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楽園の残響  作者: 天音シオン
第一巻 潮見第七基地

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第一話 男を追う影

 今から約百五十年後の日本。


 旧大阪湾岸には、巨大な防壁とドームに守られた都市、新浪華(しんなにわ)がある。約八百万人が暮らすそこには、学校も病院も商店街もある。朝になれば電車が走り、家族は食卓を囲み、恋人たちは次の休日の約束をする。


 人々が昔と同じように笑って暮らせるのは、防壁の外で戦う者たちがいるからだった。


 都市の放送は、安寧機関(エデン)が今日も平穏を支えると告げる。その言葉を聞いて安心する人は多い。防壁の外に、どんな朝があるのかを知らなくても、内側の暮らしは確かに続いていく。


 外の廃墟には、虚骸(きょがい)と呼ばれる怪物が出る。


 人ほどの大きさのものも、車を押し潰すほど巨大なものもいる。小さく群れる残滓級(ざんしきゅう)、四本脚で素早く襲いかかる獣骸級(じゅうがいきゅう)など、形と危険度によって分類されている。決まった顔も声も持たず、銃で撃たれて崩れても、しばらくすると破片を集めて起き上がる。


 虚骸を倒すには、外側を壊すだけでは足りない。


 中心にある感情核(コア)を断つ必要がある。


 軍の一般兵は銃や爆薬で怪物の動きを止め、厚い殻を砕く。その隙間から核を探り当てるのが、特殊な感覚を持つ「適合者」だ。適合者は核の位置を見つける探核(たんかく)、核の動きを短時間止める「定着」、専用武装で核を断ち切る断芯(だんしん)を行う。


 探核、定着、断芯。順番に聞けば単純だが、怪物は静かに待ってくれない。一般兵の銃撃がなければ核は現れず、適合者が近づけなければ、砕いた殻は再び繋がる。何人もの兵士がそれぞれの役目を果たして、ようやく一体を倒せるのだ。


 適合者の多くは女性だった。そして、この時代にはもともと男性が少ない。成人の男女はおよそ二対八。男児が少なく、無事に育つのも難しいとされ、市民の男性には手厚い保護制度が設けられている。


 それには、もう一つ理由があった。


 虚骸は、なぜか男性を優先して追いかける。


 女の兵士が目の前から銃を撃っても、その横を抜け、離れたところにいる男を目指すことがある。なぜそうなるのか、決定的な答えは出ていない。分かっているのは、男性が防壁の外を歩くこと自体が危険だという事実だけだ。


 だから、男は守られる側にいることを求められる。


 ただ一人の例外というわけではないが、自分から前衛に立とうとする男は、ひどく珍しい。


 黒瀬蓮司(くろせれんじ)は、そんな男の一人だった。


 二十七歳。細身で、目立たない顔立ちの大尉。大きな力も、どんな敵にも勝てる才能も持っていない。


 彼が率いる部隊の目標は、敵を一体でも多く倒すことではなかった。


 出ていった人間を、一人でも多く帰すこと。


 ただそれだけを守るために、蓮司は今日も防壁の外へ向かう。


     ◇


 午前五時十二分。

 潮見(しおみ)第七基地の屋上に立つと、海はまだ灰色だった。


 六月上旬の旧大阪湾。夜のうちに降った雨は止んでいるが、潮風は重く、吸い込むと舌の奥に微かな塩気が残る。遠くの防壁が低い音を立てていた。巨大な空調設備と、その外側の風がぶつかって生じる、地鳴りにも似た響きだ。


 防壁の内側、新浪華の朝の灯りは、切れ間から薄い金の線となって見えた。あちらでは、今ごろ炊飯器の蓋が開き、通学の準備が始まり、どこかの店が一日の最初の湯を沸かしているはずだ。


 蓮司のいる基地は、その温かな日常の少し外側にあった。


 かつて大型ホテルだった建物を軍が改装したため、古びた屋上にはまだ客室用の案内板の跡が残っている。海の見える展望デッキには対空監視器が並び、プールだった場所には雨よけの幕を張った通信設備が収まっていた。


 蓮司は手すりに片手を置き、首筋を軽く回した。

 グレーの軍服は夜の湿気を吸って、肩のあたりが少し冷たい。身長百七十三センチほど。細身の体に、これといった特徴のない顔。寝癖を押さえた短い黒髪も、いかにも軍人という迫力には欠けている。


 制服の胸に大尉の階級章がなければ、補給課の事務員だと思われることも珍しくない。


『隊長。屋上で黄昏(たそが)れるには早い時間です』


 耳の通信機から、聞き慣れた硬い声がした。


 副官の氷室怜(ひむろれい)中尉だ。


「まだ勤務開始前だぞ、怜」


『五時に装備庫を開けていますよね。槍に何かあったんですか』


「槍の伸縮機構が気になっただけだよ」


『調子が悪いなら整備主任に伝えてください。自分で開けないでくださいよ』


「分解してない。触っただけ」


『昨日も、そう言っていました』


 細い息を吐くような沈黙が挟まった。


『……食堂に温かいものがあります。十分以内に下りてきてください。冷めます』


「了解」


 通話が切れた。

 この基地の副官は命令書の一字一句には厳しいが、誰よりも早く起きた隊長の朝食が冷めることも気にする。


 蓮司はもう一度、街の灯りを見た。


 防壁の内側と外側で、風の匂いが違う。

 それを知っている人間が、内側ではどれだけいるのだろう。


 屋上から階段を下りると、基地が目を覚ましつつあった。


 旧宴会場を改装した食堂には、焼いたパンと味噌汁の匂いが同居している。眠そうな整備兵が二人、同じテーブルで別々の朝食を突いていた。窓際では女性の通信員が端末に向かい、まだ温かい湯飲みを両手で包んでいる。


「あ、蓮司さん! こっち、こっち!」


 朝倉茜(あさくらあかね)が腕を高く上げた。


 目立つ赤い髪は、今朝も後ろで無造作に結ばれている。二十四歳の彼女は訓練着のまま、パンを片手に蓮司の席を確保していた。まだ袖を通していない上着が隣の椅子に掛けてある。


「おはよう、茜。走ってきたのか」


「うん。雨上がりって足が滑るから、ちょうどいい練習になるんだよね」


「怪我する練習にはするなよ」


「はーい。それより蓮司さん、卵焼き好きでしょ。取っといた」


「自分のを食べろ」


「二つあるから一つあげるの。こういうのは遠慮しない!」


 皿が滑ってきた。卵焼きは不格好な四角形で、端に少し焦げ目がついている。


「厨房に茜が入ったのか」


「あたり。どう、分かった?」


「形で」


「ひどいなあ。味で当ててほしかった」


 口を尖らせながらも、茜は嬉しそうだった。

 蓮司は箸を取り、一切れを口に入れる。少し塩が強い。外へ出る朝には悪くない。


「うまいよ」


「ほんと?」


「ほんと」


 茜は満足そうに笑い、自分のパンをかじった。


 その向かいへ、資料端末を抱えた怜が腰を下ろす。黒髪をきっちり束ね、制服の襟に一つの乱れもない。二十六歳の彼女は皿に手を伸ばす前に、蓮司の飲み物を見た。


「コーヒーだけで済ませるつもりではなかったようですね」


「茜が見張ってくれた」


「見張りじゃないよ。元気に出撃してほしいだけ」


「朝倉曹長。隊長を甘やかしすぎです」


「卵焼き一個で? 怜さん、厳しいなあ」


「そうやって何でも世話を焼くから、隊長が朝食を忘れるんです」


「じゃあ怜さんも食べてよ。もう一個あるから」


「……一切れだけ、いただきます」


 怜が少し迷ってから箸を伸ばし、茜が得意そうな顔になる。


 蓮司は味噌汁を飲みながら、二人の応酬を聞いた。こういう朝なら、何度あってもいいと思う。


「あ、おはよ」


 いつの間にか、雨宮澪(あまみやみお)が隣に立っていた。

 二十三歳。薄い色の髪が頬の脇に落ち、目は半分ほどしか開いていない。手には小さな飯椀。彼女の眠そうな顔に慣れていなければ、立ったまま寝ていると思うだろう。


「澪、昨夜の観測は何時までだった?」


「二時」


「仮眠時間は?」


「取った。……二時間ちょっと」


「あとで輸送車に乗ったら寝ていい。出番までは」


「高所に移る前に起こして」


 澪はそれだけ言って着席し、静かに米を食べ始めた。


 怜が端末を開く。


「本日の任務は、西の補給港から第七基地へ帰る輸送隊の護衛です。医療用の滅菌資材、発電機の交換部品、それに生活物資。民間車両一台が護衛区間への通行許可を得ています」


「民間?」


「外縁設備の点検業者です。運転手は女性、同行する技師は男性。合流地点から東門まで護衛に加えます」


 男性、という言葉に茜の箸が止まった。


「危なくない? あそこ、最近は残滓級が多いって」


「危険は承知で申請してきたそうだ。護衛の間は、俺たちが守る」


 蓮司は端末の地図に目を落とした。


 旧高速道路の一部を補修した輸送路が、海に沿って西から東へ延びている。北側は護岸と沈んだ物流ヤード、南側は商業ビルの廃墟。途中に古い立体交差があり、橋脚の陰と壊れた遮音壁が死角を作る。


「三ノ瀬(みのせ)の立体交差が気になるな」


「偵察機は夜間に反応を拾っていません」


「雨の夜なら熱源を取りこぼす。橋の下に水も溜まる」


 怜は少しだけ眉を動かし、地図の該当部分に赤い印を置いた。


「では、移動速度を落としますか」


「交差点の前で間隔を詰めすぎない。止まるときも、重い輸送車二台が同じ射線に重ならないように。澪の観測位置は北側の旧管制塔。南へ抜ける降り口は茜に任せたい」


「了解!」


 茜の声は明るい。それでも、蓮司が地図から顔を上げたとき、彼女の目はもう笑っていなかった。


 それでよかった。


 戦場で必要なのは、元気な返事だけではない。


     ◇


「蓮ちゃん、ええとこに来たな」


 整備室で神崎真琴(かんざきまこと)が待ち構えていた。


 二十八歳の整備主任は、袖をまくった作業着の腰に工具を下げている。明るい茶色の髪をまとめ、指先には黒い油汚れが残っていた。台の上には蓮司の武装が整然と並んでいる。


「言っておくけど、槍は分解してないぞ」


「まだ何も聞いてへんのに。よっぽど気にしとるんやな」


「怜にも同じことを言われた」


「ほらな」


 真琴は短く笑い、細長い金属の筒を持ち上げた。


「位相槍(フェイズランス)。伸長動作は正常。昨日の試験で引っ掛かった二段目の留め具は換えといた。共鳴器の出力は規定内、せやけどあんたの逆共鳴(リバース)用の増幅回路、ちょっと熱を持ちやすい」


「回路を使うなら、どのくらい持つ?」


「あんた、使う気満々やん。できれば今日は出番なしにしてな」


 真琴は笑顔を消し、槍を蓮司の手に載せた。


 柄は冷たい。掌の内側にある古い傷へ、滑り止めの細かな溝が当たる。握りを回して固定具を確かめると、短く畳まれた槍身が、静かな金属音を立てて伸びた。


 軽い。だが軽さは、振り回してよいという意味ではない。


 槍の先が届く距離を正しく測り、相手が動く前に足を置く。そのための武器だ。


「今日はできるだけ使わない」


「『できるだけ』の部分が気に入らんねんけど」


「約束できるのはそこまでだ」


 真琴は諦めたように鼻を鳴らし、前腕の小盾を手渡した。


「盾の展開軸も新品にした。左へ受け流すぶんには強いけど、正面から二発もらったら危ないで。あと、戻ったらちゃんと整備室へ寄ること。前みたいに食堂へ直行したらあかんからな」


「分かった」


「前回も分かった言うてた」


「今回は守る」


「……ほな、帰ってきてから叱ったるわ」


 いつもの軽口の終わりだけ、少し低い声だった。


 蓮司は槍を畳み、腰の固定具へ収めた。ライフルの安全装置、拳銃の弾倉、予備の位相剣、応急包帯、通信機。手順に従って一つずつ指で触れる。


 装備点検は、今日の自分に何ができて、何ができないかを確かめる時間だった。


 車庫では、佐伯航平(さえきこうへい)軍曹が護衛車の荷台に立ち、隊員たちへ弾薬箱を渡していた。


「大尉! 今日も朝飯食いました?」


「食べた」


「珍しいですね。誰の手柄ですか」


「朝倉だよ」


「朝倉の卵焼き、前はずいぶん甘かったですよね」


「今日は塩味だったぞ」


「塩味も作れるのか。今度俺にも一切れ頼んでみよう」


 蓮司が肩をすくめると、佐伯が声を出して笑った。


 三十歳の彼は、同性の兵士が少ないこの基地では貴重な気安い相手だ。適合者ではない。銃の腕は突出していないが、遮蔽物の選び方と撤退時の誘導に無駄がない。負傷兵の担架を持つなら、蓮司は真っ先に彼を呼ぶ。


「民間車の確認を頼む」


「済ませました。運転手は八年前から外縁整備に入ってます。技師は父親だそうで、通行証と退避訓練の記録も確認済みです。ただ、護衛車の速度についてこられるかは微妙ですね」


「無理に速度を合わせさせるな。異常があれば早めに連絡してもらおう」


「了解。……大尉も、何かあったら退避してくれます?」


「そのつもりだよ」


「『必要なら俺が残る』って顔ですけど」


「おまえまで真琴みたいなことを言うな」


「心配してるの、俺だけじゃないですからね」


 佐伯は笑ったまま、銃を持ち直した。


 その笑い声を背に、蓮司は車庫の出口を見た。


 空はようやく青みを帯び始めていた。

 蓮司が率いるのは、第七独立戦闘部隊(セブンス)と呼ばれる小部隊だ。

 今日の出撃者数は二十三名。車両四台と、途中合流の民間車一台。


 全員の顔を一度ずつ確認してから、蓮司は言った。


「セブンス、出発する。今日も荷物と人を無事に届けよう。余計な戦果はいらない」


「了解!」


 返事が重なり、シャッターが上がった。


     ◇


 旧高速道路の白線は、ところどころ水の下に沈んでいた。


 舗装の割れ目から草が伸び、使われなくなった道路標識に小さな蔦(つた)が絡みついている。百年以上前の街の名前が記された案内板は、塩で白くなり、文字の半分が読めなくなっていた。


 輸送路として残されたのは、片側二車線のうち内陸寄りの一車線だけだ。外側の車線には、崩落を知らせる黄色の杭が一定間隔で打たれている。


 朝八時四十分。


 西の補給港で積み荷を受け取った一行は東へ向かっていた。

 先頭に偵察用の軽装甲車。七十メートル後ろに滅菌資材を積んだ一号輸送車。その後ろに百メートルほど空けて発電機を運ぶ二号輸送車。民間の白い小型車が二号の後方につき、最後尾を佐伯の乗る警護車が守る。


 蓮司は先頭装甲車の助手席にいた。怜は同じ車両の後部で位置情報を確認している。茜は二号輸送車の護衛席から周辺を見張り、澪は先回りして北側の旧管制塔に移動していた。


「右手、旧南港商業区。下層は冠水、動体反応なし」


 佐伯の報告が入る。


「受信。橋脚の根元を確認してくれ」


『二班、確認中。南側の三本目まで異常なし』


 海から吹く風が壊れた遮音壁を鳴らした。外気取り入れ口を通じ、車内まで湿ったコンクリートの匂いが流れてくる。


 蓮司は地図上で指を滑らせた。


 もうすぐ三ノ瀬の立体交差だ。北には古いコンテナヤード。南には低く沈んだ商業施設。かつて環状道路へ分かれていた南の降り口は、途中で潰れている。それでも、橋脚の間を伝えば何かが上がってこられる。


 どこにも姿がないというのは、何もいないことの証明にはならない。


『隊長』


 澪の声だった。


「聞こえる」


『北の管制塔、配置についた。距離、五百二十。高架の東側まで見える』


「南の橋脚は見えるか、澪」


『一本目と二本目は見える。三本目から先は、看板が邪魔』


「了解。視界の外は俺たちで補う」


 澪の狙撃は正確だ。しかし、正確さは見えていない標的には届かない。


 その単純な事実を忘れると、人が死ぬ。


 通信が一度切れ、すぐに茜から入った。


『蓮司さん、民間車の人、こっちに手を振ってたよ』


「そうか。茜、周囲の確認も頼むぞ」


『見てるよ。……運転してるの、娘さんみたいだね。お父さんと二人で外に出るの、怖くないのかな』


「怖くないわけじゃないだろう」


『そっか。じゃあ、ちゃんと帰してあげようね』


「そのつもりだ」


 蓮司は前方を見た。


 高架の向こうには、雨雲の薄い隙間から陽が射していた。街まで戻れば、昼過ぎには基地へ帰れるだろう。


 今日は真琴に槍を見せ、報告書を書き、食堂の夕食を食べる。茜はきっと先に席を取り、怜は報告の不備を見つけ、澪は最後の一口まで眠たそうな顔をしている。


 そんな予定を考えた瞬間、無線に雑音が走った。


『……小さい。南下層、移動反応』


 澪の声が低くなった。


『一、二、四……八。数が増える』


「車列、速度を落とせ。停止位置は立体交差の手前、北側の防護壁沿い。後尾の車は車間を維持」


 蓮司は安全帯を外した。


 同時に、南側の橋脚の根元から、濡れた布を引き裂くような音がした。


     ◇


 最初に現れたのは、人の膝ほどの高さしかない黒い塊だった。


 四本脚に見えるものが不規則に伸び縮みし、頭の位置には白い亀裂が走っている。雨水を跳ね上げて、塊は崩れた斜面を駆け上がった。続いて二つ、三つ。橋脚の陰から同じようなものが押し出されてくる。


 虚骸。防壁の外に棲む、形の定まらない敵。


「残滓級、八体以上!」


 運転手の声とともに、蓮司の車が止まった。


「先頭車、前方を塞ぐな。右の作業帯へ。二号車は七十メートル手前で停止。民間車はその後ろを維持。佐伯、後尾の退路を確保」


『了解。警護車、少し下げる! 二班は民間車を挟んでください!』


「怜、二号車と南の降り口の間に防衛線を。茜はそこで待機。澪、撃てる個体だけを」


『了解しました』

『分かった!』

『南斜面、三体見える』


 蓮司は車から飛び降りた。


 靴底の下で水が散る。左前腕の小盾を展開し、右手のライフルを構える。高架の外縁側、北の護岸は低い防壁で区切られている。南にはコンクリートの斜面。道幅は約七メートル。二台の大型輸送車を横に並べる余裕はない。


 ならば、敵をこちらの狭い場所へ入れない。


「南斜面、距離六十! 第一班、単発射撃。脚を止めろ!」


 乾いた銃声が連なった。


 先頭の黒い塊の外殻が砕け、白い破片が飛んだ。だが塊は倒れない。砕けた場所から細い線が幾筋も伸び、近くに落ちた殻を引き寄せ始めた。


「再構成、始まります!」


「撃ち続けろ。殻を割らなきゃ核が見えない!」


 銃だけでは止まらない。


 中心の感情核を見つけ、動きを縛り、専用の武器で断たなければ、同じ形に戻ろうとする。外殻は何度でも砕ける。核を残した勝利は、数秒しか続かない。


 黒い塊が一つ、高架の縁へ達した。


「茜、手前の二体!」


『了解、行くよ!』


 赤い髪が視界の端を走った。


 茜は二号輸送車の陰から踏み出し、斜面の途中へ飛び込む。彼女の位相剣が短い青白い線を引いた。銃撃で殻の薄くなった一体へ手を伸ばし、空を掴むように指を閉じる。


「見つけた!」


 その瞳が焦点を合わせた先に、赤黒い小さな光が浮いた。


 探核。見えない核の位置へ感覚を合わせる、適合者の技術だ。


 茜の刃が真横に走る。黒い塊の胴が割れ、光が弾けた。


 今度は殻が戻らない。形を失った残骸は、道路の雨水に溶けるように崩れていった。


「一体!」


「深追いするな。次は橋脚の上へ誘導しろ」


『了解! 橋脚の上で止める!』


 茜は素早く後退した。速い。蓮司の目で追えても、同じように足を動かすことはできない。彼女は殻の隙間を見つけると、一呼吸のうちにそこへ入っていける。


 ただし、速さのある人間ほど、止まる場所を間違えたときの代償は大きい。


『隊長、東側に五体追加。うち二体が高架の裏へ回ります』


 澪の報告が入った。


「東側の二体は無理に狙うな。南の看板が邪魔だろう」


『うん。今は抜けない』


「佐伯、民間車を西へ二十メートル。運転手に窓を閉めさせろ。二班は荷台の左右を守れ」


『了解! 全員、移動。走らなくていい、足元を見ろ!』


 銃声の中でも、佐伯の声はよく通った。


 蓮司の前方で残滓級が二体、同時に跳ねた。


 狙いは彼だった。


 左の塊は自分の横を走り抜けた女性射手に見向きもせず、蓮司の胸へ真っ直ぐ飛んできた。


「……やっぱり俺か」


 盾で打ち落とす。腕へ鈍い衝撃が走り、膝が一瞬だけ沈んだ。接地と同時に短い三連射。殻が割れる。だが、核は内側へ逃げ込んだ。


『隊長、私が固定します!』


 怜の声。


 蓮司は半歩だけ引いて射線を開けた。


 道路中央、約二十メートル後方で、怜が左手を前に出している。彼女の足元には円形の同調端末。空気が薄く震え、残滓級の胴に白い細線が走った。


「核を止めました! 五秒、持たせます!」


 核が定着した。動くはずだった赤黒い光が、殻の裂け目に引っ掛かったように止まる。


「澪!」


『見えてる』


 遠くで一発、低い銃声。


 狙撃弾が外殻の縁を削り、核を覆っていた最後の薄い板を吹き飛ばす。


「茜、今!」


 茜が横から入った。


 剣先が光を断つ。残滓級は地面に落ちた瞬間、二度と動かなくなった。


 銃で殻を開き、怜が核を止め、澪が通り道を作り、茜が断つ。


 ひとりが欠けていたら、こんな短い時間では終わらない。


「よし。そのまま輸送車の前を守れ。撃ちすぎるな、残弾を確認しろ」


 蓮司が言い終えたとき、南の橋脚の奥でコンクリートが裂けた。


 地面から、背の高い影が飛び出す。


 さっきまでの塊とは大きさが違った。


 四本の脚は細長く、前脚の先は黒い鉤(かぎ)になっている。胸のあたりに人の肋骨(ろっこつ)を何倍にも伸ばしたような白い殻。顔らしい顔はなく、濡れた岩を重ねた頭部の奥で、何かが空気を吸い込む音がした。


「獣骸級!」


 誰かが叫んだ。


 獣の形をした虚骸は、南側にいた女性兵士を飛び越えた。


 そこには確かに銃を構えた人間がいた。反撃を受ける距離だった。なのに怪物は一瞥(いちべつ)もしない。


 目指しているのは、蓮司だった。


 そして、もう一体が橋脚の向こうから跳んだ。こちらは東側の隙間を抜け、後方の佐伯へ向かっていた。


 耳の奥が冷たくなる。


「全員、確認しろ。獣骸級は二体。追尾先は俺と佐伯だ!」


 奇妙なことではない。外縁の兵士なら誰もが知る敵の習性だ。


 それでも蓮司は、いつ見ても納得できなかった。


 女性を押しのけ、女性から撃たれ、それでも男の姿へ走ってくる。


 まるで、男であることそのものが、何かの罪だとでもいうように。


     ◇


 最初の獣骸級が着地したのは、蓮司の前方十五メートル。


 舗装がひび割れ、黒い爪が水を掻いた。

 腕を振り下ろす前に撃つ。蓮司はライフルを腰の高さに構え直し、胸の白い殻へ三発を叩き込んだ。弾は二発弾かれ、一発だけが細い亀裂を作る。


「重いな」


 銃撃で倒せないと分かると、むしろ相手の走り方が見えてきた。


 前脚の左がわずかに長い。突進では右へ重心が流れる。跳び上がる前には後脚が縮み、胸の殻が一瞬だけ開く。


 蓮司は三歩、北側の防護壁へ寄った。


「第一班、俺への射線は切るな。敵の左脚を狙え。怜、後尾を先に頼む!」


『隊長、その位置では――』


「大丈夫。壁から離れる余地は残してる」


 実際には、余裕は多くなかった。


 北側の防護壁は腰の高さ。向こうへ落ちれば三階建ての建物ほど下に冠水した旧物流ヤードがある。背を預けられる壁ではない。道路の中央へ戻る空間を残し、敵が跳んだ瞬間に横へ逃げるしかない。


 獣骸級が前脚を畳んだ。


「撃て!」


 左右の女性兵士が交互に発砲した。弾が脚の付け根に集中し、外殻が割れる。怪物の跳躍は半歩ずれ、蓮司がいた場所の路面を爪が抉(えぐ)った。


 彼は既に二メートル南へ移動していた。


 続けて撃とうとした右前方の兵士へ、長い後脚が跳ね上がる。


「伏せろ!」


 間に合わない。


 蓮司は兵士の肩を引き、二人で路面へ転がった。爪が頭上を通り過ぎ、近くの標識柱を折る。折れた柱が輸送路を転がり、硬い音を立てた。


「負傷は?」


「左手……擦っただけです!」


「下がって救護を受けろ。銃は置くな、ただし無理に撃つな」


 兵士の手袋から血が滲(にじ)んでいた。擦っただけというには深い。


『後尾、接敵! 獣骸級、俺を追って来ます!』


 佐伯の無線が割り込んだ。


 蓮司は頭だけ振り向く。


 百メートル以上離れた後方、民間の白い車の近くで、もう一体の獣骸級が跳ねていた。佐伯は警護車の外に出ている。彼の後ろには二人の一般兵。さらに後ろには、西へ退こうとする民間車があった。


 獣骸級は銃を構えた女性兵士の横を抜け、佐伯へだけ顔を向ける。


「佐伯、走って引きつけるな! 警護車を盾にして、側面を見せる位置へ下がれ!」


『了解。車体の左へ回ります!』


「二班、民間車の運転手を降ろすな。車内で頭を下げさせろ。南への発砲禁止、輸送車に当たる!」


 配置した二号輸送車が、味方の銃の射線に重なっていた。


 撃てば止められるというものではない。跳弾で積み荷を破損させれば、帰りを待つ病院の仕事が止まる。まして、そばに人がいる。


 蓮司は通信の送信先を怜に絞った。


「後尾の個体を、先に定着できるか」


『距離が遠い。移動します。隊長側は四十秒、自力で持ちこたえてください』


「分かった。こっちで足止めする」


『一人で仕留めようとしないでくださいよ』


「分かってる。皆の射線は残ってる」


『……三十秒で戻ります』


 怜の声が遠ざかる。彼女は道路の中央から、二号車の後方へ走り出した。


 固定同調は、力任せに遠くの核を押さえる能力ではない。足元の装置と本人の感覚が届く範囲で、対象を選び、核の揺れを短時間だけ止める。近い敵を同時に何体も縛ることはできなかった。


 今はその短い時間を、佐伯へ渡す必要がある。


 蓮司は二度目の跳躍を受け流した。


 敵が腕を伸ばす。盾を正面へ向けず、斜めに滑らせる。黒い鉤が小盾の端へ引っ掛かり、火花が散った。骨に響く衝撃で指先が痺れる。たった一撃で、展開軸から嫌な音がした。


 真琴が交換したばかりの部品だ。戻ったら、また苦い顔をさせることになる。


 その直後、盾の隙間を狙って第二の鉤が伸びた。


 蓮司はライフルの銃床を押し当てて進路を逸らし、後ろへ跳んだ。避け切れなかった先端が胸の装甲布を裂く。


 熱い、と感じた。


 だが深くはない。指で触るより先に、体を動かす。


「第一班、三秒後に射撃を集中。俺が下がったら上半身を!」


 合図を出し、槍を抜かずに左へ回る。


 自分一人なら、逆共鳴を起動して核を引きずり出せるかもしれない。だが、まだ二体の獣骸級と、残滓級の群れが残っている。ここで無理に力を使えば、もう一体が誰かへ迫ったときに判断が鈍る。


 何より、戻れなくなる。


 蓮司の思考の中では、その一行が最も重かった。


『隊長、十時方向に小型二体。こちらで処理する』


 澪からの通信。


「任せる。後尾が見えるようなら、俺より先にそっちを」


『うん。佐伯さんの左、見えた』


 直後、遠くで銃声が響いた。


 澪の弾は後尾の獣骸級の顔を狙わなかった。北の管制塔から斜めに通る射線を使い、左後脚の外側だけを砕いた。


 怪物の動きが少しずれ、佐伯の車を飛び越えるはずだった体が、車体側面へ衝突する。


『助かった! 澪、もう一発脚へ頼む!』


『次の装填、四秒』


 四秒は長い。


 佐伯は警護車の陰から飛び出さず、車輪のそばに片膝をつき、兵士たちへ指示を飛ばした。


『二班、右の前脚! 核じゃない、足を止めろ! 民間車の前を空けるな!』


 撃ち込まれた銃弾で、獣骸級の脚が折れる。


 しかし、倒れたと思った次の瞬間、割れた殻の内部に黒い糸のようなものが巻きついた。折れた部分を繋ぎ合わせ、起き上がろうとする。


 適合者がいなければ、戦いは終わらない。


「怜、今どこだ」


『二号車の後方です。固定に入ります』


 蓮司からは、怜の姿が車両の陰に隠れて見えなかった。


 代わりに無線から、短く息を吸う音が聞こえた。


『対象を捕捉。……定着!』


 後尾の獣骸級が不自然な姿勢で止まる。


 肉体全体が凍ったわけではない。爪はなお路面を掻いている。それでも、胸の奥で移動していた核が、まるで見えない釘に留められたように一点へ寄った。


『持続、四秒!』


「澪、露出位置は?」


『左肩の内側。佐伯さんからは見えない』


「茜、行けるか!」


『もう向かってる!』


 赤い影が二号輸送車の前を横切った。


 茜は南側の車体に沿って走り、砕けた外殻を踏み台に跳んだ。肩へ届く直前、剣を逆手に持ち替える。


 狙うのは怪物の背ではない。澪が伝えた一点だ。


『そこっ!』


 青白い刃が沈み、獣骸級の内部で乾いた鈴のような音がした。


 次いで、巨大な体が一斉に崩れた。


『後尾の獣骸級、断芯確認!』


 佐伯の報告が届く。


「よし。茜は後ろの安全確認。怜、こちらへ戻るまで何秒だ」


『最低三十秒。……隊長、無理は禁物です』


「こっちはまだ平気だ」


 嘘ではなかった。


 ただ、敵の爪が裂いた胸元から、服の内側へ冷たい雨水が染み込んでいた。傷は浅いはずなのに、息を吸うたび少し痛んだ。


 獣骸級が低く身を沈める。


 四本脚のうち二本が銃弾で欠けている。それでも、胸の殻を固める音は大きくなっていた。防壁の内側で暮らす人間がこれを見たら、もう動けないと思うかもしれない。


 蓮司は知っている。


 この敵は、まだ動く。


 高架の反対側で、第一班の若い女性が銃を持ち直した。


「大尉、弾倉交換します!」


「交代で。全員同時に替えるな」


 少しだけ声を低くする。


「聞いてくれ。こいつは俺を追う。おまえたちの位置へ無理に寄せない。俺が道路中央へ出たら、左の脚を割ってくれ」


「隊長一人に任せるんですか!」


「俺が一人で倒すとは言ってない」


 蓮司は彼女の顔を見て、短く続けた。


「撃つ位置と逃げる位置を決める。必要なのは、そこだ」


 若い兵士は唇を噛み、頷いた。


 次の瞬間、獣骸級が跳んだ。


 蓮司は道路中央へ走る。怪物は確かに追ってきた。後脚の一つが欠けているため、右へ曲がる動きが大きい。そこで半歩だけ速度を緩める。


 怪物が間合いを詰める。


「今!」


 一斉射撃。


 蓮司の後ろを通るはずだった弾丸は、彼が横へ退いた瞬間、獣骸級の脚を叩いた。厚い殻に線状の裂け目が入り、白い破片が雨水の上を滑る。


 獣骸級が倒れかけた。


 そこへ、怜が戻ってきた。


 走ってきた彼女の呼吸は荒い。それでも足は止めない。路面へ同調端末を置き、片膝をついた。


「対象、探核!」


 耳の奥を引っ掻くような、薄い金属音がした。


 怜の顔から血の気が引く。見えていない何かを見つめる目が、わずかに震えた。


「核、胸郭(きょうかく)の奥。定着します。……三秒!」


 澪がすぐに応じる。


『正面からは骨が厚い。右斜めなら通る』


「右へ誘導する。茜!」


『戻った!』


 茜は後方の安全を確認してから、道路中央へ駆けてきた。


 蓮司が銃を一発、怪物の右側へ撃つ。敵が首をそちらへ振った。


 澪の弾丸が頭上から斜めに飛び、白い殻の継ぎ目を正確に貫いた。


 真っ黒な胸の奥に、小さな光が見えた。


「茜、そこだ!」


 茜は高く跳ばなかった。


 獣骸級の巨体の下へ、地面を滑るように潜り込む。片膝をつき、両手で柄を支え、露出した核へ刃をまっすぐ押し上げた。


 光が砕ける。


 目の前の巨大な殻は、支えるものを突然失ったように崩れ落ちた。茜が横へ転がり、蓮司が伸ばした手を掴んで立ち上がる。


「断芯、確認!」


 怜の声が震えていた。


 蓮司は茜の手を離した。二人は二号輸送車の方へ下がり、負傷者の回収を確認しながら、道路の南側に残った影を探した。民間車までは、もう三十メートルほどだった。


 そこで蓮司は足を止め、周囲を見渡す。


 後尾の獣骸級も消えた。残滓級はまだ数体、橋脚の下へ下がっている。車列の東側に一体だけ、足元の水を啜(すす)るような小さな影がいた。


 勝った、と言ってよさそうな景色だった。


 だが、戦場でその言葉を早く口にすると、いつも何かが起きる。


『大尉! 民間車、エンジンが停止しました!』


 佐伯の叫び声が無線を裂いた。


 蓮司は振り向いた。


 白い小型車が、二号輸送車の後方で斜めに止まっている。運転手が必死にスターターを回しているらしい。リアランプが点いては消えた。


 車の横に、一人の一般兵が立っていた。彼女は警護車へ手を振っている。


 そのさらに南側、崩れた遮音壁の下から、新しい影が這い上がった。


 獣骸級。先ほどの二体より小さいが、残滓級よりはるかに速い。


 暗い外殻の頭が向いた先には、民間車の助手席に座る男性がいた。


「三体目……!」


 怜が歯を噛みしめた。


「澪、狙えるか」


『看板が重なってる。……今は撃てない』


「茜は?」


『二号車の反対側! 十秒かかる!』


 十秒。


 獣骸級は、もう四十メートルも離れていなかった。二班の銃撃を受けて一度よろめいたが、殻を引きずりながら走り直す。


 蓮司と白い車の間には、倒れた標識柱と、発電機を積んだ輸送車がある。


「佐伯、運転席から人を出すな! 二班は南へ手榴弾を投げるな、民間車が近い!」


『分かった。大尉、俺が前に出ます!』


「出るな!」


 自分でも驚くほど強い声が出た。


「佐伯は車を守れ! 前に出たらおまえも狙われる。二班から二人、こっちへ回して!」


『……了解!』


 蓮司は走った。


 濡れた路面を蹴り、倒れた標識柱を跨ぎ、輸送車の北側を抜ける。息を吸った途端、胸の浅い傷が引きつった。両足は動く。左腕も、まだ盾を支えられる。


 間に合うか。


 正確な距離を測る暇はなかった。


 白い車の向こうで、怪物が跳んだ。


 狙いは車の窓。助手席の男性が、ぎこちない動きで娘らしい運転手を庇っていた。


 蓮司は最後の数歩を詰め、左腕を横へ突き出した。


 小盾が展開する。


 爪がその表面を滑り、鋼を噛んだ。


 盾の軸が悲鳴を上げる。衝撃を正面で止めず、右足を一歩引いて外側へ流す。怪物の前脚は車の窓を外れ、路面を深く抉った。


 蓮司の左腕に痛みが走る。


 力が抜けかけた指を握り直すと、何か小さな金属片が地面に落ちた。盾の留め具だった。


「……あと一撃は無理か」


 怪物が振り返る。


 目のない頭が、まっすぐ蓮司を向いた。


 車の助手席を狙っていたはずなのに、もう男性技師へは見向きもしない。


 近い男。より強く追わせる何か。


 虚骸が誰を選ぶかには、個体差がある。それは兵士のあいだでは経験則として語られていた。


 蓮司は、怪物が狙いを変えた理由を考えなかった。


 ただ、それを利用できると判断した。


「運転手さん! 窓は開けないで、頭を下げて!」


 車内の女が頷いた。


 蓮司は槍を抜く。


 金属の柄をひねり、伸長させる。先端を低く構え、敵との距離を目測する。


 六メートル。


 四メートル。


 怪物の胸には厚い殻が残っている。このまま刺しても、刃先は核へ届かない。


 必要なのは一瞬だけ、殻の奥から核を引き出すこと。


 蓮司は腰の共鳴器へ親指を置いた。


『隊長、待ってください。それを使えば周囲の残滓まで――』


「分かってる。三秒で終わらせる」


 怜の言葉を遮った。


 逆共鳴。


 蓮司は、適合者のように自在に核を探して固定することはできない。その代わり、専用の共鳴器を使い、敵の追いかける感覚をほんの短いあいだ逆向きにする訓練を積んできた。


 近くにいる一体だけ。成功しても数秒。大型の群れ相手には使いものにならない、扱いにくい技術だ。


 それでも、手の届く距離に誰かの命があるとき、役に立つ。


「起動」


 共鳴器が、歯を噛み合わせるような金属音を立てた。


 耳ではなく、歯の根元に響く。


 世界の輪郭が、一瞬だけ薄くなる。


 黒い怪物が跳ぼうとした姿勢のまま、奇妙に頭を上げた。


 何もない空間へ、帰り道を探すように。


 胸の殻が内側から開いた。


 赤黒い小さな光が、濡れた空気の中へ浮く。


 一秒。


 蓮司は右足を前へ置いた。


 二秒。


 肩を開かず、肘を固めず、槍の柄を掌の中で滑らせる。


 先端が最短距離で光へ向かう。


 三秒。


 槍が核を貫いた。


 鋭い金属音。


 光が砕け、怪物の殻が崩れる。


「断芯!」


 自分の声は思ったより小さかった。


 次の瞬間、左の目の奥で火がついた。


 視界の半分が真っ白になり、道路がぐらりと傾く。喉の奥に鉄の味が広がる。槍を支える右手は確かにあるのに、指先が他人のもののように遠い。


 足元の水面へ膝をつきそうになった。


『隊長! 逆共鳴の反応が周辺へ広がっています!』


 怜の声が聞こえる。


 何十メートルも離れた橋脚の下で、残滓級が一斉に動き出した。


 先ほどまで退いていたはずの影が、こちらを向く。


 まるで鐘でも鳴ったかのように。


 蓮司は、それらの動きが自分へ集中していることを悟った。


 一体を倒した。けれど、今の自分は周囲に居場所を叫んでしまったのだ。


『隊長、まだ橋脚の下に残っています!』


 後方の若い兵士の声が聞こえた。


「追わない。ここから撤退する」


 蓮司は即座に答えた。


「俺ももう使えない。ここで引く。全員を帰すぞ!」


 共鳴器のスイッチを切り、槍を短く畳む。


 それだけの動作に、いつもの倍ほど時間がかかった。


「佐伯、民間車を警護車で牽引(けんいん)できるか」


『できます。ロープを掛けます!』


「怜、残滓級の先頭だけ固定してくれ。茜は追うな、こっちへ戻れ。澪は橋脚の入口を撃って時間を作って」


『了解』

『すぐ行く!』

『入口の左に、落とせる看板がある』


「それを使おう」


 澪の狙撃弾が、錆びた看板の支持具を撃ち抜いた。


 鉄板が落ち、南の斜面を塞ぐ。完全な障害物にはならないが、残滓級の先頭がそれにぶつかり、後続が一瞬だけ詰まった。


 怜が一体を定着する。


 茜はその核を断ち、すぐに蓮司の前へ戻った。


「蓮司さん、立てる?」


「立てる。右は見える」


「じゃあ私が左を見る!」


 茜はそう言って、彼の左側へ入った。


 抱き起こそうとはしなかった。蓮司がまだ歩けると判断したからだ。代わりに、自分の立つ位置で彼の見えない半分を補った。


「茜、前へ出すぎるな」


「分かってる。蓮司さんは私の後ろへ」


「了解。左は任せる」


「うん、任せて」


 短いやりとりを終え、二人は後退した。


 民間車の牽引ロープが張り、警護車がゆっくり動き出す。二号輸送車がその進路を空け、一号輸送車は前進して高架の出口を確保した。


「全車、前進。速度は低く。歩兵は乗れる順に乗れ。後尾は佐伯が指揮、南斜面への牽制は第一班。深追いなし!」


 蓮司は、息の切れた隊員たちの位置を数えた。


 一、二、三。


 銃を支える腕。負傷者を肩から抱く二人。荷台へ上がる姿。


 見えない左側は茜に確認してもらいながら、最後の一人が車内へ入るまで目を離さなかった。


 どうしても、そうしたかった。


     ◇


 立体交差から二キロ東の臨時退避所に入ったとき、午前十一時を回っていた。


 そこは旧料金所の跡を土嚢(どのう)と鋼板で囲った、小さな軍用待避帯だった。屋根には雨が残り、落ちる雫が同じ場所を規則正しく叩いていた。


 蓮司は全車両を停止させ、まず負傷者を数えた。


 左手を裂かれた女性兵士が一人。足首を捻った兵士が一人。蓮司自身の胸元の裂傷と、逆共鳴の反動による神経症状。


 死亡者は、いない。


 その報告を聞くと、肺の奥に溜めていた息がようやく抜けた。


「隊長、ここ座ってください」


 救護担当の兵士が折り畳み椅子を差し出した。


「先に手を切った隊員を」


「止血は済みました。大尉の番です」


 ぴしゃりと言われる。


 蓮司は逆らわず座り、濡れた上着の前を開いた。下の保護布が裂け、脇腹(わきばら)へ向かって浅い傷が続いている。消毒液が触れると、かえって頭がはっきりした。


「深部損傷はなさそうです。でも帰投後に検査してください。目の見え方は?」


「左が少し霞む。さっきより戻ってる」


「霞むなら使わないでください。報告には書きますよ」


「もちろん」


 救護兵の手つきは丁寧だった。彼女の手袋には別の隊員の血が少し残っている。その赤を見て、蓮司は自分たちが生きた人間の体で戦っていたことを思い出した。


 戦闘中は、どうしても数字と距離ばかりを考える。


 敵まで十メートル。定着は三秒。退避まで二十メートル。


 あとで痛む腕や、帰ったら腫れてくる足首のことまで、数字だけでは分からない。


 怜が紙の点検表を持って近づいた。


「損害を整理します。護衛車の側面装甲に陥没。二号輸送車の外板に擦過傷(さっかしょう)。積み荷は両車とも封印を維持。民間車はエンジン故障、牽引継続です」


「弾薬は?」


「予備を含め、第一班が規定の四割を使用。第二班が三割強。澪の精密弾は十一発消費。交換部品は……小盾の固定軸一本」


 怜はそこで蓮司の左腕を見た。


「小盾は要交換です。真琴主任には?」


「俺から話すよ」


「……そうしてください。傷も隠さずに」


「傷は医療室で見せる。装備のことは真琴に全部伝える」


「お願いします」


 怜は端末を閉じかけ、また開いた。


「……民間車の前へ出る前に、後尾の二班と連携できませんでしたか」


「二班は民間車の前を守っていた。あそこで位置を変えさせると、車の横が空いてしまう」


「だから、ご自分が飛び込んだと?」


「あの距離なら俺がいちばん早かった。それだけだ」


「それでは、いつかあなたが帰ってこなくなります」


 怜の言葉は厳しかった。


 蓮司は反論しようとして、やめた。彼女が怒っているのは、自分の命令が気に入らないからではない。


「次は、もっといい配置を組む」


「……そうしてください。あなたを守るための部隊でもあります」


 最後の一言は、周りの音に紛れそうなほど小さかった。


 蓮司は何か言おうとしたが、その前に佐伯がやってきた。


「大尉、まだ立ち上がらないでくださいよ」


「まだ座ってるだろ」


「立ちそうな顔してたもんで。待ってれば、ちゃんと先生が来ますから」


「おまえまで見張るのか」


「よかった。俺はあんたが動き出したとき、心臓が止まるかと思いましたよ」


「おまえが走って囮になろうとしたとき、俺も同じだ」


 佐伯は苦笑した。


「じゃあ、お互い様ってことで」


「そうだな」


 少しのあいだ、二人は言葉を交わさずにいた。


 遠くでエンジンが低く鳴り、整備兵の声が飛び交う。負傷した隊員は水を飲み、誰かが濡れたヘルメットを逆さにして雨を捨てていた。


 ありふれた作業が、一つずつ戻ってくる。


「……夕飯、間に合いますかね」


 佐伯が言った。


「どうだろう。帰投報告次第だ」


「今日は食堂のカレーなんですよ。俺、昨日から楽しみにしてて」


「おまえは戦う前から食べることばかりだな」


「帰る楽しみがなきゃ、外に出られませんから」


 佐伯は何でもないことのように答えた。


 蓮司は、その言葉をしばらく考えた。


 帰る楽しみ。


 それは英雄らしい理念より、ずっと手に触れやすいものだった。


 民間車の乗員も、牽引の確認を終えて近づいてきた。


 運転手の女性は二十代半ばほどで、仕事用の上着の肩を濡らしている。隣に立つ父親らしい男性は、両手を合わせるようにして頭を下げた。


「ありがとうございました。私が車の不調を見抜けていれば……」


「無事だったんですから、まずはそれで」


 蓮司が言うと、男性は顔を上げた。


「十年以上、外縁の設備を見てきたんです。道路も、退避場所も知っていた。……それでも、いざとなると何もできませんでした」


 娘が父親の腕を引いた。


「お父さんが悪いわけじゃないよ。私だって仕事で行ったんだから」


「娘さんの言うとおりです」


 蓮司は頷いた。


「通行許可も退避訓練も、きちんと受けていたそうですね。今回は車の故障が重なった。次に備えて、そこを一緒に見直しましょう。異常があれば、もっと早く護衛に知らせてください」


 女性が唇を結び、深く頭を下げた。


「はい。……必ず」


 父親の肩を支えて歩き去る彼女を見送りながら、蓮司は思った。


 外へ出る男性が少ないこの時代でも、誰もが家の中だけで生きられるわけではない。娘と仕事をする父親もいれば、街の電気を保守する技師もいる。


 そして、兵士もいる。


 その全員が、自分の人生を誰かの都合だけで決められたくはないはずだった。


     ◇


 午後一時過ぎ、回収班から連絡が入った。


 戦闘の終わった三ノ瀬の立体交差へ、装甲車二台と処理班が入ったという。通常なら護衛部隊は先へ進むが、今回は異例のものが見つかったため、現場指揮官の確認を求めるとのことだった。


「何が出た?」


『虚骸の残滓に人工物が混じっています。判断がつきません』


 通信越しの声は若かった。


「人工物なら珍しくない。あのあたりは廃車が多いだろう」


『それが、殻の外に貼りついていたものではないようなんです』


 蓮司は少し考え、怜を見た。


「車列は先に基地へ。俺たちの装甲車だけ寄る。佐伯、全員の乗車を見届けてくれ」


「大尉、その視界で再調査は――」


「戦闘はしない。防護線ができているなら、見て戻るだけだ」


 怜は厳しい顔を崩さなかったが、最終的には同行を認めた。蓮司の左目が回復していることを救護兵に再確認させ、茜も装甲車に乗せた。


「付き添いが二人も必要か?」


 蓮司が言うと、茜は即答した。


「必要。蓮司さん、さっき段差に足取られてたでしょ」


 怜も頷いた。


「まだ視界に不安があるなら、足元にも気をつけてください」


 二人が珍しく意見を一致させたので、蓮司はそれ以上何も言わなかった。


 戻った立体交差は、戦っていたときより静かだった。


 砕けた殻の黒い痕が道路に残り、落ちた看板の一部が斜面を塞いでいる。回収班は白い防護服を着て、残滓が飛散しないよう吸引器を動かしていた。硝煙(しょうえん)の匂いは薄れ、濡れたコンクリートと薬品の匂いだけが残っていた。


「大尉、こちらです」


 班長に導かれ、蓮司は密閉容器の中を覗いた。


 黒く乾いた残滓の中央に、小指の先ほどの破片があった。


 白い陶器のように見える。だが表面には薄い金属の線が三本、曲線を描いて走っていた。片端は焼け、もう片端には機械で打ったような小さな番号が刻まれている。


「装甲の破片では?」


 茜が訊く。


「この区画に使われている規格とは違います」


 回収班長が答えた。


「何より、おかしいのは場所です。獣骸級の核が崩れた中心から採れました。周囲の殻に挟まっていたなら分かりますが、これだけが内側に残っていた」


 蓮司は容器に顔を近づけた。


 破片は、どこかの医療機器にも、古い電子部品にも見えた。こんなに小さいものなら、風に飛ばされて怪物へ紛れ込んだだけかもしれない。


 だが、番号の刻まれ方が妙に整っている。


「回収した個体は?」


「三体目の獣骸級です。大尉が最後に討伐した個体ですね」


 蓮司は無意識に、左目のあたりへ手を上げた。


 まだ鈍い痛みが残っていた。


「核の内側に人工片、か。過去にも例は?」


「記録上は見つかっていません。中央の分析装置へ送れば、材質くらいは分かると思うのですが」


 怜が携行端末へ写真を取り込んだ。


「基地側で一次分析を行います。輸送箱の封印も、私が確認しましょう」


 そう言った直後、端末が短く鳴った。


 怜は画面を見つめ、眉を寄せた。


「中央から通信です」


「早いな。報告を上げたばかりだろう」


「ええ。こちらが求めた照会ではありません。回収データの自動送信を受けて、先方から……」


 怜は一度言葉を切った。


「内容は?」


「『封印のうえ搬送。現地での材質照合は不要。鑑定待ち』」


 短い命令だった。


 処理班長が口を開く。


「不要? こんなものを見つけたなら、まずは基地で調べるべきでは……」


「命令の出どころは?」


「中央外縁管理局。認証は正規のものです」


 怜の説明を聞きながら、蓮司は密閉容器をもう一度見た。


 白い破片。


 表面の細い線。


 読めそうで読めない小さな番号。


 それらは、怪物の一部としてあまりにも整いすぎていた。


 しかし、怪物がどこで何を拾い、何を殻に取り込むかなど、軍の研究者でさえすべてを把握しているわけではない。現場で下せる判断には限界がある。


「記録は残したな」


「はい。回収時の映像と位置情報、担当者の署名まで」


「なら命令に従おう。ただし、うちの記録も保管しておく。後で照合が必要になるかもしれない」


 怜が頷いた。


 茜は密閉容器を覗き込み、首を傾げた。


「本当に、あの怪物の中から出てきたの?」


「回収班の記録では、そうなってる」


 蓮司は答えた。


「理由は分からない。でも、見なかったことにはできないな」


 蓋が閉じられ、封印の赤い線が点いた。


 どこからか、潮の匂いがした。


     ◇


 基地の東門をくぐったときには、夕方の光が建物の窓に当たっていた。


 曇り空の下、潮見第七基地の古い外壁は濡れた石のように見えた。屋上の監視器はゆっくり回り、食堂の換気口からは炒めた玉ねぎの匂いが流れている。


 車庫の前には、先に戻っていた佐伯が立っていた。


「お帰りなさい、大尉。結局、カレーには間に合いそうです」


「人数は?」


「二十三名、全員います。負傷者も医療室へ。民間の二人は警護車から降りて、東門の係員に引き継ぎました」


「よかった」


 それだけ言うと、蓮司の膝から急に力が抜けそうになった。


 緊張が切れたのだろう。肩に張りついていた軍服が、やけに重く感じられる。


 背後から茜が追いついた。


「蓮司さん、医療室。まっすぐ行くよ」


「先に装備返却を――」


「装備は私が持ってく。蓮司さんは、ちゃんと診てもらって」


 茜の声は柔らかいが、譲らない響きがあった。


「分かった。お願いする」


「うん!」


 彼女は槍の収納ケースを受け取り、ほっとしたように笑った。


 その笑顔に、蓮司は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


 朝と同じ顔だ。


 夜明けには卵焼きを押しつけてきた顔が、今は血と雨で汚れた自分を見ている。笑っていることに変わりはないのに、その意味は朝とは違っていた。


「……帰ってきたね」


 茜が言った。


「ああ」


「うん。よかった」


 それ以上、彼女は何も言わなかった。


 少し離れたところで、怜が新しい報告書を開いている。澪は狙撃銃の長いケースを肩へ掛けたまま、壁に背を預けて目を閉じていた。佐伯は隊員を呼び、夕食の列に並ぶ順番で冗談を言っている。


 誰もが、それぞれの疲れ方をしていた。


 蓮司はふと、防壁の向こうを見た。


 街の灯りが、一つずつ点き始めている。


 あの光の下には、今日の任務が成功したことを知らない人が大勢いる。病院には無事に届いた資材を使う人がいる。父親と娘はきっと、今夜の食事の席で恐ろしかった出来事を話し、いつか笑い話にできる日が来るかもしれない。


 それでいい。


 誰かに褒めてもらうために、この仕事をしているわけではなかった。


 ただ、朝ここから出ていった人間に、夕方、同じ場所で声を返してほしい。


 おかえり、と。


 その願いだけは、いつまで経っても小さくならない。


「黒瀬大尉」


 怜が顔を上げた。


「医療室に連絡してあります。回収した人工片の処理は私が引き継ぎますから、今は診察を受けてください」


「分かった。鑑定結果が届いたら知らせてくれ」


「ええ。まずは、あなたが休むことです」


 蓮司は頷き、医療室へ向けて歩き出した。


 背中の向こうでは、夕食を知らせる放送が流れ始めている。


 その温かな声に紛れて、密閉容器の中にあった白い破片の形を、蓮司はもう一度思い浮かべた。


 怪物の中に、あれほど整ったものがある。


 理由は分からない。


 だから今は、帰るべき場所へ帰る。


 明日もその場所が、変わらず残っていると信じて。


 ――第一話 了


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