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朝六時。頭を剃り上げる森田の件 (フサフサ被害者編)  作者: kawauso2017


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3/3

第3話 当てろやー

 朝六時。


 森田繁は、洗面所の鏡の前に立っていた。


 右手に剃刀。


 左手に、温めたタオル。


 夜通し座っていた体は、重かった。


 タオルを頭に当てる。


 十秒。


 外す。


 泡を塗る。


 額から、後ろへ。


 じょり。


 剃刀の音だけは、昨日と同じだった。


 耳の上の影は、点数にして五点だった。


 手帳に書き込む。


 『五点』


 端末の画面には、まだ、あのボタンが表示されている。


 『募集を取り下げる』


 押していない。


 残り十八日。


 百六十万円。


 数字は、動かない。


 森田は、端末を伏せて、頭を磨いた。


     ◇


 その日の森田は、あてもなく街を歩いた。


 午前は、川沿いを。


 昼は、商店街を。


 理髪店の前で、足が止まった。


 窓の向こうでは、客の髪が、一束ずつ、落ちていた。


 かつて、森田は理髪店に縁がなかった。


 行く理由が、なかったからだ。


 店主が、窓越しに森田の頭を見て、小さく会釈をした。


 森田も、会釈を返した。


 同業者へ向けるような、敬意のこもった会釈だった。


 森田は、また歩き出した。


 午後になって、日が傾いた。


 夏の夕方は、長い。


 暑さが、じっとりと、肌に残る。


 森田は、知らない道へ入った。


 いつもの帰り道ではない。


 古い住宅と、閉まったままの店が並ぶ、静かな通りだった。


     ◇


 シャッターの下りた酒屋の脇に、掲示板があった。


 錆びた金属の枠に、色あせた紙が数枚、貼られている。


 盆踊りの案内。


 迷い猫の写真。


 町内清掃のお知らせ。


 その隅に。


 一枚だけ、新しい紙が貼られていた。


 白い紙。


 黒い文字。


 飾り気は、何もない。


 森田は、足を止めた。


 『毛根破壊玉 被験者募集』


 それだけだった。


 連絡先も、日付も、名前もなかった。


 森田は、もう一度読んだ。


 毛根。


 破壊。


 玉。


 何なのかは、わからない。


 誰が貼ったのかも、わからない。


 だが、森田の目は、二つ目の言葉から動かなかった。


 破壊。


 診察室で聞いた言葉が、頭の中で鳴った。


 再構築されない限り、永久。


 森田は、紙に顔を近づけた。


 永久脱毛は、毛根を焼く。


 焼かれた毛根は、薬で組み直される。


 では、破壊は。


 破壊された毛根は、組み直せるのか。


 森田は、紙を見つめた。


 「永久、ではなく」


 小さく、声に出した。


 「破壊」


 森田は、頭に手をやった。


 磨き上げた頭が、夕日を受けて、橙色に光っていた。


 四十年守ってきたものを、二度と奪われないために。


 奪われる余地を、根こそぎ、壊す。


 そう考えた瞬間、森田の背中を、冷たいものが通り抜けた。


 恐怖ではなかった。


 納得だった。


     ◇


 「被験者です」


 森田は、掲示板に向かって言った。


 誰も出てこない。


 風が、迷い猫の紙を揺らした。


 「被験者です。森田繁、五十八歳です」


 返事はなかった。


 森田は、辺りを見回した。


 人通りはなかった。


 酒屋の裏手に、細い路地が伸びている。


 路地の奥は、暗かった。


 日が沈んでいく。


 空の色が、橙から紫へ、紫から紺へ変わった。


 街灯が、ぽつりと一つ灯る。


 森田は、動かなかった。


 蚊が、首のまわりを飛んだ。


 首を叩いた。


 頭には、蚊は寄りつかなかった。


 蚊も、光る頭は避けるらしい。


 十分が過ぎた。


 二十分が過ぎた。


 三十分が過ぎた。


 森田は、決めた。


 待っていても、来ないのかもしれない。


 それなら、こちらから、名乗り出るしかない。


 森田は、路地の入口に立った。


 そして、路地の奥へ背を向けた。


 背筋を伸ばす。


 顎を引く。


 頭を、少しだけ前へ傾ける。


 磨き上げた頭頂部が、街灯の光を受けて、まっすぐに光った。


 大会で、審査員の前に立った姿勢と、同じだった。


 森田は、息を吸った。


 そして、叫んだ。


 「頭に当てろやー!」


 声は、路地の奥へ吸い込まれていった。


 静かだった。


 猫が、どこかで鳴いた。


 森田は、頭を差し出したまま、待った。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


 誰もいないのだろうか。


 やはり、ただのいたずらだったのか。


 森田が、そう思いかけたとき。


 背後で、小さな声がした。


 「目標確認」


 森田は、思わず、振り返った。


 「え、もう?」


 路地の奥、十二メートルほど先に、黒い服の男が立っていた。


 男の指には、小さな黒い球がつままれていた。


 男は、すでに腕を振っていた。


 球は、小さく弧を描いた。


 ぺち。


 森田の顔の真ん中に、当たった。


 鼻の頭だった。


 痛みはなかった。


 ただ、冷たい。


 球は砕けて、足元に小さな黒い殻が落ちた。


     ◇


 静寂が、路地を満たした。


 森田は、鼻の頭に手をやった。


 何も、ない。


 黒い服の男は、投げた姿勢のまま、固まっていた。


 やがて、男は、ゆっくり腕を下ろした。


 「あの」


 男は、小声で言った。


 「振り向かれると、困るのですが」


 「頭に当てろ、と言いました」


 「はい。ですので、背を向けていただいていた、のですが」


 「声が聞こえたので、振り返りました」


 「目標確認の声は、規則でして」


 森田は、目をしばたいた。


 まぶたの上が、妙に軽かった。


 風が、顔に当たる。


 風が、鼻の穴を、そのまま通り抜けた。


 森田は、その感覚に、覚えがなかった。


 四十年、鼻の中には、常に何かがあった。


 それが、今は、ない。


 「ひょっとして」


 森田は、洗面所の鏡を思い出して、携帯端末の画面を鏡にした。


 額の下に、眉毛がなかった。


 つるりとした肌が、そこにあった。


 鼻の下に指を入れた。


 鼻毛が、一本も、なかった。


 森田は、数秒間、動かなかった。


 それから、顔を上げた。


 「私は、頭と言った。顔とは、言っていない」


 「はい。申し訳ありません」


 「眉毛は、頼んでいない」


 「はい」


 「鼻毛も、頼んでいない」


 「はい」


 「四十年、守ってきたのは、頭だ。眉毛は、守っていない」


 「それは、そうなのですが、眉毛も、結果的には」


 「結果的に、とは、何だ」


 森田の声が、路地に響いた。


 「私は、頭が欲しかったのだ。顔ではない。顔は、私の主張ではない。顔は、毎朝、洗って、拭いて、そこにあるだけのものだ」


 「はい」


 「それを、なぜ」


 森田は、言葉を探した。


 見つからなかった。


 怒りが、胸の底から込み上げた。


 だが、次の瞬間、怒りは、行き場を失った。


 代わりに、何かが、膝から崩れた。


 森田は、その場に、膝をついた。


 路地のアスファルトが、ひんやりと膝に当たった。


 「私は」


 声が、震えた。


 「ただ、頭を、取り戻したかっただけなのに」


 男は、何も言わなかった。


 森田は、地面に手をついた。


 肩が、小刻みに震えていた。


 夜風が、鼻の中を、静かに抜けていく。


 眉のない顔で、森田は、地面を見つめていた。


     ◇


 長い、沈黙があった。


 黒い服の男は、しばらく、立ち尽くしていた。


 やがて、一歩、近づいた。


 「あの」


 森田は、顔を上げなかった。


 「少し、お待ちください」


 男は、腰の袋から、黒い球を、もう一つ取り出した。


 「本来は、一人につき、一発の予定なのですが」


 男は、球をつまんだ。


 「この状態でお帰りいただくのは、さすがに、私としても」


 男は、言葉を濁した。


 「頭のほうは、確実に仕上げます。お立ちいただけますか」


 森田は、ゆっくり、立ち上がった。


 涙を拭いた。


 そして、背を向けた。


 背筋を伸ばした。


 顎を引いた。


 磨き上げた頭を、静かに差し出した。


 大会の夜と同じ姿勢だった。


 ただ、眉毛は、なかった。


 「お願いします」


 「かしこまりました」


 男は、三歩下がった。


 ぺち。


 頭頂部に、冷たい感触が走った。


 「次、いきます」


 ぺち。


 後頭部だった。


 ぺち。


 左の耳の上。


 ぺち。


 右の耳の上。


 森田は、動かなかった。


 一発ごとに、頭の奥で、何かが静かに閉じていく気がした。


 それは、診察室の机の上の紙でも、料金表でも、画面の数字でも、できなかったことだった。


 「以上です」


 男は、深く頭を下げた。


 「ご協力、感謝いたします」


 森田は、振り返らなかった。


 森田は、足を止めた。


 「一つ、聞いてもよろしいか」


 「お答えできる範囲であれば」


 「これは、永久か」


 男は、少し考えた。


 「現状では、再生できません」


 「再生剤でも」


 「効きません」


 「再構築治療でも」


 「効きません」


 森田は、うなずいた。


 「それなら、いい」


 「ありがとうございました」


 それだけ言って、路地を出た。


 足元には、黒い殻が、いくつも散らばっていた。


     ◇


 夜、森田は自宅の洗面所の鏡の前に立った。


 明かりをつける。


 つるりとした頭が、そこにあった。


 いつもと同じように、光っている。


 だが、違った。


 耳の上に、影がなかった。


 夕方なのに、影が、ひとつも、なかった。


 森田は、手帳を取り出した。


 『影、零点』


 書いて、手帳を閉じた。


 森田は、油性ペンで、眉を描いてみた。


 左右の高さが、揃わなかった。


 洗って、落とした。


 眉は、思っていたより、顔の印象を決めていた。


 鏡の中の顔は、のっぺりしていた。


 眉毛がない。


 代わりに、額の下に、ただ肌色が広がっていた。


 森田は、洗面台に手をついて、息を吸った。


 鼻の奥に、何かが入った。


 埃だった。


 森田は、くしゃみをした。


 大きなくしゃみだった。


 涙が出た。


 額の汗が、まぶたを越えて、目に入った。


 「しみる」


 森田は、洗面所で一人、目をこすった。


 四十年、守ってきた頭は、もう、二度と、元に戻らない。


 それは、森田が望んだ通りだった。


 ただ、望んでいなかったものまで、一緒についてきた。


 端末を開くと、募集ページの数字は、百六十万円のままだった。


 ボタンは、まだ、そこにあった。


 森田は、それを押さずに、端末を伏せた。


     ◇


 遠い未来。


 毛根を取り戻した人類の陰で、一人の男が、毛根を失った。


 眉毛のない顔と、鼻毛のない鼻。


 それが、まだ誰も気づいていない、新しい需要のはじまりだった。


森田繁 58歳 新たな戦いが今始まった。




◇


森田繁です。


私の話は、ひとまずここまでだそうです。


四十年以上守り続けてきた頭の輝き。


ようやく、取り戻すことができました。


ただ……少々、失ったものもございます。


ところで、下野田さんのお話が最終回を迎えました。


あの方も、鼻毛で大変なご苦労をされているとか。


私としても、他人事ではございません。


毛とは、実に厄介なものです。


そして、『妄想の歌姫を紹介しろと迫られても困る』の連載が始まりました。


歌姫さんには、眉毛の悩みなどないのでしょうか。


私には、切実な問題なのですが……。


森田 繁(58歳)


◇


『妄想の歌姫を紹介しろと迫られても困る』

https://ncode.syosetu.com/n3320mv/

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