第十二話 百万円の闇③
「ハヤト、くん……」
「覚えててくれたんだ?」
呆然とシークレット・ラバーズ時代の迅の源氏名を零したマリへ、迅は目元に柔らかな笑みを浮かべながら苦笑する。
マリが自分のことを忘れていないことなど、今までの出来事からわかっている。けれど改めてついそう尋ねてしまったのは、本当に最後の最後の頭の片隅で、マリと過ごした時間が嘘ではなかったと信じたかったからかもしれない。
「それは……、もちろん」
「元気だった?」
「……」
あえて普通の会話を選んでマリの隣の席に座れば、マリは無言でテーブルの上へ視線を移す。
そこには琥珀を溶かしたような色をしたティーカップが置かれてあり、マリの姿を映して不安定にゆらゆらと揺れていた。
「……ハヤトくんがここにいる、ってことは、わたしの行動はすべてバレてる、ってことかな」
「どこまでが全部になるのかはわからないけど……。まぁ、たぶん、それなりに」
「……そっか」
口元へ、なにかを諦めたかのような弱々しい微笑みを浮かべるマリへ、迅はマリから視線を逸らすことなく苦笑を刻んだ目を向ける。
本来であれば悪だくみが暴かれそうな状況に焦りを見せるだろう場面だが、マリからはどこか安堵のような空気が感じられた。
「あなたの目的はなに? シークレット・ラバーズ本店のみならず、forestのセラピストにまでちょっかいをかけきて。ただの憂さ晴らし? 気に入らないセラピストを退店に追いやりたいの? うちを潰したい?」
そこでミサトが淡々とマリへ詰め寄り、瞳を鋭く光らせる。
「それとも」
先ほどの問いかけは前置きでしかなく、おそらく本命はこちらに違いない。
「誰かの指示で動いている、とか」
「…………そうですね……。……そろそろ引き際なのかもしれないです」
嘘や誤魔化しは許さないと訴えるミサトの鋭い眼差しに、マリは悲しそうな微笑みを零し、どこか遠い目をして呟きを落とす。
「……わたしなんかがあの人の気を引けるわけがないんだから……」
「〝あの人〟……?」
それは誰のことを言っているのだと眉を顰めるミサトの一方で、迅はマリのその呟きを耳にしてはっとなる。
かつて、マリが迅と会っていた時の姿が、すべて嘘で塗り固められたものだったとは思わない。
あの頃のマリは――、いや、あの頃のマリも自己肯定感の低い、周りの意見に左右されてしまうような性格をしていた。
そこを、〝誰か〟につけ込まれたとしたら。
「ミサトさん、でしたよね。ミサトさんの推測は、半分正解で半分不正解です」
くすり、と自嘲の笑みを口元に刻み、マリはおかしそうにミサトを見つめた。
「シクレ本店のセラピストを誘惑したのはあの人の指示です。ですが、forestのセラピストについては、わたしの独断です」
「目的は?」
たたみかけるように答えを求めるミサトへ、マリはここにきてはじめてしっかりとした態度で口を開く。
「forestの勢いを落とすため」
「な……っ?」
「あの人がそれを望んでいるから。叶えてあげたら喜んでくれるかな、って」
なんとなくそんな予感はしていたものの、それでも衝撃的な行動理由にミサトは無言で目を見開き、ラブホは絶句する。
つまりは、〝誰か〟の指示の元で動くか自分の判断で動くかの違いこそあれ、マリが〝あの人〟のために動いていることは間違いない。
どうしたらそこまで献身的に尽くすことができるのだろう。
「……でも、もう、疲れちゃった……」
マリは今にも泣きそうに微笑み、気持ちの吐露とともに苦しい決断をくだす。
「全部、話します」
それはまるで、辛い現実から逃げ続けることに疲れ、すべて諦めることで安堵を得ようとするかのように。
「……ううん」
マリは首を緩く左右に振ると、迅の顔を真っ直ぐ見上げてくる。
「むしろ、聞いてほしい」
そうしてマリは、ゆっくりと語り出す。
「あの人は、セラピストの適性検査だって言ってました」
まずは、迅をはじめとした本店のセラピストたちに本番行為を求めた件について。
その行動理念を耳にして、迅はすぐには言っていることの意味がわからず、眉間に皺を刻む。
「適性検査……?」
「はい。セラピストは自分にとって駒だって」
セラピストはいわば、各店舗と契約を交わした個人事業主にすぎない。そういう意味では、たしかにその言い分も理解できなくはない気もした。あくまで理屈上の話であって、とても同意できるものではないけれど。
「わたしはあの人に指示されたセラピストに入って、適性検査を繰り返した」
「つまり、オレも強制的にその検査を受けさせられてた、ってこと?」
知らないうちに適性試験に参加させられ、そして落とされた。
意味がわからないとばかりに伺えば、マリはなぜか少しの間を置いて首を捻ってから肯定する。
「そういうことになるの、かな」
「その人の目的は、まぁ、言っていることはよくわからないですけど、マリさんはどうしてその人の言うことを聞いているんですか? 報酬でももらってるんですか? 脅されてるとか?」
煮え切らないマリの言動に、ラブホが痺れを切らしたかのように矢継ぎ早に疑問を投げ、マリの答えをじっと待つ。
本当は、この場にいる誰もがマリの行動原理を察しているに違いない。
そして今回〝あの人〟を裏切る理由が、同じ感情から来ていることも。
「……あの人のことが好きだから。従順に言うことを聞いていれば、いつか振り向いてくれるんじゃないかな、って」
そうだった、と、迅は心の中ではっとなる。
自己肯定感の低いマリは、元々こういった性格だ。相手に従順でいさえすれば嫌われないと思っていて、いつでも相手の顔色を窺い、自分の心身を犠牲にしても好意を持った相手に好かれようとする。
「そんなこと、あるわけないのに。バカみたい」
「……まぁ、そうですねぇ……。恋愛感情に支配されるのって、本当にバカみたいですよね」
「ラブホさん……」
自虐の呟きを洩らすマリへ、ラブホがしみじみと肩を落としながら同意を示し、迅はさすがにこの状況でさらにマリを追い込むような発言は不適切だろうと困惑気味に眉を寄せる。
だが。
「たしかにそんな男に心酔しているマリさん? はバカな女かもしれないですけど。でも!」
すぐにラブホの眉は引き上がり、顔には怒りの表情が浮かぶ。
「なんなんですか、その男。人の気持ちを利用して。しかもよくわからない理屈で偉そうに。許せないです」
「まぁまぁ、ラブホちゃん。落ち着いて」
「クズ男の人権は認めていないので」
苦笑いになったミサトが宥めようと声をかけるものの、ラブホはきっぱりと言い切って、ラブホのその迫力に迅の目は丸くなる。
なんともラブホらしい発言で、あいかわらず毒舌は健在だと、むしろおかしくなってしまう。
「それで、どうしてその人はforestをそこまで意識しているのかしら」
「直接聞いたわけではありませんが、単純に気に入らないんだと思います。昔からしつこいくらい主張してました。業界ナンバーワンは|シークレット・ラバーズ《ウチ》で、それは絶対に揺るがない真理なんだって」
軽く腕を組んだミサトに、マリは落ち着いた様子で自分の推測とそこに至るまでの背景を口にする。
つまりは、出る杭は打たれる、ということだろうか
「……なるほどね」
ミサトが大きく肩を落として洩らした呟きには、たしかに新しいコンセプトを持ち、注目度が高まっているforestのことが目障りになっても仕方がないという妙な納得が滲んでいた。
「それから」
マリはちらり、と迅へ視線を投げ、困惑七割謝罪三割の苦笑いでさらなる話題を提供してくる。
「たぶん、あの人、生理的にハヤトくんのことが嫌いなんです」
「え……っ、オレ!?」
あまりにもびっくりしすぎてひっくり返った変な声が出た。
自分がforestを窮地に追いやる一因になっているなど、心から遠慮願いたい。
「よくわからないですけど……。綺麗ごととかが大嫌いな人なので、ハヤトくんの営業方針が相容れないんだと思います」
「……あー……」
そこでミサトとラブホがほぼ同時に呆れと同意の混じった視線を向けてきて、迅は少しばかり気後れしながら、なぜその反応なのかと半眼になる。
「なんですかその目は」
「だから最初のターゲットにされたのかな、って」
マリの口から出た追加の推測に、思わず納得しそうになってしまうのが怖い。
まさかの最初のターゲットだったという新事実にも驚愕する。
「つまり、〝あの人〟とはシクレ本店時代のジンさんを知る人、と」
なんとなく見えてきた〝あの人〟の正体に、ラブホはじっとマリの顔を窺った。
forestとは違い、所属セラピスト数が二百名を超え、顧客数も圧倒的業界一位を誇るシークレット・ラバーズ本店は、忙しすぎて個人のDMをいちいちチェックしたりしていない。
資本主義の強い本店時代は、セラピスト友達と呼べるような仲間もいなかったため、〝ハヤト〟のことをそれなりに知っている人物ともなれば限られている。
「ここまできたらいいでしょう。もうはっきり言ってちょうだい」
ミサトの視線が真っ直ぐマリの双眸を射貫き、黒幕の正体を問いただす。
「あの人、というのは、だれ?」
「……」
覚悟を決めたはずが、いざとなると最後の最後で胸が痛むのか、ミサトの詰問にマリは口を噤んで沈黙してしまう。
「……マリ」
「マリさん」
迅は柔らかく静かな声色で名前を呼び、ラブホはじっとマリの顔を見つめた。
ミサト、迅、ラブホの、三者三様の視線を受け、マリは勇気を振り絞るように一度目を閉じて深い息を吐き出すと、切なげな微笑みを浮かべた。
「……たぶん、お察しの通りです」
ここまでに得た情報から、〝あの人〟の正体は察しがついている。
迅のことをそれなりに知っていて、適性検査などと称して自分の気に入らないセラピストから金を巻き上げることができる人物など限られている。
「シンヤさん……、シークレット・ラバーズ本店のオーナーです」




