第一話 本番行為③
〝本番行為が発覚した場合、罰金百万円を納めること〟。
たしかに最初に交わした契約書には、そのような旨が書かれていた。
つまりは、一般企業のように辞めるだけでは責任を負うことはできず、なんらかの形で百万円は必ず支払わなければならないということだ。
「支払い方法には二つある」
続けることを選択した迅へ、オーナーは冷ややかな瞳で淡々と説明する。
「まとめて一括で納めるか、売上から相殺して少しずつ納めるか」
社会人としては八年目。
毎月少しずつ積み立てていた貯金の金額が頭を過ぎる。
百万円、という金額は決して払えない額ではない。
将来のために。というわけでもなく、これといった目的もなく漠然と貯めていたお金だが、こんなことのために失うのかと思えば悔しいという感情しかなかった。
だからといって、売上から相殺する、というのもどうなのか。
迅は、決して売れているセラピストではない。
一月にお客様からいただくお金は二十万円にも満たない。
元々、売り上げの半分はお店に納めなければならないため、迅の手元に来る金額は十万円を下回る。
つまりは、これから先の約一年を〝タダ働き〟することになるわけだ。
トータルで払う金額は同じでも、タダ働きだと思って向き合う仕事はモチベーションの低下に直結する。
それならば、貯金を切り崩してでもすぐに全額を納めてしまったほうがいいのではないだろうか。
「どちらを選ぶかは近日中に決めてくれ」
なにも言えなくなっている迅に向けられるオーナーの感情は、ただただ「面倒」が前面に出た事務的なものだった。
わかっている。この業界は売上至上主義の世界だ。
数多くのセラピストを抱えるオーナーにとって、店にたいした貢献もしていない迅の存在などあってないようなものに違いない。
迅がもっと売り上げを出していたら、お客様からの密告があっても突き返していたかもしれない。
「お前程度のセラピストなどいくらでもいる。こちらとしては辞めてもらってもなんの痛手もない」
「え……」
案の定、迅に向けられた無慈悲な言葉に息が詰まった。
知っている。たいした売上を上げていないセラピストは、人間扱いされないことを。
「こんなことで私の手を煩わせないでくれ」
迅を切って捨てることになんの躊躇いもない冷淡な声に、迅は身体の横に作った拳をぎゅっと握り締めていた。
*****
翌日、迅は銀行に出向き、預金を崩すとその足ですぐに事務所に向かった。
貯めるには苦労する万札百枚を持った時のあまりの軽さには、なんとも言えない気持ちになった。
そして、その百万円を受け取った経理担当の男性のあまりにも事務的な態度に、さらに打ちのめされたのだった。
こんな、ことで。こんなこと、のために。
自分はなんのためにセラピストになろうとしたのだろう。
そんなことを考えながら本業の傍らセラピストを続けること二ヵ月。
自分を指名してくれる女性たちとは真摯に向き合ってきたつもりではあるものの、相変わらず鳴かず飛ばずの低迷を続けていた迅は、この仕事をすることの目的を見失いかけていた。
元々、お金のためにはじめた仕事ではない。
そのため、指名数も売上も気にしたことなどなかった。
迅の性格上、これからもがむしゃらに指名を取っていくような営業をすることはないだろう。
それでも。
クリスマス色に染まり始めた街中を歩きながら、迅は行き交う人々の姿をぼんやりと眺めた。
仕事帰りだろうか。急いで駅に向かう女性もいれば、友人と連れ立ってきゃっきゃっと楽しそうな声を上げている二人組の女性もいる。
腕を組んだ男性の顔を笑顔で見上げている女性はとても幸せそうだった。
――『迅とはもう一緒にいられない』
その時ふいに頭の中に響いた彼女の声に、迅は残像を振り払うように首を横に振った。
幼い頃から、迅に対する女性の評価は、「優しい」が一番にくるくらいで、恋人ができれば、彼女を不安にさせないように。悲しませることのないように、最優先させてきた。
自分本位の行動を取ったこともないはずなのに。
――『迅はね。優しすぎるの』
優しすぎるのが不満だというようなことを言われても、意味がわからなかった。
優しさが他人を追い詰めるようなことになるなど信じられなかった。
――『優しい人がいいのに、優しいだけじゃ嫌、なんて。我が儘でごめんね』
時にはもう少し強引にリードしてほしかったと言われ、衝撃を受けた。
女の子は少しでも強く触れたら壊れてしまいそうだから。
怖がらせないように優しく。傷つけないようにそっと。
ずっと、相手が少しでも嫌がることは絶対にしないように、を意識していた。
――『優しすぎて、なにも感じられなかった』
ベッドの中でも、自分の欲望を抑え込み、大切に、大切に。
壊れやすい宝物に触れるように、慈しみ、いたわって。
それなのに。
――『迅には、激しく求められたことってなかったよね』
彼女が――女性がなにを求めているのかわからなくなった。
だから、この仕事をすることで、もっと女性のことを深く知ることができたら、と。
心と身体。両方の充足感を与えられるようになれたなら、と。
そのためにはどうしたらいいのか、少しは理解できてきたと思った矢先の出来事に、また見えなくなってしまった。
この仕事は嫌いではないが、これ以上続ける意味はあるのだろうか。
「もう、辞めるか」
きりよく年内、十二月いっぱいで。
意識せずにぽろりと零れた呟きだったが、これが迅の本音なのかもしれない。
「辞めるなら……、どうしようか」
一度辞めることを考えはじめるとこれから取るべき具体的な行動に思考が及び、迅の頭の中には最後にもう一度会っておきたい女性たちの顔が浮かんだ。
とはいえ、迅が会いたいと言ったとしても、そう簡単に会ってくれるとは限らない。
どんなに真摯に向き合おうとも、彼女たちとはお金を介した関係だ。
お金を払っても迅に会いたいと思ってくれなければ、そこで簡単に終わってしまう脆い繋がりでしかない。
――『近々、会えないかな?』
思い立ち、ポケットからスマホを取り出した迅は雑居ビルの壁に背中を預けて文字を打ち出した。
できればすべての「お客様」に挨拶をしたいと思うものの、それが叶うことはないだろう。
それでもせめて、自分と懇意にしてくれたお客様だけは。
「!」
すぐに受信マークがつき、メッセージを送ってきてくれた女性の名前を確認した迅の目はわずかに見開き、心臓がほんの少しだけ緊張の鼓動を鳴らした。
これまでずっと半日以上経ってからの返信が多かったお客様だからこそ、こくりと息を呑んでからメッセージ欄を開封する。
――『なにかあったの?』
たった一言のメッセージに心揺さぶられるのは、精神的に弱っているからだろうか。
その一言だけで、彼女が自分の異変を読み取り、すぐに返事をしてくれたことがわかった。
可愛らしい花のアイコンと「サクラ」の名前に、涙腺が緩みそうになる。
――『詳しいことは話せないけど、年内で辞めようと思っていて』
――『そうなんだ。それなら近日中に時間作るね』
すぐに返ってきた望みどおりの言葉を目にして、スマホを持つ迅の手にはぎゅっと力が入った。
自称三十七歳の「サクラ」は、平日の昼間は会社員として働いている既婚女性だ。
子供はいないが、夫の目があるため、利用頻度は月一回か多くて二回ほど。
迅がセラピストとしてデビューした直後から指名しつづけてくれている、付き合いが一番長いお客様だった。
お客様に優劣をつけるのはよくないが、精神的に不安定な利用客が多い中で、いつもにこにことした笑顔を向けてくれるサクラは、迅にとって特別な指名客だ。すべてのお客様の中で、「せめてこの人には会っておきたい」と思う女性の一人。
そうしてそれから約一週間後。迅の仕事の休みに合わせてわざわざ有給を取ってくれたサクラと、昼間のラブホテルで会うことになった。




