第1話 朝六時、剃る
朝六時。
森田繁は、洗面所の鏡の前に立っていた。
右手に剃刀。
左手に、温めたタオル。
棚には、泡とオイルと仕上げのクロスが、使う順に並んでいる。
森田はタオルを頭に当てた。
十秒。
外す。
泡を塗る。
額から、後ろへ。
刃を一度で通す。
じょり。
懐かしい音がした。
この音を聞かない朝は、二十歳から三十代までの間、一日もなかった。
そして三十代の半ば、森田は大金を貯めて永久脱毛を受けた。
剃る朝は、そこで終わったはずだった。
それから二十年以上、森田の頭は、剃刀を必要としなかった。
それでも毎朝、鏡の前に立って、磨いた。
オイルを塗り、クロスで拭き、角度を変えて光を確かめる。
それが森田の朝だった。
磨きには、五つの工程がある。
温める。
剃る。
拭く。
塗る。
磨く。
森田は、これを儀式と呼んでいた。
頭は、森田にとって聖域だった。
四十年、一度も雲に覆われたことのない空である。
その空を、毎朝、自分の手で晴らす。
それが森田の信仰だった。
今は、剃っている。
森田は刃を止め、鏡を見た。
つるりとした頭が、そこにあった。
洗面所の照明を、きれいに跳ね返している。
ただし。
耳の上に、うっすらと黒い影が残っていた。
毛根が、また働いているのだ。
「……戻るな」
森田は小声で言った。
影は、何も答えなかった。
森田は、手帳の隅に、毎朝の影を点数で記録している。
十点満点で、今朝は三点。
昨日は、二点だった。
この点数が十になる日は、来てはならない。
森田は、そう決めていた。
◇
事件は、三週間あまり前の未明に起きた。
帰り道、背後から近づいた男に、頭へスプレーを噴霧された。
しゅっ、と小さな音がした。
振り返ると、誰もいなかった。
冷たい霧が、頭に残っていた。
森田は、虫除けか何かだと思った。
帰宅して、シャワーを浴びた。
湯の流れが、いつもと違った。
頭皮に、何かが触れる。
流れる湯に、何かが絡む。
森田は、風呂場の鏡を見るのを、少しだけ先延ばしにした。
三時間後、森田の頭は、四十センチの黒髪に覆われていた。
鏡に映ったのは、知らないおじさんだった。
しかも黒々としていて、白髪が一本もない。
若返ったようで、気持ち悪かった。
森田は体調を崩して入院した。
病院の前で、記者に囲まれた。
「費用は犯人に請求します」
そう言ったのは、本心だった。
だが二日後、弁護士から連絡があった。
犯人は逮捕されたが、支払える資力がない。
裁判には、年単位の時間がかかる。
その間も、森田の頭は、黒いままだった。
医者は説明した。
現在の再生技術は、破壊された毛包そのものを再構築できる。
以前の永久脱毛は、すべて元に戻っている。
つまり、あの大金は、たった三時間で無かったことになった。
貯めるのに、八年かかった。
毎月、食費を削った。
同じ靴を、十年履いた。
その八年を、スプレーが上書きした。
森田は、診察室の椅子の上で、しばらく動けなかった。
もう一度、永久脱毛を受けるしかない。
費用は、頭皮全体で三百八十万円。
貯金は、いま、百二十万円。
二百六十万円、足りない。
しかも、その百二十万円は、毎月、減っていく。
森田の収入は、頭から出ていたからである。
大会の賞金。
イベントへの出演料。
スポンサー契約。
頭磨きクロスの監修料。
髪が生えた日から、そのすべてが止まった。
契約書には、一文があった。
『出演者は、契約期間中、頭部の輝きを維持すること』
森田は、違約金を払った。
入院費と弁護士費用も、貯金から出ていった。
頭部の輝きとともに、仕事も一緒に失ったのだ。
◇
しかし、森田には、頼れるものがあった。
SNSである。
森田の頭は、世間で知られていた。
頭頂部の美しさを競う全国大会で、三年連続優勝。
その写真は、今でも大会の公式ページに掲載されている。
スポットライトの下で腕を組み、頭を輝かせる男。光りすぎて顔が若干写っていないが。
それが森田だった。
三連覇を決めた夜、審査員の一人は、こう言った。
「光の質が、他の人とは違う。神々しい。」
森田は、その言葉を今でも手帳に書き写している。
手帳は、鞄の内ポケットにある。
最近は、読み返す回数が増えた。
フォロワーには、女性が多かった。
事件の翌朝、森田は病室から一枚の写真を投稿した。
『必ず取り戻します。俺の頭を。そして輝きを・・・』
一時間で、二十万件のいいねが付いた。
コメント欄の一番上には、こう書かれていた。
『あなたの輝きが戻る日を待っています』
森田は、画面を見つめた。
待っている人がいる。
それなら、応えなければならない。
退院後、森田は自分の手で髪を剃り落とした。
黒髪が、洗面所の床に落ちた。
最後の一房を落としたとき、森田は少しだけ泣いた。
それは悲しみではなかった。
帰ってきた、という気持ちだった。
それから動画を撮った。
つるつるの頭で、三パターンのポーズをとった。
一つ目は、正面。
二つ目は、斜め四十五度。
三つ目は、後ろ向きで、肩越しに振り返る。
森田は、それぞれに名前を付けていた。
朝、昼、夜である。
朝は、控えめな光。
昼は、最も強い光。
夜は、照明を落として、頭だけを浮かび上がらせる。
撮影には、三時間かかった。
三時間といえば、髪が約四十センチ伸びる時間である。
撮影が終わってから、森田はその偶然に気づき、しばらく黙った。
最後に、画面へ向かって頭を下げた。
『頭皮永久脱毛へのご支援を、お願いします』
クラウドファンディングの募集ページが、画面に表示された。
目標金額、二百六十万円。
手持ちの百二十万円と合わせて、永久脱毛の費用に充てる。
募集期間、六十日。
返礼品は、森田の剃髪写真集と、直筆サイン入りの剃刀の刃だった。
◇
初日の夜、森田は何度も画面を更新した。
一時間で、八十万円を超えた。
翌朝には、百二十万円。
達成率、四十六パーセント。
「早いな」
森田は洗面所で、泡を塗りながら言った。
コメントが、次々と並んだ。
『お待ちしていました』
『髪のない森田さんが、本当の森田さんです』
『こんな事件は許せません』
森田は一つずつ読んだ。
読みながら、頭を磨いた。
クロスを動かすたびに、光が滑った。
三日目には、百六十万円に届いた。
森田は、届いたコメントの一件ずつに、返信を書いた。
『ありがとうございます。頭は必ず取り戻します』
同じ文面を、百三十一回書いた。
手首が痛くなった。
だが、頭に戻りかけている影に比べれば、小さな痛みだった。
このまま行けば、一週間で達成するのではないか。
森田は、そう考えた。
あの三時間で失ったものを、一週間で取り戻せる。
世の中は、まだ捨てたものではない。
三日目の夜、森田はノンアルコールのビールで乾杯した。
グラスに、自分の頭が映っていた。
乾杯の相手は、頭だった。
森田は、達成したあとの朝を想像した。
剃らない朝。
タオルも、泡も、刃も、要らない。
ただ、磨くだけの朝。
その朝のために、六十日だけ、耐えればいい。
その夜は、久しぶりによく眠れた。
◇
数字が動かなくなったのは、四日目だった。
百六十万円。
達成率、六十二パーセント。
朝、確認した。
夜、確認した。
翌朝、確認した。
変わらない。
森田は、画面を更新した。
更新した。
もう一度、更新した。
百六十万円だった。
コメント欄は、静かになっていた。
最新のコメントは、二日前のものだった。
『ニュースで見ました。応援しています』
それが最後だった。
一週間が過ぎた。
二週間が過ぎた。
数字は、百六十万円のまま動かない。
森田は理由を考えた。
ニュースを見ると、すぐにわかった。
世間は、もう次の話題に移っていた。
有名人の結婚。
新型の電気自動車。
動物園で生まれた、双子のパンダ。フサフサだった。
森田の事件は、画面の隅の小さな見出しに、いつの間にか押しやられていた。
森田は、ライブ配信を試した。
タイトルは『朝の磨き、公開します』。
視聴者は、三人だった。
一人は、配信の途中で『音量が大きい』と書き込んで去った。
もう一人は、無言のまま最後までいて、終わりに『お疲れさまでした』と書いた。
森田は、その一言に、二十分ほど救われた。
返礼品も増やした。
剃髪写真集に、未使用の泡を付けた。
サイン入りのクロスも付けた。
支援は、一件も増えなかった。
先週、駅で声をかけられた。
「森田さんですよね。応援してます」
「ありがとうございます」
「SNSも見てます」
「ありがとうございます」
「頑張ってください」
相手は笑顔で去っていった。
応援は、支援とは違うらしい。
森田は、駅のホームで、そう学んだ。
夜、森田は通帳を開いた。
残高、百十八万六千円。
三週間で、一万四千円減った。
出演の依頼は、一件もない。
森田は通帳を閉じ、引き出しに戻した。
引き出しの中には、大会のトロフィーが三つ並んでいる。
トロフィーは、どれも頭の形をしていた。
森田は、一番右のトロフィーを、そっと撫でた。
冷たかった。
減るものは、一つだけだった。
残り日数。
『あと四十一日』
森田は、洗面所の鏡の前に立った。
剃刀を持ち、タオルを当てる。
十秒。
泡。
額から、後ろへ。
じょり。
今朝も、耳の上には黒い影が戻っていた。
影は、昨日より少しだけ、濃かった。
森田は剃刀を置き、画面を開いた。
百六十万円。
あと百万円。
足りないのは、それだけだった。
それだけが、どうしても、足りなかった。
森田は、他の手も考えた。
貯金は、すでに足してある。
銀行に相談すると、担当者は目を伏せた。
「担保は、お持ちですか」
「頭です」
「頭は、担保になりません」
友人にも当たった。
同じ大会に出ていた仲間は、全員が、ライバルだった。
「金の話なら、断る」
そう言われて、電話が切れた。
世間は、案外、冷たかった。
森田は鏡の中の頭を見た。
磨き上げられた頭は、いつもと同じ光り方をしていた。
だが、その光の奥に、確かに黒い影があった。
影は、日ごとに深くなる。
四十年守った頭は、いま、自分のものではなかった。
「私の頭は、まだ戻ってこない」
森田は、静かに言った。
鏡の中の男は、何も答えなかった。
朝六時四十分。
森田は、クロスを手に取り、もう一度頭を磨いた。
もう一つ森田には事件後変わったことがあった。
異様に腹が減る。
そう、髪の成長が早いせいで・・・・・




