第3話 森に潜む追跡者
日が沈む前に、リディアは本物の野営地から火を消した。
その代わり、街道から見える空き地へ二つの天幕を張った。中にいるように見せるため、毛布を詰めた袋も置く。
「敵は、あちらを私たちの野営地だと思います」
レオンたちは百歩ほど離れた岩陰へ移った。そこからは天幕が見える。街道から岩陰は見えない。
「追われることに慣れているんだな」
レオンが言うと、リディアは地面へ小石を並べた。
「はい」
それだけだった。
反逆者の娘として、何度も危険な目にあったのだろう。レオンは続きを聞かなかった。
「敵は何人だと思う?」
「分かりません」
リディアはすぐに答えた。
「武器も、腕も分かりません。ただ、馬車の細工が失敗したと知れば、今夜を逃したくないはずです」
ハインツは傷んだ馬車の部品と、見張りの順番を手帳へ書いていた。
「殿下を正規の天幕から離す行為は、王宮護衛規則に反する」
「天幕には矢が飛んでくるかもしれません」
「その危険は確定していない」
「安全も確定していません」
リディアは短く返した。
ハインツが咳払いをする。
「……今夜に限り、囮を使った野営を認める。私が命令変更を記録する」
納得した顔ではない。それでも、部下へ責任を押しつけなかった。
リディアは四人の騎士へ、短く役目を伝えた。
「南の斜面に二人。北の茂みに一人。隊長は殿下の近くへ」
「私も戦える」
「足場を知っているのは私です。隊長は、全員へ合図を出してください」
ハインツは小石で示された場所を見た。
「退く合図は?」
「鳥の声を二回。聞こえなければ、囮の火が消えた時点で岩場へ戻ります」
「負傷者が出た場合は?」
「荷車の陰です。そこまでの道は空けてあります」
ハインツは一つずつ確認したあと、手帳を閉じた。
「異議はある。ただし今は、案より命令をそろえる方が先だ。この配置で行く」
リディアも言い返さなかった。
レオンは二人の会話を聞き、初めて戦いの準備が何を意味するか知った。
どこで戦うかだけではない。逃げる合図、傷ついた人を運ぶ場所、合図が聞こえない場合まで先に決めるのだ。
夜が深くなった。
レオンは冷たい岩へ背を預ける。馬車で打った肩が痛んだ。
「少し休んでください」
リディアが言った。
「君は?」
「起きています」
「一晩中?」
「護衛ですから」
「交代で休んでくれ」
「必要ありません」
「命令だ」
リディアは一度目を閉じた。
「命を守るためなら、命令に背いてもよいと言われました」
「もう使うのか、その言葉を」
返事の代わりに、リディアは水筒をレオンへ渡した。
「先に飲んでください」
「君は?」
「あとで飲みます」
「半分残す」
「それなら構いません」
護衛任務と言いながら、自分の分を後へ回している。
レオンは半分より少し多く残し、水筒を返した。リディアは量へ気づいたようだが、何も言わず受け取った。
遠くで湿った薪がはじける。
風が止まり、煙だけが天幕の上へ残った。
そのとき、森から虫の声が消えた。
リディアがレオンの胸を押す。
「伏せて」
矢が飛び、囮の天幕へ刺さった。
一つ、二つ、三つ。
「敵だ!」
ハインツの号令で、騎士たちが斜面へ走る。
黒い布で顔を隠した六人が、森から出てきた。二人は灰色の煙が出る玉を投げる。
目と喉が痛む煙が広がった。
「ここから動かないでください」
リディアはレオンを岩陰へ残し、煙の中へ入った。
剣がぶつかる音がする。
襲撃者の短剣を、リディアの長剣が下からはじいた。彼女は深追いせず、次に来た男の足を払う。
レオンには、その動きを目で追うだけで精いっぱいだった。
自分が入れば助けにならない。それどころか、リディアが守る相手を増やしてしまう。
「隊長、後ろだ!」
煙の切れ間に、ひざをつくハインツが見えた。太ももに短剣が刺さっている。
その後ろで、別の男が武器を上げた。
リディアがハインツの襟をつかみ、地面へ倒す。男の刃は空を切った。
だが、その間に一人が岩陰へ向かってきた。
レオンは腰の剣を抜いた。
手が震える。
訓練とは違う。目の前の男は、本気で自分を殺しに来ている。
逃げれば背中を刺される。
戦っても勝てない。
それでも、目をそらさなかった。
男が短剣を振り上げる。
その背中へ、銀色の線が刺さった。
リディアが投げた長剣だった。
男がレオンへ倒れ込む。
レオンは剣を捨て、両腕で受け止めた。血の温かさが服を通して伝わる。
リディアが走ってきて、男を地面へ下ろした。
「口に何かあります」
男は歯の間の薬をかみくだいた。
腐った果物のような甘い匂いがした。身体が何度か震え、すぐに動かなくなる。
レオンは男の服から手を離せなかった。
自分を殺そうとした相手だ。
それでも、今まで生きていた人間の重さが消えていくことが怖かった。
「殿下。もう離してください」
リディアの声で、ようやく手を開いた。
「……投げた剣が、俺に当たることはなかった?」
「ありました」
「そこは、なかったと言ってほしかった」
「嘘は苦手です」
リディアの声も、少し震えていた。
「怖くなかったのか?」
彼女は剣帯の金具を押さえた。
「怖かったです」
レオンはそれ以上聞かなかった。
リディアは震える手で、自分の長剣を男の背から抜いた。
刃を布でぬぐおうとして、二度も同じ場所をこする。
「リディア」
「問題ありません」
「大丈夫とは聞いてない」
彼女の手が止まった。
「……はい」
レオンは近くの布を拾い、血のついていない側を渡した。
慰める言葉は思いつかない。それでも、一人で平気なふりをさせることだけは違うと思った。
戦いが終わると、襲撃者は三人死んでいた。二人は森へ逃げた。一人は肩を負傷し、捕らえられている。
ハインツの傷は深いが、命は助かりそうだった。
リディアは最初にハインツの出血を止めた。布を強く巻き、足の感覚があるか確かめる。
「歩こうとしないでください。傷が開きます」
「指揮官が寝ているわけにはいかん」
「今、立てますか」
ハインツは地面へ手をついたが、顔をしかめた。
「……立てない」
「では、負傷者です」
リディアは部下二人へ運び方を指示した。
ハインツは歯を食いしばりながらも、自分の手帳を一人の騎士へ渡す。
「戦死三、逃走二、捕縛一。こちらは重傷一、軽傷一。時刻も書け」
「今それを?」
レオンが聞く。
「あとでは人数も時刻も変わります。今、残します」
痛みをこらえる代わりに、ハインツは記録へ集中していた。
捕らえた男の首には、灰色の紐が巻かれていた。枝に結ばれていた布と同じ織り方だ。
服から、小さな地図も出てきた。
旧道の先にある石橋へ、赤い印がついている。
「この橋を通らないと、セレナへ行けない?」
レオンが聞いた。
「荷車と負傷者がいるなら、ここしかありません」
リディアが答えた。
レオンは捕虜の前へ水筒を置いた。
「傷を見せて」
「情けをかけるつもりか」
「話を聞く前に死なれたくない」
捕虜は水筒を見たが、手を伸ばさない。
「名前は?」
レオンはそれだけ聞き、待った。
男は黙っている。
リディアが剣帯の金具を押さえた。急かしたい気持ちを止めているのだろう。
しばらくして、男は地図へ目を向けた。
「名前を知って何になる」
「縛ったまま呼ぶときに困る」
男は笑わなかった。
「今は答えない」
「分かった」
レオンは次の質問を重ねなかった。
捕虜の男が、血の混じったつばを吐く。
「今夜を生き残っただけだ」
レオンは男のそばへしゃがんだ。
「橋に何をした?」
返事を待つ。
男は笑った。
「無能王子は、セレナへ着かない」
答えの代わりに、リディアは地図を丁寧に畳んだ。
石橋を避けられないなら、罠があると知った上で進むしかない。




