第11話 地下牢の敵将
ガレス・ヴォルク。
牢番がその名を口にした瞬間、ハインツが腰の剣に手を置いた。
「地下への入口を閉鎖します。兵を三人ずつ、入口と階段に置いてください。誰が何時に入ったのか、全員分を記録します」
命令を受けた兵たちが走り出す。
レオンは、青ざめた牢番へ声をかけた。
「その人は、いつから地下にいる?」
「分かりません。最下層は、ケスラー様と主任牢番だけが管理していました」
「今朝、食事は運んだ?」
「扉の前には置きました。ですが、中までは見ていません」
牢番はうつむいた。
「そうか。まず、生きているか確かめよう」
「殿下は地上でお待ちください」
ハインツは記録板を開いた。
「ガレス・ヴォルクは、北方戦争で三つの砦を落とした敵将です。捕らえられていても、危険な人物であることは変わりません」
リディアはすぐに扉を開けなかった。鍵穴と蝶番を調べ、そのあとに通路の奥をのぞく。
「階段は一人ずつしか通れません。大勢で入ると、何かあったときに逃げられなくなります」
ハインツがリディアを見る。
「では、人数を決めます。殿下、ローゼン、私、牢番の四人です」
「俺も入っていいのか?」
「止めても行かれるのでしょう」
「うん」
ハインツは小さく咳払いをした。
「でしたら、最初から守れる形にします。危険があれば鐘を一度。返事がなければ二度鳴らし、上の兵を呼びます」
彼は記録板の責任者欄に、自分の名前を書いた。
「決めたのは俺だよ」
「兵の配置を決めたのは私です。そこは分けて記録します」
ハインツは顔を上げなかった。
鉄扉を開くと、冷たく湿った空気が流れてきた。
先頭はリディアだった。曲がり角の前で必ず止まり、松明で床と天井を照らす。安全を確かめてから、レオンを手招きした。
地下へ下りるほど、地上の声は遠くなった。
代わりに、水が落ちる音と、鎖がこすれる音が近くなる。
一つ目の地下牢には、六つの部屋があった。
三つは空だった。二つには、隠し倉庫で働かされていた男たちがいる。残りの一つには、首に灰色の紐を巻いた男が座っていた。
「代官は捕まえたのか、王子様」
「仕事を止めて、身柄を押さえた。君たちのことも調べ直す」
「そりゃ助かる。ここじゃ、人間より木札のほうが大事だったからな」
男が、牢番の後ろにある棚を顎で示した。
棚から出てきたのは、囚人の名簿ではなかった。
何十枚もの木札だった。
そこには名前ではなく、年齢、体格、傷の有無、受け渡し先が刻まれている。まるで、人を荷物として売るための札だった。
リディアが一枚を松明へ近づけた。
「昨夜の隠し倉庫にも、同じ商人の印がありました」
レオンは木札を握った。
「主任牢番と法務書記を捕らえて」
自分でも、声が変わったのが分かった。
「この木札の一枚一枚が、誰のものか調べる。それが終わるまで、誰も町の外へ連れ出させない」
「正式な命令書が必要です」
ハインツはそう言いながら、記録板から紙を外した。
「今ここで作ります。明日の日没までの緊急命令とし、その間に正式な手続きを進めます。決められた用紙ではないことも記録します」
「頼む」
ハインツは石壁を下敷きにして書き始めた。
規則どおりにできないなら、何が違ったのかまで残す。そのために、自分の名前も書く。
それがハインツのやり方だった。
さらに下りると、二つの鍵穴がついた鉄扉があった。
牢番が二本の鍵を回す。
重い扉が床をこすり、暗い牢の中が見えた。
一人の男が、壁に背をつけて座っている。
黒い髪には白いものが混じり、鼻から頬に古い傷が走っていた。両手は鉄の枷でつながれている。体はやせていたが、目の動きは鋭かった。
男は、開いた扉、牢番の鍵、リディアの剣、ハインツの記録板、レオンの順に見た。
「中に四人。上に兵が六人。出口は一つ」
男は耳を澄ました。
「助けの兵が来るまで、百を数えるくらいでしょう」
リディアが半歩前へ出た。
レオンを完全に隠すのではなく、いつでも剣を抜ける場所に立つ。
「手を膝から離すな」
「この枷では、私が動くより、あなたが剣を抜くほうが早い」
男は静かに答え、レオンを見た。
「第五王子殿下ですね」
「レオンでいい」
「捕虜が王族を名前で呼べば、看守の報告書が増えます」
「もう十分増えてるよ」
男の眉が、少しだけ動いた。
「あなたが、ガレス・ヴォルク?」
「そうです」
レオンは牢の前で腰を落とした。
「水は飲めてる?」
ガレスは床の器を見た。黒いパンが、水に半分沈んでいる。
「壁から落ちた水が混じります。二日も飲めば、腹を壊すでしょう」
「新しい水を」
レオンが言うと、牢番が慌てて階段へ向かった。
ハインツは格子の前に立つ。
「ガレス・ヴォルク。あなたは名簿にないまま、ここへ閉じ込められていました。身柄は王都の軍事裁判所へ移します」
「護送する兵は、十二人以上ですか」
「それを、あなたに教えることはできません」
「十二人より少なければ、三人死にます」
ハインツの目が細くなった。
ガレスは扉から目を離さない。
「私を取り返したい者がいます。反対に、私を殺して口をふさぎたい者もいる。東の橋は壊れたままです。川沿いの道を使えば、さらに二人死ぬでしょう」
「脅しているのですか」
「生きて帰れない人数を伝えています」
「そこまで」
レオンが二人の間に声を入れた。
「今は、護送の方法を決めない。ガレスの話を記録して、あとで別の情報と比べよう」
ハインツは少し黙ったあと、記録板に書き込んだ。
「承知しました。ただし、枷は外しません」
「うん。それでいい」
レオンはガレスへ向き直った。
「君は、どうしたい?」
「恩赦を与えて、部下にするおつもりですか」
「そこまでは決めてない。俺はまだ、君が何をした人なのか知らないから」
「王紋を使えば、私の本性が分かるのでは?」
「分からないよ」
レオンは左手を見た。
「分かるのは、どんな仕事に向いているかだけだ。善人か悪人かも、俺を裏切るかどうかも見えない」
ガレスはしばらく黙っていた。
やがて、右手を服の内側へ入れる。
リディアの剣が少しだけ鞘から出た。
「革の切れ端です」
ガレスは手を止めたまま、許可を待った。
リディアがうなずくと、細長い革を取り出す。
革には、小さな文字で多くの名前が刻まれていた。
「これは?」
「私の判断のせいで、故郷へ帰れなかった者たちの名前です」
ガレスの親指が、一つの名前をなぞる。
「私のことより先に、食料を届けてほしい場所があります」
「どこ?」
「町の西側です。外壁の近くに、焼けた家がある。そこに戦争孤児が二十七人います。食料は、明日の朝でなくなります」
レオンは手帳を開き、場所と人数を書いた。
「どうして、今の様子が分かる?」
「ここへ入れられる前、私があの子たちを移動させました。そのあとも、食事を運ぶ者から話を聞いています」
ハインツが尋ねる。
「その者の名前は?」
「言えません」
ガレスは一度、閉じた扉へ目を向けた。
「その少年は、看守の足音が遠ざかるまで待ち、人数と残った食料だけを教えました。これ以上は話せません」
「名前が分からなければ、話が本当か確認できません」
「では、私を王都へ送ってください」
ガレスは革の名から指を離さなかった。
「ただし明日の朝には、二十七人が食べる物を失います」
最後の言葉だけ、少し遅かった。
レオンの左手が熱くなる。
無色だった王紋から光が伸び、ガレスの胸に重なった。
鋼のような色をした星が見える。
その光の先にあったのは、敵を倒す剣ではなかった。
荷車。壊れた橋。細い山道。
逃げる人々を何本もの道へ分け、最後の一人まで生きて帰す。そのための力だった。
ガレスには、軍を動かす強い才能がある。
しかし、分かるのはそれだけだ。
孤児の話が本当か。
ガレスが何を隠しているのか。
レオンを利用するつもりなのか。
王紋は、何も教えてくれない。
いや、こんな大事なことまで俺に見せないでくれ。
レオンは左手を下ろした。
「まず、二十七人が本当にいるか確かめる」
「罠かもしれません」
リディアはガレスを見たまま言った。
「うん。だから俺は行かない」
レオンは一度考えた。
「現地を安全に確かめるには、誰に任せればいい?」
「私が兵を二人選びます。一人は先に周りを調べ、もう一人は荷車を守らせます」
「子どもを怖がらせない人がいい」
「その条件も入れて選びます」
レオンはハインツを見る。
「食料を出す手続きは?」
「代官府が押収した食料を、名簿にない者へ配る決まりはありません」
ハインツはそこで咳払いをした。
「ですが、領主が緊急命令を出し、現地の責任者が署名すれば、一日分だけ先に渡せます。人数と残りの量は、戻ったあとに確認します」
「誰が署名する?」
「私です」
ハインツはすぐに記録板を開いた。
「部下に、責任のない口約束をさせるわけにはいきません」
「ありがとう。頼む」
「礼は、二十七人を確認してからにしてください」
レオンが立ち上がると、ガレスは初めて革片から手を離した。
「殿下は、私の忠誠を求めないのですか」
「今ここで忠誠を誓われても、信じられないよ」
ガレスが、短く息を漏らした。
「では、私に何を求めますか」
「今日は、子どもたちの場所を正しく教えること。そのあとで、君自身の話を聞く」
「それだけですか」
「一度に全部は決められないから」
扉が閉まるまで、ガレスは階段を上る足音を数えていた。
階段の途中で、ハインツが木札の束を抱え直した。
「殿下。確認しておきたいことがあります」
「何?」
「ガレスの言う場所へ食料を送れば、彼の要求を一つかなえることになります。本来なら、その代わりに情報を求めることもできます」
「子どもの食料を、取引の道具にはしたくない」
レオンは足を止めた。
「ガレスが何も話さなくても、二十七人が本当にいるなら食料は渡す」
ハインツはレオンを見つめたあと、一度だけうなずいた。
「承知しました。食料と取り調べは、別の問題として扱います」
「助かる」
「ただし、ガレスの話をすべて信じてはいけません。孤児の人数も、護送の危険も、必ず別の者に確かめさせます」
「うん。話を聞くことと、信じることは別にする」
今度は、二人とも足を止めなかった。
地上へ戻ると、押収品を調べていた書記が駆け寄ってきた。腕には、ケスラーの部屋から見つかった革筒を抱えている。
「殿下。隠し棚に、これがありました」
ハインツは、見つけた者の名前と時刻を先に書いた。次に革筒の封を確かめ、卓上で中身を広げる。
出てきたのは、北方の地図だった。
山、街道、砦、食料庫。
さらに、国境の向こうにいる兵の数と、移動する日まで書かれている。
ハインツの指が止まった。
「これは、ガレスの国の部隊配置図です。それも、最近の情報です」
リディアが地図の端に置かれた文鎮を動かす。
隠れていた印が現れた。
ケスラーの印だった。
牢につながれていたのは、敵国の将軍。
その国の軍事情報を売ろうとしていたのは、セレナの代官だった。




