第六話 茨の道①
――『迅は……、本当に優しいよね』
今にも泣き出しそうに笑う彼女の姿が脳内に甦った。
――『きっと、どんな女性に対しても優しくできるんじゃないかな、って思う』
そう言われた日のことを懐かしく思うのは、もう完全に吹っ切れたからだろうか。
――『でも、ごめんなさい。迅が悪いわけじゃないの。わたしが無理になっちゃっただけ』
理由を聞いても、返ってきた答えは悲しげな微笑みだけだった。
――『覚えてるかな。わたしが高校の同窓会に行くって言った時。その頃片想いしていた男の子が来るかもしれない、って言ったら、迅は『それは楽しみだね』って笑ったの。……心から』
同窓会の話を聞いた記憶はあったものの、その時のやり取りまではよく覚えていなかった。
おそらくは普通の対応すぎて印象に残っていないだけだと思うのだが、自分の言動はどこかおかしかったのだろうか。
――『……わたしのことを信用してくれているからかな、って思った。でも』
信じていた。恋人なのだからそれは当然だと思う。
――『迅って、本当にわたしのこと、好きだった?』
結婚を考えたこともある彼女だった。
別れを告げられた時にはそこまでのことを願えなかったけれど、愛嬌のある笑顔を曇らせることなく、ほかの誰かと幸せな人生を歩んでくれていればいいと思う。
少なくとも、付き合っている頃は寂しい思いをさせたつもりはないけれど、自分では彼女を幸せにはできなかったから。
――『今まで大切にしてくれてありがとう。……さようなら』
なにが悪かったのか、今でも決定的なことはわからない。
いくらなんでも、ベッドでの接し方だけで別れを決めたわけではないだろう。
一つ一つの小さな不満が積み重なって、耐えられなくなってしまったのだろうとは思っている。
そしてセラピストとして経験を積んだ今、そちらの技術については間違いなく向上したが、それでもまだまだ上を目指さなければと改めて実感した。
――女性たちに、もっと歓びを与えることができるように……。
「……んさん……!」
「……ん……っ……?」
「迅、さん……!」
誰かに呼ばれている気がして、意識が覚醒した。
「迅さん……!」
「あ……?」
ぼんやりと目を開けると、そこには想像と違う人物――元カノではない、ラブホだ――が顔を覗き込んでくる姿があって、迅は一瞬、状況がわからずにぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「あれ……? オレ、いつのまにか寝ちゃってた……?」
オープンまで十日を切り、本業の仕事帰りに寄った事務所で雑務処理をしていたはずだった。
だが、ソファに座っていたこともあり、ふいに襲われた眠気に勝てなかったらしい。
いつ横になったのかわからないが、変な体勢で眠っていた身体を起こし、迅は目の前に立つラブホの顔を見上げた。
「はい。お疲れの様子だったので、そのまま寝かせておいたほうがいいのか悩んだんですけど……」
「いや、起こしてくれて助かりました。ありがとうございます」
迅が寝てしまったことに気づき、疲労回復に効果があると言われている十五分を過ぎたところで声をかけたのだと、遠回しに眠っていた時間を教えてくれたラブホに、迅の顔には自然と柔らかな笑顔が浮かんだ。
事務所で時々顔を合わせるようになってから、ラブホがこんなふうにちょっとした気遣いができる女性だということを知った。最初はミサト不在時に二人きりになると微妙な空気が流れていたが、最近は何気ない雑談を交わせるようになっている。
だからこそ、余計にSNS上でのラブホの尖った発言の数々がよくわからなかった。なにか、理由があるのだろうか。
「……身体、大丈夫、ですか?」
「なんとか」
「だったらいいんですけど」
心配そうに迅の顔を窺って、ほっとした様子を見せるラブホは、やはり優しい女性だと思った。
ここ最近、当初のそっけない態度は軟化して、少しずつ本当のラブホが見えるようになってきたような気がするのは、迅の自惚れではないと思いたい。
「迅さんは本業もあるじゃないですか。そこまで頑張らなくてもいいんじゃないですか?」
「そうかもしれないですけど、昔から性分で」
それでもまだ少しだけ突き放すように尋ねられ、迅は苦笑した。
子供の頃から、頼まれると断ることができずに、つい頑張ってしまう質なのだ。
それを苦痛に感じるならば無理をすべきではないと思っているが、そこまで嫌だと思うことはない。むしろ周りの人々が喜んでくれるのならばそれでかまわないと思ってしまうから、ついいろいろと引き受けがちになる。
「それに、なんだかんだと運営に関わる仕事も好きだなぁと最近思っていて」
仕事の続きをしようとスリープモードに入っていたパソコンを起動すれば、そこには多くのお客様とやりとり中のDM画面があった。
この中の何人が迅に会いにきてくれるかはわからないが、どのお客様との出逢いも、迅にとってはかけがえのないものだった。
「でも、身体を壊したら元も子もないですよ?」
本業の合間を縫って新規店オープンのための雑務をこなし、セラピストとしてユーザーさんたちへ営業をかけ続けることも忘れない。
週末は事務所に寝泊まりすることも多い迅のことを知っているラブホは、なぜそこまでする必要があるのかと疑問の目を向けてくる。
「心配してくれてありがとうございます。やっぱりラブホさんて優しいですよね」
「な……?」
にこりと笑えばラブホは絶句して、ぷい、と顔を背けて元の仕事へ戻っていく。
その横顔が、少しだけ恥ずかしそうに赤く染まって見えるのは迅の気のせいだろうか。迅は目覚ましのコーヒーを淹れると自分のパソコンの前に戻り、カップを傾けながら悩ましげな吐息を零す。
「……やっぱり、このままじゃダメな気がする」
「迅さん? なにか言いました?」
独り言に近い呟きだったにも関わらず、迅の声を拾ったラブホが振り向いた。
ラブホの隣には、ミサトのエステ店から内務事務のサポート要員として来てくれることになった、本日初出勤の女性が立っていて、ラブホから仕事を教わっている最中だった。
「あ。ごめん。ちょっと考え事をしていたもので」
「……そうですか」
ラブホから向けられる真意を探るような訝しげな視線には苦笑を返し、迅はラブホの隣にいる女性へ声をかける。
「細井さんも、初日からあまり根詰めないようにしてくださいね」
「お気遣いありがとうございます」
二十代後半だという、笑うとえくぼのできる可愛らしい女性の名前は、細井 愛菜という。
先ほどの初対面の挨拶の際、「名字のままだね、とよく言われます」と自己紹介を受けたのだが、たしかにその通り、ほっそりとした華奢な体型をしていた。
「わたしはアルバイトみたいなもので、毎日こちらに来られるわけではありませんが、早く仕事を覚えて、少しでもみなさんのサポートをできればと思っています」
「充分心強いです。よろしくお願いしますね」
くれぐれも無理はしないようにと告げながら、人のことは言えないと思い、迅は真剣に頭を悩ませる。
「……どうしたら」
さすがに、二足の草鞋を履き続けることに限界を感じていた。
だからといって、事務仕事を手伝いながらセラピスト業一本に絞るという決断をする勇気もなかった。
自分でも優柔不断だとは思うものの、次の月の給与さえ保証されていない不安定な仕事だ。そう簡単に専業になれるはずもない。
そうして答えなどなにも出ないまま時間だけが過ぎていき、オープンまで一週間を切った日のことだった。
――『忙しいとは思うんだけど、これからちょっと飲まない?』
夜、突然送られてきたミサトからのラインに、迅は指定されたバーに向かっていた。




