第12話 恩赦を拒む男
ケスラーの部屋から見つかった地図には、国境の向こうにいる部隊まで記されていた。
古い情報ではない。
半月前に移動した部隊の位置が、乾ききっていない赤い墨で直されている。
「敵の地図が、どうして代官の机にあるんです」
リディアが地図の端を押さえた。声は静かだったが、指先に力が入っている。
「分かりません」
ハインツは押収品の記録を一枚ずつめくった。
「分かるのは二つです。ケスラーは敵国の軍事情報を受け取っていた。そして、別の誰かへ渡そうとしていた」
「相手の名前は?」
「ありません。最初から書かなかったか、先に消したのでしょう」
レオンは地図の赤い印を見た。
「ガレスなら、分かるかな」
「可能性はあります。ただし、その前に彼自身の罪を確かめるべきです」
ハインツが別の紙を置いた。
命令違反。
敵前での撤退。
軍の指揮を乱した罪。
どれもガレスの祖国がつけた罪だった。
「村を焼けという命令を拒んだことは?」
「書かれていません」
「隠された?」
「その可能性もあります」
ハインツは紙から目を上げた。
「ガレスが、自分に都合のよい話をしている可能性もあります」
「うん。だったら、本人に聞こう」
そのとき、廊下を走る靴音が近づいてきた。
焼けた家へ向かった兵が、白い灰を靴につけたまま入ってくる。
「報告します。子どもは二十七人。けが人が三人、熱のある子が一人です。食料は、固いパンが二つだけでした」
ガレスが話した人数と場所は正しかった。
「食料は渡せた?」
「はい。一日分を置きました。年長の少年が、全員へ同じ量を分けています」
「名前は?」
「エルン・ハーケ。十七歳です。他の子どもの名も、全員分覚えていました」
レオンは手帳に、その名を書いた。
「エルンたちには明日以降の食事が要る。熱のある子には治療も」
「それも、ガレスへ聞かれますか」
ハインツの問いに、レオンはうなずいた。
「聞く。でも、子どもを助けた褒美で罪を消すつもりはない」
「承知しました」
ハインツは取り調べ用の小部屋を選んだ。
窓が一つ。扉が一つ。机は壁に固定されている。
リディアは窓の鍵を確かめ、机の下をのぞいた。それからレオンの椅子を、扉に近い側へ移す。
ガレスは両手に枷をつけて入ってきた。
窓。扉。左右の兵。レオンまでの距離。
視線だけで順に確かめる。
「逃げ道を探した?」
「退路を確認しました」
「逃げるために?」
「逃げないと決めるために」
ガレスは椅子の前で止まった。
「出口を知らない者は、追い詰められたときに間違えます」
「今は逃げない?」
「今は」
「先までは約束しないんだな」
「できない約束は、忠誠ではなく嘘です」
レオンは向かいの椅子を引いた。
「座ってくれ。俺も座る」
ガレスが腰を下ろしてから、レオンも座った。
「ガレス。君が命令を破った日、何があった?」
答えはすぐには返らなかった。
ガレスの指が、服の内側に隠した革片へ触れる。
「国境の村を焼けと命じられました」
「理由は?」
「食料と井戸を、追ってくるレグナリア軍に使わせないためです」
「住民は残っていた?」
「百八十三人。子どもが四十一人。歩けない者が二十六人」
数字だけは、刃物で切ったように迷いがなかった。
「私は命令を拒み、住民を先に逃がしました。そのため、橋を落とす時刻が遅れました」
「百八十三人は逃げられた?」
「大半は」
その二文字だけが、ひどく重かった。
レオンは次の問いを飲み込み、待った。
ガレスの親指が革片の上をゆっくり動く。
「追撃を止めるため、最後尾に部隊を残しました」
そこで声が止まった。
「彼らは、一人も戻りませんでした」
ガレスは革片を机へ置いた。
細い傷で、いくつもの名前が刻まれている。
「その名前を、ずっと持ってるのか」
「忘れれば、あの日の判断がきれいな話になります」
村人を救った将軍。
命令へ逆らった英雄。
その言葉だけなら、ガレスは正しかったと言える。
だが、革片には帰らなかった者の名が残っていた。
「君は、間違えたと思ってる?」
「同じ状況なら、私はもう一度、村を焼く命令を拒みます」
「だったら、正しかった?」
「それを私の口から言わせないでください」
初めて、ガレスの声に硬いものが混じった。
「正しかったと言えば、死んだ部下へ『必要な犠牲だった』と言うことになる。間違っていたと言えば、逃がした百八十三人へ『お前たちが焼かれるべきだった』と言うことになる」
革片を押さえる指が白くなる。
「私は、どちらの死も選び直しません」
レオンは左手を握った。
自分が同じ場所に立った姿を考えるだけで、息が浅くなる。
似ているなどと思うな。
自分はまだ、誰かを残して橋を落としたことなどない。
「うん。もう少し聞かせて」
ガレスが顔を上げた。
「そのあと、どうして捕まった?」
「住民と残った部下を国境まで帰し、私は最後尾に残りました。負傷して動けなくなり、レグナリアの兵に捕らえられました」
ハインツが記録用の筆を置いた。
「証言と記録が一致すれば、処遇を見直せます。民間人を救った事実は、国王へ恩赦を求める理由になるでしょう」
「お断りします」
あまりに早い返事だった。
ハインツの眉が動く。
「意味を理解していますか。恩赦が認められれば、刑を免れる可能性があります」
「理解しています」
「敵国へ戻されれば、処刑される可能性が高い」
「それも理解しています」
「なら、なぜ拒むんだ」
レオンが尋ねると、ガレスは革片をこちらへ向けた。
「村を焼かなかったことは、赦しを買う金ではありません」
「でも、君が死んでも、この人たちは戻らない」
「分かっています」
「エルンたちはどうなる。君が守ってきた二十七人は?」
ガレスの呼吸が、そこで初めて乱れた。
「……卑怯な聞き方をなさる」
「うん」
レオンは目をそらさなかった。
「死んで償うことだけが責任なら、残される人は誰に頼ればいい?」
「私は、死にたいわけではありません」
ガレスの指が、一つの名をなぞった。
「怖いです。処刑台も、牢で忘れられることも。だからこそ、恐怖に負けて急いで赦されたくない」
「じゃあ、どうしてほしい?」
「調べてください」
声はもう揺れていなかった。
「村を救ったことも。部下を死なせたことも。私が敵将として、この国の兵を殺したことも。全部を並べて、そのあとで裁いてください」
レオンには、その望みをすべて理解できたわけではない。
生きられる道があるなら、生きてほしい。
だが、都合のよい部分だけを拾ってガレスを救えば、それは本人の望みを消すことになる。
「分かった。恩赦の話は、今は止める」
「殿下」
ハインツが低く呼んだ。
「自由にはしない。罪も決めない」
レオンはそこで一度言葉を切った。
「でも、裁きが終わるまで何もさせないのも違う」
ガレスを見る。
「エルンたち二十七人を、どう守ればいい?」
「町へ入れるなら、寝床と食事だけでは足りません」
ガレスの目が、机の地図へ落ちる。
「熱のある子を分ける部屋。夜の見張り。食料を受け取った者の記録。そして、襲撃された場合の避難先が要ります」
「一か所に集めれば守りやすい?」
「はい。ただし、火をつけられれば全員が同じ出口へ殺到します。二組に分け、別々の退路を用意すべきです」
「計画を書ける?」
「書けます」
ガレスは続ける前に、扉の前の兵を見た。
「ただし、私へ兵の指揮権を渡してはいけません」
「自分から権限を断るのか」
「捕虜の命令に従うべきか。兵が一瞬でも迷えば、子どもが死にます」
ガレスは、必要な条件を一つずつ挙げた。
「私へ渡すのは紙と町の地図だけ。外へ出すなら監視を二人。子どもへの指示は、町の責任者を通す。撤退先は二つ。片方が使えなくなった時点で、もう片方へ切り替える」
自分が何をできるかではない。
自分に何をさせてはいけないかを、先に決めている。
レオンはハインツを見た。
「その条件なら?」
「捕虜へ軍務は任せられません」
ハインツは一度、咳払いをした。
「ただし、孤児保護の案を作らせ、我々が確認することは可能です。期限は明日の日没。紙、面会者、発言内容をすべて記録します。例外の責任者には、私も署名します」
「それでいこう」
レオンは紙を取り、ガレスの前へ置いた。
「頼むのは孤児の保護計画だけだ。武器は渡さない。兵への命令もさせない。恩赦とも切り離す」
ガレスは紙を見たまま動かなかった。
「なぜ、私なのです」
「二十七人の名前を知ってるから」
レオンは答えた。
「それに、全員を逃がす道を、本気で考えられるのが君だから」
返事を急かさずに待つ。
ガレスの指が、扉、兵、窓の順に動きかけた。
だが、途中で止まった。
「……承知しました」
「俺が決めた。責任も俺が持つ」
ハインツが、決定内容と二人の名を記録した。
ガレスは紙を引き寄せる。
孤児たちの家を描こうとして、炭筆が止まった。
次に彼が印をつけたのは、押収した食料を置く倉庫だった。
「この倉庫には、何日分の食料がありますか」
「三十日前後です」
「警備は?」
「代官府の兵と王宮騎士です」
ガレスは、ケスラーが隠していた部隊配置図を重ねた。
赤い印から倉庫へ、指がゆっくり近づいてくる。
「この周辺に、敵国の残党がいます」
リディアの手が剣帯へ動いた。
「数は?」
「分かりません。正確な場所も」
「なら、何が分かる」
「地図を運んだ者が戻らなければ、ケスラーとの取引が失敗したと伝わります」
ガレスは倉庫を炭で囲んだ。
「残党は食料を失った。仲間も捕らえられた。王都の増援が来るまで待てば、奪い返せなくなる」
レオンは尋ねた。
「いつ来る?」
ガレスが、革片のまだ名がない端を握る。
「早ければ明後日」
倉庫へ続く道が一本、紙に引かれた。
「遅くても、三日以内です」
二本目。
三本目。
孤児を逃がすための紙に、町を襲う道が三本、黒く伸びていた。




