第3話 当てろやー
朝六時。
森田繁は、洗面所の鏡の前に立っていた。
右手に剃刀。
左手に、温めたタオル。
夜通し座っていた体は、重かった。
タオルを頭に当てる。
十秒。
外す。
泡を塗る。
額から、後ろへ。
じょり。
剃刀の音だけは、昨日と同じだった。
耳の上の影は、点数にして五点だった。
手帳に書き込む。
『五点』
端末の画面には、まだ、あのボタンが表示されている。
『募集を取り下げる』
押していない。
残り十八日。
百六十万円。
数字は、動かない。
森田は、端末を伏せて、頭を磨いた。
◇
その日の森田は、あてもなく街を歩いた。
午前は、川沿いを。
昼は、商店街を。
理髪店の前で、足が止まった。
窓の向こうでは、客の髪が、一束ずつ、落ちていた。
かつて、森田は理髪店に縁がなかった。
行く理由が、なかったからだ。
店主が、窓越しに森田の頭を見て、小さく会釈をした。
森田も、会釈を返した。
同業者へ向けるような、敬意のこもった会釈だった。
森田は、また歩き出した。
午後になって、日が傾いた。
夏の夕方は、長い。
暑さが、じっとりと、肌に残る。
森田は、知らない道へ入った。
いつもの帰り道ではない。
古い住宅と、閉まったままの店が並ぶ、静かな通りだった。
◇
シャッターの下りた酒屋の脇に、掲示板があった。
錆びた金属の枠に、色あせた紙が数枚、貼られている。
盆踊りの案内。
迷い猫の写真。
町内清掃のお知らせ。
その隅に。
一枚だけ、新しい紙が貼られていた。
白い紙。
黒い文字。
飾り気は、何もない。
森田は、足を止めた。
『毛根破壊玉 被験者募集』
それだけだった。
連絡先も、日付も、名前もなかった。
森田は、もう一度読んだ。
毛根。
破壊。
玉。
何なのかは、わからない。
誰が貼ったのかも、わからない。
だが、森田の目は、二つ目の言葉から動かなかった。
破壊。
診察室で聞いた言葉が、頭の中で鳴った。
再構築されない限り、永久。
森田は、紙に顔を近づけた。
永久脱毛は、毛根を焼く。
焼かれた毛根は、薬で組み直される。
では、破壊は。
破壊された毛根は、組み直せるのか。
森田は、紙を見つめた。
「永久、ではなく」
小さく、声に出した。
「破壊」
森田は、頭に手をやった。
磨き上げた頭が、夕日を受けて、橙色に光っていた。
四十年守ってきたものを、二度と奪われないために。
奪われる余地を、根こそぎ、壊す。
そう考えた瞬間、森田の背中を、冷たいものが通り抜けた。
恐怖ではなかった。
納得だった。
◇
「被験者です」
森田は、掲示板に向かって言った。
誰も出てこない。
風が、迷い猫の紙を揺らした。
「被験者です。森田繁、五十八歳です」
返事はなかった。
森田は、辺りを見回した。
人通りはなかった。
酒屋の裏手に、細い路地が伸びている。
路地の奥は、暗かった。
日が沈んでいく。
空の色が、橙から紫へ、紫から紺へ変わった。
街灯が、ぽつりと一つ灯る。
森田は、動かなかった。
蚊が、首のまわりを飛んだ。
首を叩いた。
頭には、蚊は寄りつかなかった。
蚊も、光る頭は避けるらしい。
十分が過ぎた。
二十分が過ぎた。
三十分が過ぎた。
森田は、決めた。
待っていても、来ないのかもしれない。
それなら、こちらから、名乗り出るしかない。
森田は、路地の入口に立った。
そして、路地の奥へ背を向けた。
背筋を伸ばす。
顎を引く。
頭を、少しだけ前へ傾ける。
磨き上げた頭頂部が、街灯の光を受けて、まっすぐに光った。
大会で、審査員の前に立った姿勢と、同じだった。
森田は、息を吸った。
そして、叫んだ。
「頭に当てろやー!」
声は、路地の奥へ吸い込まれていった。
静かだった。
猫が、どこかで鳴いた。
森田は、頭を差し出したまま、待った。
十秒。
二十秒。
三十秒。
誰もいないのだろうか。
やはり、ただのいたずらだったのか。
森田が、そう思いかけたとき。
背後で、小さな声がした。
「目標確認」
森田は、思わず、振り返った。
「え、もう?」
路地の奥、十二メートルほど先に、黒い服の男が立っていた。
男の指には、小さな黒い球がつままれていた。
男は、すでに腕を振っていた。
球は、小さく弧を描いた。
ぺち。
森田の顔の真ん中に、当たった。
鼻の頭だった。
痛みはなかった。
ただ、冷たい。
球は砕けて、足元に小さな黒い殻が落ちた。
◇
静寂が、路地を満たした。
森田は、鼻の頭に手をやった。
何も、ない。
黒い服の男は、投げた姿勢のまま、固まっていた。
やがて、男は、ゆっくり腕を下ろした。
「あの」
男は、小声で言った。
「振り向かれると、困るのですが」
「頭に当てろ、と言いました」
「はい。ですので、背を向けていただいていた、のですが」
「声が聞こえたので、振り返りました」
「目標確認の声は、規則でして」
森田は、目をしばたいた。
まぶたの上が、妙に軽かった。
風が、顔に当たる。
風が、鼻の穴を、そのまま通り抜けた。
森田は、その感覚に、覚えがなかった。
四十年、鼻の中には、常に何かがあった。
それが、今は、ない。
「ひょっとして」
森田は、洗面所の鏡を思い出して、携帯端末の画面を鏡にした。
額の下に、眉毛がなかった。
つるりとした肌が、そこにあった。
鼻の下に指を入れた。
鼻毛が、一本も、なかった。
森田は、数秒間、動かなかった。
それから、顔を上げた。
「私は、頭と言った。顔とは、言っていない」
「はい。申し訳ありません」
「眉毛は、頼んでいない」
「はい」
「鼻毛も、頼んでいない」
「はい」
「四十年、守ってきたのは、頭だ。眉毛は、守っていない」
「それは、そうなのですが、眉毛も、結果的には」
「結果的に、とは、何だ」
森田の声が、路地に響いた。
「私は、頭が欲しかったのだ。顔ではない。顔は、私の主張ではない。顔は、毎朝、洗って、拭いて、そこにあるだけのものだ」
「はい」
「それを、なぜ」
森田は、言葉を探した。
見つからなかった。
怒りが、胸の底から込み上げた。
だが、次の瞬間、怒りは、行き場を失った。
代わりに、何かが、膝から崩れた。
森田は、その場に、膝をついた。
路地のアスファルトが、ひんやりと膝に当たった。
「私は」
声が、震えた。
「ただ、頭を、取り戻したかっただけなのに」
男は、何も言わなかった。
森田は、地面に手をついた。
肩が、小刻みに震えていた。
夜風が、鼻の中を、静かに抜けていく。
眉のない顔で、森田は、地面を見つめていた。
◇
長い、沈黙があった。
黒い服の男は、しばらく、立ち尽くしていた。
やがて、一歩、近づいた。
「あの」
森田は、顔を上げなかった。
「少し、お待ちください」
男は、腰の袋から、黒い球を、もう一つ取り出した。
「本来は、一人につき、一発の予定なのですが」
男は、球をつまんだ。
「この状態でお帰りいただくのは、さすがに、私としても」
男は、言葉を濁した。
「頭のほうは、確実に仕上げます。お立ちいただけますか」
森田は、ゆっくり、立ち上がった。
涙を拭いた。
そして、背を向けた。
背筋を伸ばした。
顎を引いた。
磨き上げた頭を、静かに差し出した。
大会の夜と同じ姿勢だった。
ただ、眉毛は、なかった。
「お願いします」
「かしこまりました」
男は、三歩下がった。
ぺち。
頭頂部に、冷たい感触が走った。
「次、いきます」
ぺち。
後頭部だった。
ぺち。
左の耳の上。
ぺち。
右の耳の上。
森田は、動かなかった。
一発ごとに、頭の奥で、何かが静かに閉じていく気がした。
それは、診察室の机の上の紙でも、料金表でも、画面の数字でも、できなかったことだった。
「以上です」
男は、深く頭を下げた。
「ご協力、感謝いたします」
森田は、振り返らなかった。
森田は、足を止めた。
「一つ、聞いてもよろしいか」
「お答えできる範囲であれば」
「これは、永久か」
男は、少し考えた。
「現状では、再生できません」
「再生剤でも」
「効きません」
「再構築治療でも」
「効きません」
森田は、うなずいた。
「それなら、いい」
「ありがとうございました」
それだけ言って、路地を出た。
足元には、黒い殻が、いくつも散らばっていた。
◇
夜、森田は自宅の洗面所の鏡の前に立った。
明かりをつける。
つるりとした頭が、そこにあった。
いつもと同じように、光っている。
だが、違った。
耳の上に、影がなかった。
夕方なのに、影が、ひとつも、なかった。
森田は、手帳を取り出した。
『影、零点』
書いて、手帳を閉じた。
森田は、油性ペンで、眉を描いてみた。
左右の高さが、揃わなかった。
洗って、落とした。
眉は、思っていたより、顔の印象を決めていた。
鏡の中の顔は、のっぺりしていた。
眉毛がない。
代わりに、額の下に、ただ肌色が広がっていた。
森田は、洗面台に手をついて、息を吸った。
鼻の奥に、何かが入った。
埃だった。
森田は、くしゃみをした。
大きなくしゃみだった。
涙が出た。
額の汗が、まぶたを越えて、目に入った。
「しみる」
森田は、洗面所で一人、目をこすった。
四十年、守ってきた頭は、もう、二度と、元に戻らない。
それは、森田が望んだ通りだった。
ただ、望んでいなかったものまで、一緒についてきた。
端末を開くと、募集ページの数字は、百六十万円のままだった。
ボタンは、まだ、そこにあった。
森田は、それを押さずに、端末を伏せた。
◇
遠い未来。
毛根を取り戻した人類の陰で、一人の男が、毛根を失った。
眉毛のない顔と、鼻毛のない鼻。
それが、まだ誰も気づいていない、新しい需要のはじまりだった。
森田繁 58歳 新たな戦いが今始まった。
◇
森田繁です。
私の話は、ひとまずここまでだそうです。
四十年以上守り続けてきた頭の輝き。
ようやく、取り戻すことができました。
ただ……少々、失ったものもございます。
ところで、下野田さんのお話が最終回を迎えました。
あの方も、鼻毛で大変なご苦労をされているとか。
私としても、他人事ではございません。
毛とは、実に厄介なものです。
そして、『妄想の歌姫を紹介しろと迫られても困る』の連載が始まりました。
歌姫さんには、眉毛の悩みなどないのでしょうか。
私には、切実な問題なのですが……。
森田 繁(58歳)
◇
『妄想の歌姫を紹介しろと迫られても困る』
https://ncode.syosetu.com/n3320mv/




