第2話 永久の定義
残り十九日。
百六十万円。
達成率、六十二パーセント。
画面の数字は、先週から一つも変わっていない。
森田は、この数日、できることを全部やっていた。
お礼の動画を投稿した。
過去の大会の写真を再掲した。
返礼品の剃刀の刃を、三枚から五枚に増やした。
どれも、数字を動かさなかった。
森田は、朝の儀式を終え、洗面所の鏡の前で、携帯端末を開いた。
コメント欄に、新しい書き込みが一件あった。
三日ぶりの更新だった。
森田は、少しだけ背筋を伸ばした。
『質問です』
『永久脱毛をしても、また誰かに再生剤をかけられたら、元に戻りますよね?』
森田は、画面を見つめた。
投稿者に、悪意はないように見えた。
ただ、事実を聞いている。
そして、その事実を、森田は誰よりもよく知っていた。
返信の欄が開いた。
指が、止まった。
『ご心配には及びません』
と打って、消した。
『ご支援のお気持ちが、私の頭を』
と打って、消した。
最後に、何も書かずに、画面を閉じた。
鏡の中の頭は、いつもの光り方をしていた。
耳の上の影は、点数にして四点だった。
◇
その日の午後、森田はクリニックの自動扉の前に立っていた。
三十代の頃、永久脱毛を受けた、あのクリニックである。
二十数年ぶりだった。
建物は建て替えられ、受付の壁は白から淡い緑に変わっていた。
受付の女性は、森田の顔を見て、小さく息を吸った。
「森田様でいらっしゃいますか。ニュースで拝見しました」
「お恥ずかしい限りです」
「いえ、お辛かったと思います。先生が、お待ちしております」
待合室で、五分ほど待った。
隣の席に、四十代くらいの男が座っていた。
男は、頭頂部を気にしていた。
手には、第三世代再生剤のパンフレットを持っている。
男が、森田に気づいた。
「あの、もしかして」
「はい」
「やっぱり。本物だ。光ってる」
「ありがとうございます」
「俺も昔は、憧れてたんですよ。スキンヘッド」
「そうですか」
「でも、勇気がなくて。再生剤を選びました」
男は、パンフレットを見つめた。
「今日は、増やしに来たんですけど」
男は、頭頂部を押さえた。
「森田さんの頭を見たら、少し迷ってしまいました」
森田は、何も言えなかった。
そこへ、受付の声が、森田を呼んだ。
診察室で待っていたのは、白衣の医師だった。
年齢は、森田より十ほど若い。
机の上には、森田の来院予約と、頭のイラストが印刷された紙が一枚あった。
「事件のことは、存じております。まず、お見舞い申し上げます」
「ありがとうございます」
「本日は、再度の永久脱毛のご相談ということで」
「はい。頭皮全体を、お願いしたいのです」
「失礼ですが、剃るという選択肢は、お考えになりませんでしたか」
「毎朝、剃っております」
「それでも、永久脱毛を」
「先生。剃るのは、作業です」
森田は、背筋を伸ばした。
「永久脱毛は、完成です。私は、四十年かけて作ったものを、完成させたいのです」
「なるほど」
医師は、メモを取った。
何を書いたのかは、わからなかった。
医師は、うなずいて、料金表を取り出した。
三百八十万円。
数字は、変わっていなかった。
森田は、ここで本題に入った。
「先生。一つ、お聞きしたいことがあります」
「はい」
「この施術を受けたあと、同じ薬を、また誰かにかけられたら」
「元に戻ります」
即答だった。
森田は、椅子の背に体を預けた。
「やはり」
「申し訳ありません。誤魔化すわけにはいきませんので」
医師は、机の上で指を組んだ。
「以前は、永久脱毛というのは、毛根を焼いて、二度と生えないようにする処置でした」
「はい。私もそう教わりました」
「今は、焼かれた毛根を、薬で組み直せるのです。毛包ごと、です」
「医学は進歩したのですよね」
「はい。進歩した結果が、これです」
森田は、黙った。
医師は続けた。
「ですので、現在『永久』と呼んでいるのは、再構築されない限り永久、という意味です」
「再構築されない限り」
「はい。お客様の場合、されました」
森田は、診察室の天井を見た。
天井の照明が、森田の頭に反射して、机の上の紙に小さな光の輪をつくった。
「では、もう一度施術を受けても」
「同じことが起これば、同じ結果になります」
「犯人は逮捕されています」
「はい。ただ、同じことをする人が、一人とは限りません」
「本人認証の義務化が、検討されているはずですが」
「認証が付いても、他人の頭にかける人には関係がありません」
その通りだった。
森田は、反論の言葉を探した。
見つからなかった。
「先生。再構築を、受け付けない毛根を作る方法は、ないのでしょうか」
医師は、少し考えてから答えた。
「現在の医療には、存在しません」
「そうですか」
「再発の保証も、できません」
「そうですか」
「それでも、三百八十万円で、ご予約を承ります」
医師は、誠実に、そう言った。
「分割も、承っております。最長で、六十回です」
「五年ですか」
「はい」
森田は、頭の中で計算した。
五年払う。
その五年のあいだに、誰かが薬をかければ、払い終わるのは、元に戻った頭の分である。
森田は、静かに目を閉じた。
その誠実さが、一番こたえた。
森田は、礼を言って、診察室を出た。
受付で、予約表を渡された。
森田は、それを受け取り、折りたたんで、内ポケットにしまった。
手帳と同じポケットだった。
気がつくと一筋の涙が流れていた。
◇
帰り道、森田は、公園のベンチに腰を下ろした。
二十数年前、永久脱毛を受けた帰りも、このベンチに座った。
あの日、森田は、泣いた。
もう剃らなくていいから、ではない。
頭が、完成したと思ったからだ。
完成したものは、壊されない。
そう信じていた。
森田は、噴水を見た。
水は、同じ形で噴き上がり、同じ形で落ちていた。
森田は、ベンチを立った。
薬局の前を通りかかった。
店先に、大きなポスターが貼られていた。
『第三世代 毛包再生剤 あなたの輝きを、もう一度』
写真には、豊かな髪を風になびかせる男性が写っていた。
笑顔だった。
森田は、ポスターの前で立ち止まった。
男性の髪は、黒かった。
つやがあった。
三時間で四十センチになった、あの髪と、同じ質感だった。
「輝き」
森田は呟いた。
自分の輝きは、四十年のあいだ、一本も生えていない頭皮にあった。
このポスターの輝きは、その正反対にある。
世の中の「輝き」は、いつの間にか、向きを変えていた。
店先の若い店員が、森田に気づいて声をかけた。
「お客様、再生剤ですか」
「いえ」
「本日、特売です」
「見ればわかります」
「三本買うと、四本目が半額です」
「四本目が、半額」
「はい」
森田は、静かに首を振った。
「私の頭は、四本目を必要としません」
店員は、よくわからないまま、頭を下げた。
森田は、歩き出した。
歩きながら、考えた。
永久脱毛の費用が集まったとして。
その金で施術を受けて。
それでも、また誰かが薬をかければ、元に戻る。
では、自分は何のために、金を集めているのか。
支援してくれた人たちは、何に金を出したのか。
◇
夜、森田は食卓の前に座っていた。
夕食は、コンビニの弁当だった。
箸は、ほとんど進んでいない。
携帯端末が、卓上に置かれている。
画面には、クラウドファンディングの管理画面が開いていた。
右上に、小さなボタンがある。
『募集を取り下げる』
これを押せば、募集は止まる。
百六十万円は、すべて支援者へ返金される。
森田は、支援者の一覧を開いた。
名前が、ずらりと並んでいる。
『ゆうこ』
『ひかるママ』
『頭皮応援団』
『通りすがりの理容師』
『輝きの味方』
金額は、三百円から、五万円まで。
森田は、コメントを一つずつ読み返した。
『ゆうこ』
『母が薄毛で悩んでいました。森田さんの堂々とした頭に、勇気をもらいました』
『ひかるママ』
『息子が、パパみたいなかっこいい頭になりたいと言っています。パパは、ふさふさですが』
『通りすがりの理容師』
『剃るたびに、森田さんの頭を思い出します。応援しています』
森田は、画面を閉じそうになって、閉じられなかった。
あの人たちは、森田の頭に、金を出したのだ。
その頭が、また奪われるかもしれないことを、誰も、考えていない。
一人ひとりが、森田の頭のために、財布を開いたのだ。
その人たちに、森田は、
「永久です」
と言って、金を預かった。
だが、永久ではなかった。
永久には、できなかった。
森田は、箸を置いた。
ボタンの上に、指を置いた。
押せば、終わる。
押さなければ、あと十九日、数字が動かないまま、画面を見続ける。
どちらも、つらい。
森田は、指を動かさなかった。
時計の針が、動いた。
十時。
十一時。
零時。
一時。
弁当は、冷えていた。絶望で食べられなかった。
二時。
三時。
森田は、指を置いたまま、一度も押さなかった。
押せなかった。
引き出しの、三つのトロフィーのことを考えた。
審査員の言葉を書き写した、手帳のことを考えた。
あの夜のスポットライトのことを考えた。
押せば、四十年が、終わる気がした。
窓の外が、うっすらと白んできた。
鳥が鳴いた。
卓上の端末が、六時が近いことを告げた。
森田は、まだ、ボタンの前にいた。
事件後、森田には本人にも気がつかない変化が起こっていた。
そう、スプレー恐怖症であった。




