第十五話 感謝②
「わたし、ショックで……! なにを言ったかは覚えていないんですけど、言い争いになって、腕を掴まれて押し倒されて……」
その時のことを思い出したのか、自分の身体を抱き締めるようにして語られた内容はアオの話と相違なく、〝暴力沙汰〟と言われるほど酷い扱いを受けたわけではないことだけはほんの少しほっとする。
「その時、気が動転して、思わずホテルを飛び出してそのまま警察に飛び込んじゃったんです……」
普段の生活の中であれば、いくらなんでもそこまで……、と思われる行動だったとしても、夜の世界においては警察沙汰は珍しいことではなく、ついその状況を受け入れてしまう。
「それを、たまたま蒼くんを張っていた週刊誌の記者さんが目撃したらしくて、声をかけられて。その人、すごく優しくて。〝相談〟のつもりで話していたはずが、いつの間にか変な方向になっていって」
警察署で話を聞いてもらっているうちに落ち着きを取り戻し、被害届までは出さないことにして警察署を出たところで、「少し話を聞かせてほしい」と呼び止められたらしい。
雑誌記者だという名刺を渡され、落ち着いたと思ってもまだ冷静にはなれていない状態で、なんの疑いもなく喫茶店について行ってしまったという。
そして、優しく話を聞かれ、寄り添う言葉をかけられたことで、ついいろいろと〝相談〟してしまった。
その結果。
「気づいた時には記事にされていました」
その言葉には、そんなつもりはなかったという後悔が滲んでいた。
「まさか、こんなことになるなんて……! 大変なことになっちゃって、怖くて言い出せなくて……っ」
記事を見て、愕然と身体を震わせたのだと、細井はさらに強く自分自身を抱き締める。
「ごめんなさい……!」
自分の身体を抱き締めたまま、細井は震える声で謝罪する。
「そんなつもりじゃなかったのに……!」
事務所で皆が必死に対応している姿を見て、自分がしでかしたことの罪の重さを思いしらされ、けれどそれゆえ口を噤んでしまったと説明する。
名刺に書かれていた連絡先に抗議の電話をしたところ、嬉々として第二報の話を持ち出され、さすがに差し止めを要求したとのことだった。
「わたしはただ、蒼くんに会えることが嬉しくて……っ。子供を授かったなら産みたいな、って……!」
憧れだったアイドルと会って話ができる。しかも、それだけに留まらず、触れ合うことまでできた。
憧れの気持ちはいつしか恋愛感情となり、〝好きな人〟の子供を身籠った。
最初はどうしようかと混乱したものの、〝堕ろす〟という選択肢はなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 迷惑、かけてしまって……!」
悲痛の叫びを前にして、それぞれ驚いたり困惑したりという様子は見えるものの、その場にいる誰も細井を責めようとはしなかった。
アオが堕胎することを改めて伝えるように、と軽々しく言ったのは、こういうことだったのかと嫌な気持ちになりながら納得する。
「……わたし、辞めます、ね……」
「え?」
唇を噛み締めて告げられた言葉に、なにを聞いただろうかと驚きの目を向ける。
「本当はすぐにでも辞めるべきだったのに、みなさん、すごくお忙しそうで……。わたしのせいなんですけど、少しは責任を取って仕事をこなさなくちゃ、って……」
forestを去ることは簡単だが、自分のせいとはいえ一人分の穴が空くことでさらに負担を増やしてしまうことを考えるとすぐには辞められず、しばらくは激務をこなすことで責任を取ろうと考えたのだと、細井は泣きそうな声で説明する。
「でも、さすがにもう、ダメですよね……」
「……そうね。自店のセラピストと関係を持つような内勤は認められないわね」
自嘲の微笑みを浮かべた細井に、奥歯に力を込めたミサトが苦しい決断を下す。
公私混同する人間は、この世界でなくても許されるものではない。
そうはいっても、ミサトがどのような思いで契約解除を告げたのかと思うと、ミサトの精神状態が心配になる。
細井とミサトはforest立ち上げ前からの関係性であり、ミサトも絶大な信頼を寄せていた。そのため、forest立ち上げ時にこちらの店もサポートしてほしいと、ミサトが経営するエステ店との兼務を任されていたのだ。
この件でミサトが受けたショックはどれほどのものだろう。
「……はい……。本当に申し訳ありませんでした……。すぐに片付けて出ていきますね……」
「今月働いてくれた分の給与は来月振り込むわ。今までありがとう」
細井は身体を震わせながら丁寧に頭を下げ、このまま身の回りを片づけてすぐに出ていくことを告げる。
「……」
「……」
室内には重苦しい空気が漂い、沈黙が落ちた。
そうして、どれくらいの時間が流れただろうか。
たぶんそれほどの時間はたっていないのだろうが、沈黙の中でミサトが溜め息を落とす気配を感じ、数秒額を押さえたのちに顔を上げる。
「それで……、なんだったかしら」
「……今後、forestをどう立て直していくか、ですか?」
動揺から回復しきれていないミサトの言葉を受け、迅は本題を投げかける。
「そうね……」
さすがのミサトも疲れた様子を見せていて、しばし考え込むと今までと変わらない無難な方針を口にする。
「とりあえず今は、お客様の信頼回復に努めて、現状維持かしら」
「はい」
「また一週間後にミーティングをしましょう。なにかあればすぐにライングループで共有するわ」
「わかりました」
さすがに今日のミーティングはここまでか。
その時、部屋を出ていこうとした細井が室内へ向かって言葉もなく頭を下げた姿に気づき、迅は一瞬迷ったものの声をかける。
「細井さん」
まさか呼び止められるとは思ってもいなかっただろう細井は驚いたように顔を上げ、揺らめく瞳を迅へ向けてくる。
「今までお世話になりました」
「迅さん……」
いろいろと思うところはあるものの、迅は今日まで裏方としてforestを支えてくれたことに、優しい笑顔で感謝の気持ちを口にする。
最後の挨拶もなく別れるなど、いくらなんでも辛すぎる。
「こちらこそ……。本当にすみません」
「……これからどうするの?」
首を緩く横に振り、静かな謝罪を繰り返す細井へ、今後のことを問いかける。
未婚の母が珍しくはない時代にはなっているものの、父親であるアオに堕ろせと言われている以上、産むことを止めることも勧めることも迅にはできない。
「……まだ、わかりません」
「そう……」
静かにforestをあとにする細井を、最後の最後までどんな言葉をかけたらいいのかわからないまま見送った。
ただ一つ。お腹の中の子の幸せを一番に考えてほしいなと思いつつ、前途ある未来を祈ったのだった。
*****
「誕生日までには少しは運気が上向いているといいわね……」
「誕生日……?」
ミーティングが解散となったあと。ミサトが独り言のように呟いた言葉を拾ってしまった迅へ、ミサトの恥ずかしそうな顔が向けられる。
誕生日を一つの節目にするのは、ミサトにとって験担ぎのようなものなのだろうか。
「あ。そうなのよ。年がいにもなくあれだけど、私、来週、誕生日で。祝ってくれるかしら?」
冗談ぽく笑うミサトを前にして、迅の中で一つの考えが浮かんだ。
「そうですね」
「え?」
「あとで連絡するので予定を空けておいてもらえますか?」
これが、今のミサトの癒しになることを願って。
事務所を出た迅は、帰宅する電車の中でメッセージを送信した。
相手は――、栞だ。
――「オレがうまく場をセッティングするから、お母さんの誕生日に会ってみない?」




