【39】 ききたいこと
「……もう、大丈夫ですか?」
「はい……」
テオ殿下のハンカチを涙と鼻水でびしょびしょに濡らしてしまったあとに、ようやく気持ちも涙も落ち着いてきた。
涙が止まらず泣きじゃくっている最中に、『背中をさすっても?』と訊いてくれたテオ殿下。
しゃくりあげながらも、こくこくと肯いた。
ソファに座らせてくれて、彼は隣に腰をかける。
幼い子どもをあやすように、背中をゆっくりとさすってくれていた。
剣を持つために、手のひらは硬い。それでも、大きくて温かい手は、無条件に安心できる。心の中のもやもやとした塊を、その温かさは静かに溶かしてくれるようだった。
ずずっと鼻をすすって、ゆっくりと呼吸を整える。
泣いてしまったことで瞼が重くなっていた。腫れていることがわかる。目もごろごろとするから、きっと真っ赤に充血しているはず。
ただでさえ合わせる顔がないというのに。こんなに泣き腫らしたみっともない顔で、本当に申し訳ないと思うし、情けない……。
もう一度。
大きく息を吸って、はいた。
ハンカチをきゅっと握りしめる。
「テオ殿下……」
なんだか声も鼻声になってしまっている。
身体をずらして、向き合う姿勢をとった。
「はい」
テオ殿下も同じようにして、向き合ってくれる。
灰色の瞳は、どこまでも広がる空のように深くて、優しい。
「本当に……本当にごめんなさい」
改めて謝罪をした。
膝に額がつくくらい、深く深く頭を下げて謝った。
こんな言葉だけでは伝えられないけど。
ほかに、なにも言いようがない。
それに。
なにを言われても、受け入れなくてはならない。
息を飲み込むような微かな音が、聞こえたように思えた。
しばらくの間、そのまま頭を下げたまま。
「ルナ……。顔を上げてください」
「……」
その言葉に甘えて、ゆっくりと頭を上げる。
真剣な表情をしたテオ殿下。
「それは、なにに対する謝罪なのですか?」
苦さが混じった声で問われた。
「湖で……わたしに仰ったことです。ノア様のことを……見ている、と」
「ノアのことですか? そのこと……ですか?」
そのことだ。本当にそのこと。
そのことに付随するすべてのことに対しての謝罪。
「はい」
そう、答える。
テオ殿下はまじまじとわたしを見つめた。
それから一瞬の間をおいて、なぜか、ほっとしたように深く息をはいた。
「……私が言ったことも……憶えていますか」
「はい」
『私のことを……さぞ厚顔無恥な男だと思っているでしょうね』
『ルナ……貴女との婚約を何度もフィリップス子爵に打診しました。フィリップス子爵からはそのたびに、遠回しに断りの返事をいただきました。それなのに私は、懲りもせずに……夜会で貴女に婚約宣言などをした……』
『立場上、貴女が断れないことをわかっていました。それでも、どうしても貴女を私の手で護りたかった』
『私は愚鈍ではないつもりです。いつからか、貴女の視線がノアを追っていることには気がついていました。しかし、それでも……』
『私は……ずるい男です』
あの湖でのことなら繰り返し、繰り返し、頭の中で再現した。
忘れるわけがない。テオ殿下の言葉は一言一句、しっかりと覚えている。
どういう意味なのかは、まだ解らないこともあるけど。
「……つまり、私もずるいのですよ」
自らを嘲るように、テオ殿下の唇が上がった。
それは湖でも聞いたことだけど……。
「……?」
「フィリップス子爵に内々に、婚約の打診を何回もしました。すべて……遠回しに断られてしまいましたが」
「……」
「ルナ。私は貴女のことを何度も夜会でお見かけしています。貴女はたぶん……気がついていないでしょう?」
「……はい」
それは……初耳だった。
夜会ではテオ殿下を見かけた記憶はない。
たぶん……マッチョな殿方は視界に入っていなかったから……。
「貴女は壁際に立っていました。凛とした姿で。誰とダンスを踊ることもなく」
ああ……。
それは、ちょっとだけ背が高いから……。
「わたしは……ダンスには誘われないからです」
テオ殿下は首をゆっくりと左右に振った。
「周りの男性たちの視線は、明らかに貴女を意識していました。ダンスに誘いたかったと思います。でも、貴女の凛とした雰囲気に気圧されて、誘えなかったのでしょう」
「いいえ、そんなことは……」
「そうなのですよ。ご自分では気づいていないのですね」
「……」
「私は……そんな貴女に……母の面影を見てしまった……」
表情を崩すと、テオ殿下は寂しそうに微笑んだ。
ステラ様の面影? わたしなんて、どこもなにも似つかないのに。
「母は、人に言わせると、どことなく儚い雰囲気があったそうです。しかし、幼い私の目にはそのようなことはなく、とても凛とした人に映っていました。……母が……亡くなる少し前に、肖像画を描いたのです。そのときに画家が描く母は、なぜだか本当に儚く見えて、不安になってドレスの裾を握っていたのを覚えています」
あの肖像画……。
不安そうな眼差しをしていたテオ殿下。
そう……だったんだ。
「だから……貴女のことは、私がお護りしたかったのです」
……護る。
灰色の瞳がさらに哀し気に揺れた。
「しかし……申し訳ない。護りたかったといいながら、こんなことに貴女を巻き込む形となってしまった」
今度はテオ殿下が、それこそ膝に額をつけるように頭を下げる。
なんでっ? ちょっと待って?! テオ殿下が謝る必要なんて全然ないのにっ。
「そんなっ、テオ殿下、困ります! どうぞ顔を上げてください」
「しかし、合わせる顔がない……」
「なにを仰っているんですかっ。合わせる顔がないのはわたしのほうです」
「しかし……」
「顔を上げていただけないのなら、また……泣いてしまうかもしれません」
「それは困る」
ぱっと跳ねるように、顔を上げてくれる。
目が合うと、なんだかすこし可笑しくなって、二人で笑ってしまった。
「貴女に泣かれると……どうしたらいいのかわからなくなる」
本当に困ったように視線を伏せて、テオ殿下は頭の後ろに手を充てた。
「あの……お訊きしてもいいですか?」
「なんでも」
「どうして……ノア様をフィリップス子爵邸に遣わされたのですか?」
視線は上がり、灰色の瞳は再びわたしを捕らえた。
「それは……ちょうどそのころに。兄の……ルドア第二王子派の不穏な動きが目立ってきていました。私に関することには……細心の注意を払わなければなりませんでした。母の……事故に関する噂は、知っていますか?」
こくんと肯くと、テオ殿下は深くため息をついた。
「同じことは、もう、二度とご免だった……。ノアなら信頼できる。私の右腕の一人です。そして……貴女がノアを選ぶのなら……それでもいいと思ったのです。この世界から、貴女がいなくなってしまうよりも……。それに、ノアなら貴女を幸せにできると思いました。私からみてもよい男です」
なにかを諦めたように、テオ殿下は静かに微笑む。
この人は、なんて……。なんて……。
「……わたしは、婚約は……破棄されてしまうのではないかと……思っていました」
細かく声が震えている。それが自分でもわかった。
言葉を絞り出した喉が、熱くて、痛くなる。
「破棄などとんでもない! 解消はしたほうがいいと思いましたが……情けないことに、踏み切れなかったのです。貴女の心がたとえ私になくても……」
「……テオ殿下、あの……青い目の金髪の……女性は……」
「青い目の女性……とは、囮にしたノアのことですか?」
「……本当に……本当に……ノア様……」
ああ、もうダメ……。
我慢していると喉も痛いし、目からも……。
「ああっ。ルナ? どうしたのですか? 泣かないでくださいっ。貴女に泣かれると私は本当に……」
目の前でおろおろとしているテオ殿下の姿が滲む。
大きな身体が、どうしたらいいのかと右往左往している。その姿はなんだか可笑しくて、可愛くて……。
だけど、だけど。もう、止まらない。
まだまだ訊きたいことはあるし、伝えたいこともたくさんあるのに。
身体のどこに、こんなに涙が溜まっていたのだろうかと思うほどに、二度目の大泣きをしてしまった。




