【38】 再会
第三王子宮にて五日目の夕刻。
にわかに外が騒がしくなった。
エントランス前では、馬のいななきや車輪の軋む音がしている。
カーテンの端を少しだけめくり、部屋の窓から外を覗いてみた。
とうに陽は落ちている。夜の帳は辺りを包み込んでいて、外はもう暗い。
ガス燈が灯ったエントランス前。騎士様たちが宮内を忙しく出入りしているのがわかった。
指示を出しているような大きな声もしている。だけど、なにを言っているのかまでは聞き取れない。
庭園や林の方角には、たくさんのランプの灯りが見えた。チラチラと揺れる橙色は、夏の夜に翔ぶ、ホタルのようだった。
「なにかあったみたい?」
マリエルが隣にきて、ひょいと窓から外を覗く。
「うん……」
橙色の灯りを眺めたまま、返事をした。
……もしかして。
胸の中で、なにかが大きくざわりと震える。
しばらくの間、マリエルとそのまま外の様子を窺っていた。
橙色のランプの灯りがひとつ、ふたつと消えてゆき、庭園や林がもとの静寂を取りもどした頃。コンコンコンコン、と、部屋の扉が四回、強めに叩かれる。
「オーギュストです」
マリエルが「はあい」と、扉を開ける。
頬をほんのりと上気させたオーギュスト様が立っていた。
「どうぞ。入っていいよ」
マリエルが促すと、オーギュスト様は首を左右に振った。
「ルナ様に伝言を」
「お兄様……やっぱり、そうなの?」
マリエルの言葉に肯いたオーギュスト様の、緑色の瞳が柔らかくほどけた。
「セオドア殿下が、ご無事におもどりになりました」
△▼△▼△
テオ殿下の着替えや休息が終わり、クロス男爵夫妻とフィリップス子爵夫妻(お父様とお母様)に、直々に状況等の説明がされたと聞いた。
使いの騎士様から、あとでノア様がお迎えにうかがいます、との言付けを受ける。
「お待たせいたしました。ルナ様。セオドア殿下が執務室でお待ちです」
迎えにきたノア様に案内されて、執務室までをマリエルとオーギュスト様と一緒に向かう。
テオ殿下と面会するのはわたしだけ。
ノア様、マリエル、オーギュスト様は、これから別室で、仕事の打ち合わせをするという。
オーギュスト様はなんだかうきうきとした様子だけど、マリエルは浮かない顔をしている。
さらさらつやつや髪の秘訣を教えてもらって、それを『ノア様印のさらつや髪のもと』として、販売をするの? そう訊いてみたけど、浮かない顔で「……うん、まあ」とだけ答えて、ため息をついていた。
どうしたのかな? お金儲け大好きなのに。
ノア様、付き添ってくれたマリエル、オーギュスト様と一緒に、執務室の扉の前に立つ。
どきんどきんという、心臓の鼓動が早い。
……どうしよう。
テオ殿下に……会いたかった。会って、謝りたかった。
だけど。
いざ、会えるとなると……。
鼓動がさらに早くなる。
どきんどきんと大きく鳴る心臓は、まるで耳の中にあるみたいだった。
最初に……なにを話せばいいのか。
やっぱり、謝るべきだよね。
でも、どう言えば……。
汗ばむ手をきゅっと握る。
深く息をはいて、また、吸い込んだ。
「ルナ? 大丈夫?」
心配そうに覗き込んだマリエル。
その言葉に、扉をノックしようとしていた手を、ノア様が止める。
「……うん」
緑色の瞳に、唇を少し上げて微笑う。
大丈夫だよと、微笑うつもりだった。だけど、うまく微笑えなかった。
「ルナ様。……よろしいですか?」
ノア様の青い瞳は、気遣うように細められる。
もう一度、深く息を吸い込むと。
「……はい」
そう、肯いた。
△▼△▼△
「セオドア殿下、ご無事でなによりでございます……」
執務机の向こう側に立つテオ殿下の前で、ドレスの裾を持ち上げる。足を後ろに引く。視線を下げたまま礼を取った。
それ以上、言葉が出てこなかった。喉になにかが詰まってしまったみたいに、声を出すことができない。
「……ルナ」
テオ殿下がわたしの名前を呼ぶ声。ほんのふた月ぶりくらいなのに、なんだかとても懐かしく感じる。
『ルナ。貴女の視線は、気がつくとノアを追っている』
『ノアのことが……気になりますか?』
秋の湖でのテオ殿下の言葉が鮮明に甦る。
哀しげな瞳を思い出す。
うつむいて、視線を下げたまま。そのままで、礼を取り続けた。
考えてみたら。というか、考えるまでもなかった。
テオ殿下にあんなことを言わせておいて、どんな顔をして向き合えばいいというのだろう。
合わせる顔がないって、そう思っていたのに。
まずは、お詫びをしなくてはならないのに。
悪いのはわたしだけ。お父様、お母様、ノア様はなにも悪くない。罰を与えるならわたしだけにしてくださいって。そう言わなくちゃいけないのに。
指先まで震えて。喉が詰まってしまって。声を出せないよ……。
「ルナ……顔を上げてください。……舞踏会の夜は、怖い思いをさせてしまって……申し訳なかった。第三王子宮では、なにか不便なことはなかったですか? ……お元気でしたか?」
「……」
……なんで、なんで、そんなに気遣ってくれるの?
わたしが悪いのに。謝らなくちゃいけないのはわたしなのに。こんなときだって、情けないけど……声も出せないのに。
あのときだって。
わたしのことを責めなかった……。
執務机の向こう側に立っていたテオ殿下が、動く気配がした。
床を見つめていた視界が陰る。テオ殿下は、すっと前に立った。
「ルナ、顔を見せてください」
優しい、優しいテオ殿下の声。
「……はい」
覚悟を決めて、顔を上げた。
灰色の瞳と視線が合う。
もう、その瞳の中には、映してもらえないと思っていたのに。
まるで陽だまりのような、あたたかな灰色。だけど――その中には、少しだけ、哀しそうな色が混じっているようにも見えた。
ふた月前よりも頬が痩せていた。舞踏会場でも思ったことだけど。近くで見るとよくわかる。
それでもテオ殿下は優しく、優しく微笑んでいた。
「テオ殿下……。本当に、よくぞ、ご無事で……」
やっと出すことができた声は、小刻みに震えている。
視界が滲んで、ぼやけてくる。
熱いものが頬に流れてゆくのがわかった。
「ルナ? どうして……? なぜ、泣くのです……?」
あたふたとするテオ殿下。慌ててハンカチを取り出して、渡してくれる。
だけど。流れはじめた涙は……。
「あれ……? なんか……どうしたのかな。あれ、とまらない……。あれ……? なんか、どう、し、よう………………ご……ごめんなざい。…………ごべんなさあい。……テオでんかぁ……デオでんがぁ」
「ルナ? えっ、ちょっと……え?」
どうしても止まらなかった。
大粒の熱い涙は、いくらでも溢れてくる。
ハンカチを握りしめながら。おろおろとするテオ殿下の前で。子どものように、大きな声でしゃくりあげながら、わんわんと泣いてしまった。




