第六話 茨の道②
バーに着くと、円形のカウンター席に座ったミサトがカクテルグラスを傾けている姿が視界に入り、迅と目が合うと軽く手招いてくる。
「遅くなりました」
「待ってたわよ。知り合いの社長とさっきまで飲んでたんだけど、飲み足りなくて」
熱帯魚が優雅に泳ぐ水槽は、照明の落とされた静かな空間の中で幻想的な青い光を放っていた。
迅は魚には詳しくないが、水槽のガラス越しに見えるのはネオンテトラとエンゼルフィッシュだろうか。
「いよいよねぇ……」
カクテルを口にして、ミサトが深い吐息をつく。
その横顔からは、オープンを前にしてプレッシャーを感じているのか、それともナーバスになっているのか読み取れない。
「ここまで長かったような、早かったような」
「そうね」
迅が手元に置かれたカクテルグラスに視線を落として呟けば、ミサトはほのかな笑みを零す。
ミサトから新規店への誘いを受けたあの日から約三ヵ月。迅の今までの人生の中で最もめまぐるしい出来事の連続だったかもしれない。
「迅にはここまでかなり助けられたわ。ありがとう」
「そんな、オレはたいしたことはしてないです」
手に顎を乗せたミサトに改めて感謝の気持ちを口にされ、迅は小さく首を振る。
たしかにプライベートの時間をほとんど取ることなく動いていたような気はするが、講師を務めたフウガや集客活動に尽力したラブホたちと違い、事務仕事ばかりで具体的な功績を出した覚えはなにもなかった。
「きっとあなたはそう言うと思ったわ。でも、謙遜しなくていいわ。私は本気でそう思っているから」
「ミサトさん?」
くすり、と小さな笑みを零して迅を見つめてくるミサトは、すでに酔っているのだろうか。
「あなたは不思議な人ね」
「え?」
グラスを持つことなくプレート部分に触れながら柔らかな瞳を向けてくるミサトに、迅は瞳を瞬かせる。
生まれてからずっと凡庸な生活を送ってきた自覚がある迅は、他人からそんな評価をもらったことはない。
「きっと、本質的にはセラピストに向いていないわ。でも、これからはあなたみたいなセラピストが必要とされる時代がくると思ってる」
優秀なセラピストの定義はわからない。ただ、現状としては、色恋営業をして女性と疑似恋愛をするセラピストたちが売れていることはたしかだ。
女性向け風俗を使う女性たちの中には、恋愛感情を楽しみたいと思っているお客様も多い。そういった要望に応えようとするならば、色恋営業も仕事の一つだと言えるのかもしれない。
どんな綺麗ごとを並べようとも、この世界で出会う男女の間には金銭の授受が存在している。女性から対価以上のものを搾取しようとしない迅は、周りから見れば不出来なセラピストに移るのだろう。
「優しすぎるのよ」
たしかに、「優しい」という言葉は昔からよく聞いた。
ただ、それと同時に、優しいだけでつまらない人間だと言われたこともあるけれど。
「でも、寄り添いすぎても決して一緒に倒れたりはしない芯の強さも持っている」
やはり、ミサトは酔っているのかもしれない。
褒められているのだから喜んでいいと思うのだが、それはさすがに過大評価ではないかと困惑する。
「それをあなたは苦もなくやってしまうんでしょう」
女性の話を親身になって聞くことを苦痛だと感じたことはないけれど、それが稀有な能力だとは思わない。
迅にとっては、ただ女性の傍にいて耳を傾けるだけのことだ。もちろん共感や、時には適切な助言は必要とされるが、なにも難しいことをしているとは思っていなかった。
「私が言うのもなんだけれど、気をつけなさいよ」
「なにをですか?」
お洒落な皿に乗ったチーズを摘まみながら一杯目を飲み終えた迅は、母親が子供を諭すような雰囲気を纏って告げられたミサトの言葉に、きょとんとした目を返す。
「女は怖い生き物よ」
「それは……」
口元は笑いながら真剣な目を向けてくるミサトへ、迅は返す言葉に迷う。
その警告は、わかっているようでいないような、わかっていないようでいるような、なんとも複雑な気持ちを迅へ抱かせてくる。
「相手を信じすぎたらダメよ」
実際に、迅は信じた女性に裏切られ、百万円という大金を払わされることになった。
「……それでも、オレは……」
それでも迅は、不思議と女性と関係を持ったことを後悔していなければ、女性のことを恨んでもいなかった。
ただ、「どうして」という疑問だけはいつまでも迅の心の中で消化しきれず、胸の奥にずっと突っかかったままだけれど。
「私のこともね?」
そこでふいにくす、と笑ったミサトが手元のナッツを口に運び、グラスを傾ける姿を見つめた迅は、思ってもみなかった忠告に目を丸くする。
「なにを言ってるんですか」
ミサトを信じず、どうしたら新規店を盛り上げていけるというのだろう。
だが、ミサトが言いたいことは、そういうことではないようだった。
「私は嘘はついていないけど、騙されてはいると思うわ」
「どういうことですか」
グラスを片手にたおやかに笑うミサトへ、迅は疑問で揺れる瞳を向ける。
ミサトからの回答を待つ迅の前で、ゆっくりとカクテルを口に含んで飲み干したミサトは、ふふ、とおかしそうに笑った。
「私に娘がいるなんて、考えたこともないでしょう」
「え……!?」
突然の告白に、さすがの迅も驚愕する。
これだけ一緒の時間を過ごしているのに、はじめてDMをした時からずっと、ミサトから聞く話は仕事の内容がほとんどだった。プライベートな話ももちろんするが、前日に食べた美味しいランチの話や好きなお酒の種類など、他愛もないことばかりだった。
家族の話が出ないのは、ずっと仕事一筋で生きてきたからだと思っていた。実際に、ミサトもそのようなことを言っていた。
それが、まさか、子供がいるとは思ってもいなかった。
「ほら、ね」
「ミサトさん、結婚してるんですか!?」
思わず上がってしまった驚きの声に、ミサトはどこか自嘲の笑みを浮かべて首を振る。
「いえ? 今はしてないわ」
「それは、つまり……」
離婚、ということだろうか。
ならば、娘と二人で生活している――シングルマザーということか。
だが、今までのミサトの話を聞いている限り、とても子供を育てながらできる仕事の量とは思えなかった。
「だから、そういうところよ」
くす、と笑って二杯目のカクテルを注文するミサトは、それ以上の話をするつもりはなさそうだった。
ミサトの言いたいことはわかるようでわからないが、それでも繊細な個人の話をそれ以上深く突っ込んで聞くことはできなかった。
「……それでもオレは、この世界で出会った一人一人の女性たちと向き合っていきたいと思っています」
話を元に戻し、迅は新しく運ばれてきたグラスの脚の部分に触れる指にきゅっと力を込めると、ミサトを真っ直ぐ見つめた。
「たとえそれが一時の関係でも。偽りの姿だったとしても」
お金の関係である以上、時には無情にも儚く消えてしまうこともある。むしろ、そちらのケースのほうが多いだろう。
お金を払ってまで女性たちが自分の姿を偽るとしたならば、そこにはそれなりの理由が存在する。
それがこの世界であり、だからこそ、思うのだ。
「この世界で誰かを救えるなんて傲慢なことは思っていません。でも、ほんの一瞬の羽休みくらいにはなれたらいいなと思ってます」
興味本位で足を踏み入れた世界だった。
けれど、この世界で出会った女性たちとの一つ一つの関係や思いは、それまで平凡に生きてきた迅の価値を大きく変えた。
目に移る人たちすべてはとても無理だけれど、せめて自分を選んでくれた女性たち一人一人と真摯に向き合って気持ちに寄り添いたいと思う。
そのためには。
「ミサトさん」
やっと心が決まった。
真っ直ぐミサトを見つめ、迅は静かに口を開く。
「オレ、本業の仕事辞めます」
このままでは、すべてが中途半端になってしまいそうな気がした。
セラピスト業が天性の職だとは思えないけれど、少なくとも今は、自分にできる限りのことをしたいと思った。
「迅……」
「先のことはまだわからないですけど、しばらくはforest一本で頑張っていきたいと思います」
――「for+rest」
女性たちが、新しい明日を飛ぶための羽を休める、一時の宿り木になれるように。
真摯に宣言した迅の瞳には、女性向け風俗の世界を彷徨う女性たちのように水槽の中で揺れる美しい魚の姿が映し出されていた。




