですよ」
ミサトに誘われ、ミサトの元でセラピストをすることができたから、以前の自分より一回りも二回りも成長することができたと思っている。
ミサトと出会ってから今日までの一年は、まるで一カ月が一年に感じるほど目まぐるしく、多くの経験を得ることができた。
それはすべて、迅の上にいる人間がミサトだったからだ。
きっと、ミサトでなければこうはならなかった。
これはただの真実で、確信でしかない。
「……ありがとう」
少しだけ複雑そうな瞳で照れたように笑ったミサトは、再度ワイングラスを持つと真っ直ぐ迅を見つめてくる。
「ジン」
「はい」
「はじめて出会った日から、ちょうど一年ね」
奇しくも一年前の今日は、迅が「ハヤト」としてミサトとはじめて会った日だった。
過去を懐かしむようなミサトの瞳を前にして、迅は一年前のことを思い出す。
「そうですね。思い返すといろいろなことがありましたね」
「あなたには本当に感謝しているわ」
その言葉にまた、一つ成長できた気がした。
これまで自分が選んできた岐路は間違っていなかったのだと自信が持てる。
「あの時、あなたに声をかけた過去の私を褒めてやりたいわ」
人と人との出会いは本当に不思議だと思う。
なにか一つでも違っていたら、掛け違えたまま一生交わらない縁だった。
「あなたを誘って正解だった」
けれどそこでミサトは伏し目がちになり、残り一口になった琥珀色の液体を揺らす。
「でも、あなたにとってはどうなのかしらね」
「ミサトさん……?」
なんだか胸の奥がざわつく気がするのは迅の気のせいだろうか。
「決めたわ」
最後の一口を喉の奥へ流し込んだミサトの瞳には、強い光が灯る。
「なにをですか?」
妙に心臓がドキドキする。
「forest起死回生の一手でも思いついたとか?」
その問いかけは、どちらかといえば「そうであってほしい」という迅の望みから出た言葉かもしれない。
「いえ、違うわ」
空になったワイングラスをテーブルに戻し、ミサトははっきりと宣言する。
「解散よ」




