第二話 おかえり、セブンス
帰ってきた人間にも、やらなければならない戦いがある。
それは報告書と、壊れた装備と、医師の質問に正直に答えることだった。
◇
「左目で、この数字が読めますか」
「七、三、九。……最後は、たぶん四」
「たぶん、は不正解です」
黒瀬蓮司は観念して、額を検査台へ戻した。
潮見第七基地の医療室は、昔のホテルの宴会用控室を改装した場所にある。分厚いカーペットは撤去され、床には消毒しやすい白い樹脂板が張られていた。壁際には診察用の機器が並び、その間に、かつて客室へ通じていた飾り扉の枠だけが残っている。
窓の外は夕暮れだ。軍用車のエンジンが止まり、代わりに食堂へ向かう兵士の話し声が聞こえてくる。
ここまで戻れば、今日はもう外の怪物に追われることはない。
そのはずなのに、蓮司の心臓は落ち着いたときに限って速く打った。
「さっきよりは、見えています」
「その『さっき』が、ひどすぎたのでしょう」
椅子を動かす音がした。
橘沙夜は手元の記録を確認してから、蓮司の左目に光を当てた。
三十二歳。海沿いの医療局に所属する医師で、週に何度か第七基地の巡回診療を担当している。普段は静かに微笑んでいる人だが、患者が痛みを隠しているときの目は驚くほど鋭かった。
白衣の下には紺の薄手のシャツ。長い髪を首の後ろでまとめ、袖口に余計な飾りはない。彼女が動くたび、消毒液に混じって柔らかな石鹸の匂いがした。
「焦点が合うまで、どれくらいかかりました?」
「起動を切った直後は、左側がほとんど白くて……三十秒くらい。隊員の位置は、朝倉に確認してもらいました」
「右手の痺れは」
「退避所へ着くころには消えました」
「今は?」
「ありません」
「頭痛は?」
「少し」
「その『少し』を数字にすると?」
「十のうち、三」
沙夜が答えずに見てくる。
「……四です」
「最初から、そう言ってください」
ようやく彼女の口元に笑みが戻った。
蓮司の胸元には、獣骸級の爪で裂かれた部分を覆う新しい包帯がある。出血そのものは少ない。だが筋肉の動きに合わせて傷口が引っ張られ、浅く息を吸う癖がつきかけていた。
沙夜は包帯の端を確かめながら言った。
「傷は浅いですし、左腕の骨にも異常はありません。ただ、目と神経の症状は別です。逆共鳴を三秒間、かなり強い負荷で使ったようですね」
「民間車の横だったので。失敗すると窓まで爪が届く距離でした」
「事情は記録で読みました。あの場で何をするべきだったか、ここで私が決めるつもりはありません」
沙夜は包帯を留めた。
「ただ、無理をした分だけ体には残ります。そこは忘れないでください」
「はい」
「最低四十八時間、逆共鳴は禁止。今夜は一人で出歩かず、休んでください。明朝、目と神経の検査をもう一度しましょう」
「通常の指揮業務は?」
「座ってできる範囲なら。でも、また頭痛が強くなったら中断すること」
「了解しました」
「不満そうですね」
「報告書を免除されるかと思ったんです」
「それは氷室中尉と相談してください」
沙夜は小さく笑った。
蓮司も笑おうとしたが、胸の傷が突っ張って顔をしかめることになった。
「ほら。笑うのも少し控えめに」
「難しい注文ですね」
「あなたなら得意でしょう。無茶をする以外は、だいたい控えめですから」
沙夜は記録端末を閉じ、隣の小さな検査室を指した。
「身体の検査はここまで。次は感情負荷の確認です」
「俺もですか?」
「逆共鳴を使ったでしょう。簡易検査で済ませますから」
感情負荷検査。
戦闘のあと、神経の興奮や同調の負担が平常へ戻っているかを確認する手順だった。一般兵には聞き取りと簡単な測定を、適合者にはもう少し細かな反応検査を行う。通常は眠気や吐き気、恐怖の持続なども確かめる。
体力と違い、本人が「平気」と思っていても、十分に戻っていないことがあるからだ。
蓮司は隣室へ移り、背の高い椅子に座った。
正面の画面に、さまざまな風景が順番に映し出される。雨の道路。海岸を走る列車。笑う子供。割れたガラス。小さな猫。何かを燃やした跡。
手首と首筋につけた端末が、脈拍や皮膚反応を拾っていく。
「何を思ったか、言葉にできる範囲で答えてください」
「猫は、可愛いなと」
「ふふ。次はどうですか」
「割れたガラスは、踏んだら危なそうです」
「分かりました。では、こちらを見てください」
画面が切り替わる。
録画された映像の中で、蓮司自身が民間車の前へ走っていた。
獣骸級の爪が、伸びる。
蓮司の指先に、薄い汗が浮いた。
「……間に合わなかったかもしれないと思います」
「今見ても?」
「はい。映像だと余計に。あの角度なら、盾を出すのが半秒遅かったら窓へ当たっていました」
沙夜は何かを記録した。
「怖いですか」
蓮司は少し考えた。
「怖いです」
その答えに、ためらいはなかった。
「それを聞けて、少し安心しました」
「怖がりな隊長は、頼りないでしょうか」
「いいえ。怖いものがある人は、戻る理由も思い出せますから」
沙夜は端末を外した。
「怖くても前へ出なければならないときはあります。でも、帰ってからまで無理しなくていいんです。ちゃんと休んでくださいね」
蓮司は頷いた。
廊下へ出ると、隣の診察室から茜の声が聞こえた。
「平気です! 今日も普通に怖かったですよ!」
「普通に怖かった、だけでは答えになりません。どの場面ですか」
検査担当者に問われて、彼女は一拍置いた。
「……あれ、どこだっけ。隊長が突っ込んだところ、かな」
蓮司が立ち止まると、すぐに笑い声が続いた。
「もう、細かいなあ。ちゃんと帰ってきたんだからいいでしょ?」
それは、いつもの茜の声だった。
蓮司は胸のあたりに残る違和感を、怪我のせいだと思うことにした。
◇
旧ホテルの地下にある整備室は、夜になるほど活気づく。
昼間に出撃した車両と装備が戻り、壊れたもの、汚れたもの、まだ使えるものが一斉に押し寄せるからだ。天井のレールでは機材が運ばれ、鋼鉄の作業台の上で分解した部品が整列している。通気口から流れる空気には、機械油と洗浄液の匂いが混じっていた。
「……うわ」
神崎真琴の第一声が、それだった。
目の前には、蓮司が使った小盾が置かれている。展開した板そのものは大きく歪んでいない。問題は、腕に固定する基部と、盾の角度を支える細い軸だった。
一本は折れ、もう一本にも白い亀裂が入っていた。
「これ、二発受けたな?」
「一発目を流して、最後にもう一発」
「昨日、二発続けて受けたら折れるって言うたやろ」
「続けては受けてない」
「そういう屁理屈が聞きたいんちゃう!」
真琴が工具を置いた。
作業着の袖は肘の上までまくられ、髪をまとめる留め具には細かな金属粉が付いている。戦闘のあとで医療室へ回された蓮司と違って、彼女は夕方からずっと装備の検査をしていたらしい。
「これで守ったんは誰や」
「民間車の二人と……俺、かな」
「なら、そこはようやった。でも、もう同じ型番は渡さん」
「在庫がない?」
「在庫はある。あるけど、あんたの使い方には限界が早すぎる。固定軸の材質から見直すわ」
彼女は壊れた部分に拡大鏡を当てた。
「受け流す角度は良かったな。腕が折れずに済んだのは、そのおかげや」
真琴は盾を裏返し、軸の傷を指でなぞった。
「でも最後の一撃は規定を超えとる。もう少しずれてたら、盾ごと持っていかれてたで」
「それは分かってる」
「分かってる言う人ほど、分かってへん時がある」
蓮司は反論しなかった。
真琴の仕事は、壊れた装備を責めることではない。壊れた理由を知り、次には同じ壊れ方をさせないことだ。
蓮司の仕事も、少し似ている。
「槍の方は?」
「今から」
真琴は細長い収納ケースを開いた。
位相槍の先端は洗浄され、外見には目立つ傷がない。だが分解された柄の内部には、黒く変色した小さな部品がいくつかあった。
「共鳴器からの熱が戻っとる。三秒でこれや。あと一回続けたら、回路が焼けて止まったかもしれん」
「止まるだけなら、まだいい」
「止まるだけで済む保証はない。誤作動したら、あんたの体にも変な負荷が返るんやで」
真琴は細いねじをピンセットでつまみ、光へかざした。
「こないだ改良したとこやのになあ。もう一段、熱を逃がす道がいる」
「重くなるなら、無理に足さなくていい」
「分かってる。蓮ちゃんの槍は、軽くなきゃ意味ないもんな」
真琴の言い方は気軽だった。
それでも、蓮司が長い槍を力任せに振り回せないことを、誰よりも理解していた。
伸縮機構の重さが数百グラム増えるだけで、構え直しの時間が変わる。余分な出っ張りは手袋に引っ掛かり、足場の悪い道路ではその一瞬が危険になる。
何を付け加えるかと同じくらい、何を付け加えないかが大切だった。
「明日までに直さなくてもいい」
「そら、沙夜先生から禁止令が出とるしな」
「もう聞いてるのか」
「整備課が医療課と話せんかったら、あかんでしょ」
真琴は薄く笑い、すぐ真面目な顔へ戻った。
「あんたの血を見て、安心できる装備屋なんかおらへん。こっちは現場におられへんのやから、せめて帰ってきた武器の傷くらい、全部覚えときたいねん」
蓮司は分解された柄を見た。
外側からは分からない、小さな焼け跡。
帰ってきた自分の体にも、似たものがあるのかもしれない。
「……ありがとう」
「なんや急に」
「いつも助けられてる」
真琴は手元の部品を取り落としかけた。
「そんなん、急に真顔で言うなって。調子狂うわ」
「今のうちに言っておこうと思った」
「はいはい。礼はちゃんと寝て、次も歩いて帰ってくることで返してや」
そう言って、彼女は元の軽い表情へ戻った。
ちょうど別の整備兵が輸送車の破損記録を持ってきた。真琴はそれを見るなり仕事の顔になり、細かな指示を出し始める。
「二号車の外板は朝までに補修。車軸の点検も追加しといて。あの道の段差、思ったよりひどい。あと牽引用の器具は洗浄してから戻すんやで」
蓮司は邪魔をしないよう、静かに部屋を出た。
扉が閉まる直前、真琴の声が追いかけてきた。
「蓮ちゃん!」
「何だ?」
「カレー、まだ残っとるらしいで!」
「それは良かった」
「大盛り食べてこい!」
命令のような声だった。
◇
食堂の時計は午後七時四十八分を指していた。
旧宴会場の大きな窓には、防壁の警戒灯が小さく映っている。夕食の混雑は少し落ち着き、空いた椅子の背には濡れた軍服が何着か掛けられていた。厨房の奥から、皿を重ねる音が聞こえる。
カレーの匂いは、まだしっかり残っていた。
蓮司がトレーを取ると、配膳係の女性が顔を上げた。
「黒瀬大尉。カレー、甘口と普通がありますよ」
「じゃあ甘口で頼む」
「ご飯は普通盛りですか?」
「普通で」
「じゃあ、少しだけ多くしておきますね。今日は大変だったんでしょ」
結局、少し多めに盛られた。
食堂の中央では、佐伯航平が先に食べ始めていた。向かいには、眠そうにスプーンを握る雨宮澪。その隣に、朝倉茜の赤い髪が見えた。
「大尉! こっちです。席、残しときました」
「朝からずっと、席を確保してもらってるな」
「うちの部隊の福利厚生ですよ」
佐伯は大げさに胸を張った。
蓮司はトレーを置き、腰を下ろす。座るだけなのに脇腹が少し痛んだ。茜が気づいたように顔を上げたが、すぐに視線を自分の皿へ戻した。
「どうだった、検査」
「明朝もう一度。今夜は大人しくしろってさ」
「うん。そうしてね」
茜はそれだけ言った。
普段なら冗談を交えて大げさに心配するのに、今日は妙に静かだった。
「おまえの方は?」
「私は大丈夫。装備も問題なし。明日の訓練も参加できるって」
「良かった」
「うん!」
茜がいつものように笑う。
その横で澪が、スプーンを止めた。
「……辛い」
小さな声だった。
「そっちは普通の辛さだろ」
佐伯が笑う。
「普通の辛さが、辛い」
「なるほど。世の中、奥が深いな」
澪は真面目な顔で水を飲んだ。
眠そうな目のまま水差しを持ち上げると、茜がそれを受け取り、代わりにコップへ注ぐ。
「澪、昼はほとんど寝てないもんね。狙撃ってそんなに疲れる?」
「動かないのが、疲れる」
「不思議だね。私、ずっと動いてた方が楽」
「知ってる」
澪は静かに頷いた。
「茜の音、遠くまで聞こえる」
「それ、悪口?」
「違う。……見つけやすい」
澪が微かに笑い、茜は何だか照れた顔になった。
蓮司はカレーを一口食べた。
少し甘い。柔らかい肉と、煮崩れたじゃがいもが舌に触れる。朝の湿った道路で食べていた携帯食とは、まったく違う味だった。
戦場から戻ると、まず匂いに救われることがある。
炊いた米、洗いたての衣服、湯の沸く音。どれも戦っている間は思い出せないのに、帰ると急に体の奥から必要になる。
「そういえば大尉。さっきの民間の親子、礼の通信を残していきましたよ」
佐伯が端末を机に置いた。
「もう帰れたのか」
「東門で代車に乗り換えて。娘さんが『次は車を二重に点検します』って」
「それは良かった」
「で、親父さんの方からは、班の皆さんによろしく、だそうです」
「あとで一斉に伝えよう」
「あの人、最後まで自分が狙われたのを気にしてましたね」
佐伯はスプーンを置いた。
「俺もそうなんですけど。外へ出ていいのかって、時々思いますよ」
「航平が?」
「俺だって男ですよ。壁の内側なら、もう少し安全な仕事もありますし」
佐伯は照れくさそうに笑った。
「でも、外にいる女性兵に全部任せるのも違う気がして。俺が狙われるなら、それを逆手に取れる場面もありますからね」
「そのときは、先に作戦を話してくれよ」
「もちろん。勝手に飛び出したりしません。……まあ、本音は、みんなで戻ってカレーを食べたいだけです」
「十分な理由だよ」
「そうですかね」
「俺も同じだ」
蓮司が答えると、佐伯は嬉しそうに笑った。
その顔を見て、蓮司は昼間の戦闘を思い出した。
怪物が佐伯へ向かって跳んだ瞬間。
命令ひとつで、自分の友人を餌のように使うこともできたのだ。
合理的だと言う人間は、きっといるだろう。男性への追尾を利用すれば、敵を狭い場所へ集めやすい。それも実際には有効な戦術だ。
けれど蓮司は、部下の意思を確かめずに、最初から誰かを消耗品として扱うことだけはしたくなかった。
たとえ、それが自分自身に対してでも。
「……大尉、怖い顔してますよ」
佐伯が言った。
「そうか」
「仕事は終わりです。今は味わって食べましょう」
「おまえに諭されるとはな」
「戦場では頼りになる軍曹ですから」
「食堂でも頼りになる?」
茜が口を挟む。
「当然。おかわりの列が短くなる時間なら、俺に任せてください」
「それは確かにすごいね」
澪が小さく言った。
「……おかわり、代わりに取ってきて」
「澪、おまえ、さっき辛いって……」
「ご飯だけ」
佐伯は数秒黙ってから、声を上げて笑った。
ようやく、蓮司も自然に笑えた。
胸は少し痛む。それでも、その痛みが今は嫌ではなかった。
◇
食事を終えると、蓮司は二階の作戦室へ向かった。
医療室で休めと言われたばかりだが、今日の記録には指揮官の確認が必要だった。数字は部下がまとめてくれる。それでも、誰をどこに置き、いつ撤退を命じたかは、自分の言葉で残しておきたい。
旧ホテルの会議室だった作戦室には、長い机と大きな窓がある。窓の先は中庭のため、外の海は見えない。代わりに、向かいの建物の灯りや、夜間整備へ向かう兵士の傘が見えた。
机には紙の地図が広げられ、赤と青の駒が立っている。
氷室怜は、その前で報告書を打っていた。
「……大尉。医療室から何と言われましたか」
「座ってできる仕事なら、少し」
「『少し』の時間を確認します。十五分ですか、三十分ですか」
「十五分にするよ」
「なら、ここだけ見てください」
怜は端末の一か所を示した。
敵の出現位置を記した地図だった。旧高速道路の南側、三本目の橋脚の裏に、黒い印が一つ多く置かれている。
「獣骸級の三体目は、最初の索敵で確認できていません。映像を見直したところ、残滓級が密集していた場所の下層から上がっています」
「三体目の移動を見落とした?」
「おそらく。ですが、責任の所在を一人に絞るのは違うと思います。北側の管制塔からは遮音壁に隠れますし、先頭車の偵察器も雨水の反射を拾っていました」
「次は南側にも観測点を置くか、車載機を一台後方へ回そう」
「私も同じことを考えていました」
怜は赤い駒を一つ動かした。
「ただし、観測する人員を増やせば、守る人数も増えます。車列の護衛を薄くするわけにはいきません」
「そうだな。基地に帰ってから考えれば、いくらでも正しい配置は浮かぶ」
蓮司は椅子の背にもたれた。
「現場では、雨も降るし、予想外の車が止まる。次は同じ失敗を減らしたい」
「そのために報告書があります」
怜は静かに頷いた。
作戦室の端には、朝の護衛で回収された人工片の写真があった。白い小さな欠片。焦げた端。細い金属の模様。
「あれの返事は?」
「まだです。中央へ搬送する手続きだけ済んでいます」
「そうか」
「何か気になりますか」
「怪物の中に、あんなに整ったものが残るのが不思議でね」
「回収記録は保存してあります。結果が出れば、照合できます」
怜が淡々と答える。
その落ち着いた声を聞いて、蓮司は少し安心した。分からないことを、今すぐ何かの陰謀だと決めつけるわけにはいかない。だが、見たものを忘れるのも違う。
「その件は任せる」
「はい。……十五分、過ぎましたよ」
壁の時計は、言葉どおりの時刻を示していた。
「正確だな」
「あなたが時間を守らないので、私が守るしかありません」
怜は端末を閉じかけ、もう一度開いた。
「今朝の戦闘で、私の定着が間に合わない時間がありました。距離を読み違えたのは私です」
「後尾には間に合った。佐伯も助かった」
「結果の話です」
「じゃあ、原因を次の訓練で確かめよう。俺の位置取りも含めて」
怜は少しだけ目を見開いた。
「……分かりました」
「一人で責任を抱え込むのは、禁止だぞ」
「その言葉、隊長ご自身にも当てはまります」
返す言葉がなかった。
蓮司が苦笑すると、怜はようやく表情を緩めた。
「早く戻って休んでください。後は私がまとめます」
「ありがとう。怜も遅くなりすぎるなよ」
「区切りがついたら帰ります」
「……その言い方、信用しづらいな」
「誰かさんに似たのかもしれませんね」
机の向こうで、彼女がほんの少し笑った。
蓮司は書類に署名をし、席を立った。
廊下へ出ると、壁に取りつけた除湿器が低く唸っていた。昔のホテルらしい厚い絨毯が残る区画は、梅雨になると湿気が抜けない。整備兵が何度も改造した機械が、夜通し水を吸い続けている。
曲がり角では、長い狙撃銃のケースを持った澪に会った。
「澪。まだ起きてたのか」
「銃、返してきた」
「休めそう?」
「眠い」
「それは、見れば分かる」
澪は壁の時計を見てから、蓮司へ顔を向けた。
「隊長も寝て」
「ああ、もう戻るよ」
「……おやすみ」
澪は手を小さく振り、別の廊下へ消えた。
基地に戻ると、こんな些細なやりとりがある。
出撃中には決して聞けない、眠そうな声。
それだけで、帰ってきたのだと実感した。
◇
蓮司の居室は、旧ホテルの六階にあった。
軍の宿舎になってから壁紙は張り替えられ、ベッドも簡素なものへ変わった。ただ、窓の位置と洗面台の形には昔の面影が残っている。扉の内側には、荷物を預けた客が使っていたらしい、小さな姿見が取りつけられたままだった。
部屋に戻り、蓮司は上着を椅子へ掛けた。
鏡には、疲れた顔の男が映っている。右目の下に薄い隈。頬には乾いた雨の跡。胸の傷のせいで、シャツを脱ぐ動作もゆっくりになった。
身長や体格だけ見れば、よほど頼りなく見えるだろう。
実際、自分を頼もしい人間だと思ったことはあまりない。
それでも、隊員たちは今日も自分の命令を聞いてくれた。その重さを思うと、部屋の静けさがありがたかった。
洗面台で顔を洗い、処方された薬を飲む。
午後九時半。
ようやくベッドに座ったとき、控えめなノックが聞こえた。
「蓮司さん。起きてる?」
茜の声だった。
「起きてる。どうした?」
「ちょっとだけ。入ってもいい?」
「ああ」
扉を開けると、朝倉茜が小さな紙袋を抱えて立っていた。
さっきまでの軍服ではない。白に近い薄い水色のTシャツに、膝の少し上で終わる柔らかな紺色のショートパンツ。肩にはゆったりとした灰色のカーディガンを羽織っている。入浴を終えたばかりなのか、赤い髪は下ろされ、毛先がまだ少し湿っていた。
いつもひとつに結んでいる髪が頬に触れると、同じ人なのに少し印象が変わる。
「……何?」
茜が首を傾げる。
「いや、髪を下ろしてると雰囲気が違うなと思って」
「え、変?」
「似合ってる」
茜は驚いたように瞬きをしてから、少し嬉しそうに笑った。
「そういうの、急に言うんだね」
「聞かれたから」
「聞いてよかった」
紙袋を持ち上げる。
「食堂で、温めれば食べられるスープもらってきた。薬だけで寝ちゃうかと思って」
「カレーは食べたぞ」
「知ってる。これは明日の朝でもいいし。それと、蜂蜜入りのお茶」
「助かる。入って」
茜は頷き、扉を閉める前に廊下をちらりと見た。
足音はない。遅番の通信員が通る時間にはまだ早いのかもしれなかった。
部屋の小さな机に紙袋を置き、茜は中から保温瓶と二つの紙カップを取り出した。蓋を開けると、蜂蜜の甘い香りが立つ。湯気の上がる茶を注ぎ、一つを蓮司の手元へ置いた。
茜が椅子を引き、蓮司はベッドの端に腰を下ろす。二人でいるには少し狭い部屋だった。
「今日、ほんとに大変だったね」
茜が言った。
「ああ。予定よりずっと長い一日になった」
「朝はさ、夕方に帰ったら何食べようって考えてたの。佐伯さん、カレーだって言ってたから」
「実際、カレーだったな」
「うん。ちゃんと食べられた」
茜は自分の膝へ視線を落とした。
指先がカーディガンの袖をくるくる巻いている。戦闘中には見なかった癖だった。
「でも、あのときは……食べられないかもしれないって思った」
蓮司は答えを急がなかった。
「民間車のところ?」
「うん。蓮司さんが走っていったところ。私、二号車の反対側にいて、間に合わなかったでしょ」
「距離があった。誰でもあれ以上は速く走れないよ」
「分かってる。でも、無線が一瞬途切れたの」
茜の声はいつもより小さい。
「逆共鳴が起きたあと。雑音がして、蓮司さんの声が聞こえなくなって。ほんの少しだったのに、すごく長く感じた」
蓮司はあの瞬間を思い出した。
共鳴器が鳴り、視界が白くなったとき。自分でも何を言ったのか、はっきり覚えていない。相手が近くにいても、音が遠くなる感覚があった。
「心配かけたな」
「ううん。謝ってほしいわけじゃないよ」
茜はすぐに首を振った。
「私、怖がってる暇がなかった。次はどこへ動くか、そればっかり考えてた。でも基地に戻って、お風呂に入ったら急に落ち着かなくなってさ」
笑おうとしたが、うまく笑えなかったようだった。
「湯船に入って、もう終わったって思ったのに。声が聞こえなかったところだけ、何度も浮かぶんだよね」
蓮司は両手を膝に置いた。
「俺も、佐伯のところが見えなくなったとき、似た気持ちだった」
「佐伯さん?」
「あいつを狙って別の獣骸級が走っただろ。何を命じればいいかは考えられた。でも、あいつが無事か分からない時間は、長かった」
「そうなんだ……」
「隊長でも、怖いものは怖いよ」
茜が顔を上げる。
「蓮司さんも?」
「怖いさ。自分が怪我するのも嫌だし、仲間がいなくなるのはもっと嫌だ」
少し間があった。
「……そっか」
彼女はゆっくり息を吐いた。
「なんか、安心した」
「安心?」
「うん。蓮司さん、何でも平気な顔でやっちゃうときあるから。私だけが心配してるのかなって」
「そんなことない」
「じゃあ、ちゃんと言ってね。怖いときも、痛いときも」
「努力するよ」
「それ、ちょっと怪しい返事」
茜が小さく笑った。
蓮司もつられて笑いかけ、胸の傷に気づいてやめた。
「ほら、痛いんでしょ」
「今のは少し」
「少しでも痛いの」
茜は椅子から立ち上がり、蓮司の隣に座った。
ベッドは一人用だから、二人分の体重を受けて少し沈んだ。近くに来ると、髪から微かな石鹸の香りがする。
「近いぞ」
「嫌?」
「嫌じゃないけど、驚く」
「じゃあ、少しだけ」
茜が肩を寄せた。蓮司の左側、怪我のない方だった。
髪が腕に触れる。
戦場では、誰かの体温を確かめる時間などほとんどない。手を掴むときも、引き起こすときも、次の行動が先にある。
今は、何もしなくていい。
ただ二人で座っていられる。
「蓮司さん」
「ん?」
「おかえり」
その言葉は、夕方に一度聞いたものよりずっと静かだった。
蓮司は少し間を置いてから答えた。
「ただいま、茜」
茜は顔を上げずに笑った。
「……それ、聞きたかった」
しばらく、部屋には除湿器の低い音だけが流れた。
蓮司は茜の手が膝の上でぎゅっと握られているのを見つけた。自分から手を伸ばし、その指へ軽く触れる。
茜が驚いて顔を上げた。
「今日は、茜にも助けられた。俺の左側を見てくれたの、覚えてる」
「あんなの、当たり前だよ」
「当たり前でも、嬉しかった」
蓮司が言うと、茜は少しだけ目を伏せた。
「……ほんと、そういうこと急に言う」
「そうか?」
「そうだよ。心臓に悪い」
今度は二人とも笑った。
茜の手は温かい。指先に小さな傷がいくつもあり、訓練で厚くなった皮膚が触れる。柔らかいだけの手ではない。今日一日、剣を握って誰かを守った手だ。
蓮司は一度だけ、指を静かに握り返した。
それ以上のことはしなかった。
彼女の気持ちに気づいていないわけではない。茜は普段から隠すつもりがないし、蓮司自身も彼女といる時間を楽しみにしている。
ただ、隊長と部下として明日も同じ現場に立つことを考えれば、今夜の安堵だけで関係の名前を決めるのは違う気がした。
焦らなくても、話したいことはまだたくさんある。
「……もう少し、いてもいい?」
「眠くないなら。俺はそろそろ寝るけど」
「あ、それは寝て。沙夜先生に怒られちゃう」
茜は慌てて立ち上がった。
「私、明日の朝、スープ温めに来ようか」
「朝食は自分で何とかする」
「えー、せっかく持ってきたのに」
「スープは食べるよ。でも茜も休め」
彼女は少し考えてから頷いた。
「分かった。じゃあ、明日は食堂で会おうね」
「ああ」
扉の前で茜が振り返った。
「……次の休み、時間が合ったら一緒にどこか行かない?」
「休みか。そうだな、外縁勤務が入らなければ」
「約束ね」
「予定が決まったら相談しよう」
「うん。楽しみにしてる」
茜は小さく手を振り、廊下へ戻っていった。
扉が閉じる。
蓮司はしばらく、何もせずに立っていた。
机には紙袋と、蜂蜜入りのお茶。まだ完全に冷めていないのだろう、カップから細い湯気が上がっている。
今日、外の高架道路で自分の左腕へかかった衝撃を思い出す。胸の痛みも、目の奥の鈍い熱も、消えたわけではない。
それでも、今ここには別の感覚が残っていた。
握り返した手の温かさ。
「……ただいま、か」
もう一度、声に出してみた。
知らないうちに、笑っていた。
◇
翌朝は、雨だった。
窓に当たる水の音で目を覚ます。部屋の時計は午前六時半を指していた。薄いカーテンを開くと、海側の建物が霧に包まれている。防壁の警戒灯が雨粒に滲み、遠くの輸送路は見えなかった。
昨日とは違う、静かな朝。
蓮司はゆっくり上体を起こした。
胸の傷は、深く呼吸するとまだ痛む。左腕も重い。ただ、視界の白さは消えていた。窓枠の角も、壁の小さな文字も、昨日よりはっきり見える。
机の上には、昨夜茜が置いていったスープの包みがある。
蓮司は湯を沸かし、温めたスープを少しずつ飲んだ。野菜の甘みと、薄い塩味。豪華な朝食ではないが、寝起きの胃にはちょうどよかった。
食べ終えてから、彼は医療室へ向かった。
「視覚反応は改善していますね」
沙夜が記録画面を見ながら言った。
「今日は数字が全部読めました」
「そういう日は、油断しがちです」
「分かっています」
「本当に?」
「……昨日も言われました」
沙夜は笑って、端末を閉じた。
「制限は予定どおり。明日まで逆共鳴は禁止です。頭痛が続くようなら、もう少し延ばします」
「了解」
「それと、今夜は眠れましたか」
「七時間くらい」
「良いですね。できれば、それを続けてください」
診察を終えると、蓮司は廊下の長椅子で靴紐を結び直した。
向こうから若い隊員が二人歩いてくる。昨日、手を切った女性兵士もいた。左手には白い包帯。右手には小さな紙袋を持っている。
「大尉、おはようございます」
「おはよう。手の具合は?」
「痛みはありますけど、動きます。今日は事務仕事に回してもらいました」
「それがいい。ちゃんと治してから戻ってきてくれ」
「はい」
彼女は敬礼し、少し迷ってから付け加えた。
「昨日、引っ張ってくれて、ありがとうございました」
「転ばせるような助け方だったけどな」
「でも、助かりました」
蓮司は頷いた。
そのまま二人と別れ、食堂へ続く廊下を歩く。病室ではなく職場へ戻る隊員の背中を見られることが、何より嬉しかった。
食堂の大型画面には、都市の朝の放送が流れていた。
『安寧機関は、本日も皆さまの穏やかな暮らしを支えます。雨天時の外縁通行には十分ご注意ください。男性の皆さまは、安全区域内での移動を推奨します』
淡い色の街並みが映り、楽しそうに傘を差す家族の姿へ切り替わる。
近くのテーブルで、佐伯がその画面を見上げていた。
「毎朝、同じこと言ってますね」
「毎朝聞く人がいるんだろう」
「俺は昨日、言われたとおり内側にいたかったですよ」
「今日はそうしてていいぞ。整備班の手伝いで、基地の内側に」
「あ、それはそれで腰に来る仕事だ」
佐伯が笑い、トレーを持ち直した。
窓際の席では、澪が伏せた腕の上へ頬を載せている。
「澪、寝てるのか?」
「……休暇」
顔を上げずに返事が来た。
「休暇なら部屋で寝てればいいのに」
「食堂の音、落ち着く」
それだけ言って、澪はまた目を閉じた。
蓮司は佐伯と顔を見合わせ、二人で笑った。
その笑い声に反応して、澪が片目だけ開く。
「……静かに」
「悪かった」
蓮司は声を落とした。
雨の朝の食堂には、昨日の戦場とは違う時間が流れている。
誰も急いで銃を構えていない。眠い人間は眠そうにしていて、朝食の最後の一口を惜しむ人間がいる。
その当たり前の景色の中へ戻るために、外で戦っているのだと思えた。
◇
昼前、怜から連絡が入った。
「調達品の一覧が届きました。大尉の確認が必要です」
「了解。十分で行く」
作戦室へ入ると、怜と真琴が机の両側に立っていた。
真琴は例によって指先を油で汚し、見慣れない金属の留め具を手にしている。怜の方は、束ねた髪に乱れがなく、昨日の夜の疲れをほとんど見せなかった。
「蓮ちゃん、次の槍の改修に使う部品、ようやく在庫が見つかったわ」
「軍の倉庫に?」
「ちゃうねん。市内の工房に。防湿用の部品なんやけど、うちの規格に合う寸法を作ってくれるとこがある」
「なら、取り寄せでいいんじゃないか」
「細かい寸法、現物を持っていって相談した方が早いねん。あと整備室の除湿器、交換したい部品が山ほどある。六月中には揃えたい」
怜が一覧表を示した。
「基地の日用品もまとめて発注します。医療室の消耗品、洗濯設備の部品、食堂の備品。市内の取引先を回れば、一度に済ませられそうです」
「場所は?」
「新道頓堀の商業地区です。一般の商店街に近い区画ですが、許可を受けた工房もあります」
蓮司は地図を見た。
ドームの内側にある商店街。外縁の道路に並ぶのは壊れた標識だが、こちらには色とりどりの店の看板が密集している。小さな駅や飲食店もあり、休日には人で賑わう場所だ。
蓮司は、いつ最後に私服で街を歩いたか思い出そうとした。
防壁の外には何度も出ているのに、内側を自由に歩いた日の記憶は、案外少ない。
「俺が行こう。現物の確認なら、槍の扱い方を分かっている人間がいた方がいいだろ」
「お医者さんの許可が出てからです」
怜が即座に答えた。
「もちろん。来週以降で調整するよ」
「六月下旬なら、当番を入れ替えられます」
「じゃあ、そこで」
真琴が満足そうに頷いた。
「助かるわ。ついでに、帰りに美味しいもんでも食べてきたらええねん。せっかく市内まで出るんやし」
「仕事だぞ」
「仕事終わってからの話や」
真琴は笑い、部品をポケットへ戻した。
そのとき、作戦室の扉が開いた。
「ねえ、商店街に行くって本当?」
茜が顔を出した。
今日は整った軍服で、赤い髪もきっちり結んでいる。昨夜の緩いカーディガンの姿とは、まるで違う。
「廊下まで声、聞こえてたよ。新道頓堀?」
「そうだ。六月の下旬に調達で行くことになりそうだ」
「じゃあ私も行く!」
即答だった。
怜が端末から顔を上げる。
「朝倉曹長。調達担当者は、まだ決めていません」
「私、ちょうどそのあたりで休みが取れそうなんだ。護衛が必要なら手伝うし、なくても一緒に歩きたい」
「あなたの勤務予定を確認してからにしてください」
「はーい。確認する!」
茜は怜に返事をしてから、蓮司へ向き直った。
「蓮司さんも行くんでしょ?」
「許可が出ればな」
「じゃあ、約束の続きにしようよ。昨日、次の休みにどこか行こうって言ったじゃない」
真琴が軽く眉を上げた。
「へえ、そういう話になっとるん?」
「真琴さん、変な顔しないで」
「してへん、してへん」
明らかに面白がっていた。
蓮司は小さく息を吐いた。茜は昨日のことを、少しも隠すつもりがないらしい。
「調達が済んだら、昼飯くらいは食べられると思う」
「ほんと?」
「ああ。俺も久しぶりに街を歩きたいし」
茜の表情が、ぱっと明るくなった。
「やった! じゃあ、私服で行ってもいい?」
「勤務外の時間なら、好きな服でいいだろ」
「じゃあ決まり。何着ていこうかな」
彼女はもう、次の休みのことを考えているようだった。
怜は手元の予定表を見つめてから、小さくため息をついた。
「外出許可と調達計画は、私がまとめます。ただし朝倉曹長、休暇が承認されるまでは確定ではありませんよ」
「うん。ちゃんと申請する」
茜は素直に頷き、蓮司を見た。
「蓮司さん、楽しみにしててね」
「そうだな。俺も楽しみにしてる」
そう答えたとき、蓮司は自分の気持ちに少し驚いた。
街へ買い物に行くだけのことだ。
それなのに、日付の決まった小さな予定が、思いのほか嬉しかった。
昨日、彼らは壊れた道路で何度も命を失いかけた。今日も傷は痛み、装備は修理を待ち、分からないことも残っている。
それでも、次の休日の話ができる。
雨はまだ止んでいない。
窓の向こうでは、防壁が低く唸っていた。
けれど作戦室の中には、茜の明るい声と、真琴の笑い声がある。
蓮司はその音を聞きながら、六月下旬の予定表に小さな印をつけた。
守りたい場所がある。
そこには、帰ってから始まる時間がある。
――第二話 了
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