託された侍女は、暁の貴公子に愛でられる
反乱軍に包囲された皇城から、幼い皇女を託されて脱出した侍女シャルロッテ。
逃避行の果てに彼女を救ったのは、皇后クラウディアの弟であり、領主でもあるイザークだった。
彼の庇護のもとで新たな生活を始めたシャルロッテは、誠実で気高い彼に次第に惹かれていく。イザークもまた、ひたむきな彼女に心を寄せるが、主従という立場と身分の差が二人の想いを阻んでいた。
やがてイザークに持ち上がる貴族令嬢との婚約話。
そして、ヘートヴィヒを守ろうとしたシャルロッテが襲撃者の刃に倒れたとき、彼は初めて彼女を失う恐怖を知る。
すれ違いの先に二人が選ぶ未来とは――
夜明けの光の中、運命に導かれた恋が花開く。
「ロッテ、この子を連れて逃げなさい」
皇后クラウディアは、腕に抱いていた幼子をシャルロッテへ差し出した。
「ヘートヴィヒ殿下を、ですか?」
「ええ。あなたに託します」
城壁の向こうから、怒号と剣戟の音が響いていた。反乱軍が皇城を包囲し、戦える者はすでに城を出ている。
「陛下もご一緒に」
「私はここに残ります。皇后として、この城を捨てるわけにはいきません」
「ですが」
「お願い、ロッテ。この子だけは生きてほしいの」
クラウディアの声が、かすかに揺れた。
夫のゲオルクも、息子のハインリヒも、ほかの子どもたちも、すでに戦乱の中で命を落としていた。残された幼い娘だけは、どうしても生かしたいようだ。
クラウディアは、一枚の令旨を差しだした。
「城門に護衛を待たせています。彼らと一緒に私の弟、イザークの領地へ向かいなさい。令旨を見せれば、きっと力になってくれるわ」
「でしたら、なおさら陛下も」
「大丈夫です」
その言葉が本当ではないことくらい、シャルロッテにもわかっていた。それでも、皇后の決意を覆すことはできなかった。
シャルロッテはヘートヴィヒを抱きしめ、深く頭を下げた。
「かならず殿下をお守りします」
「ええ。あなたも、かならず生きて」
「陛下も。かならず生き延びてくださいませ!
「ええ、かならず生き延びるわ」
クラウディアは微笑み、シャルロッテの頬にそっと触れた。
それが最後の言葉だった。
城門では、数人の騎士が待っていた。シャルロッテが令旨を示すと、隊長は深く頭を下げた。
「我々が殿下とあなたを、イザーク様の領地までお連れします」
シャルロッテはヘートヴィヒを抱き直し、騎士たちとともに城を後にした。
二日二晩、彼らは光を頼りに道を進んだ。昼はできるだけ距離を稼ぎ、夜は人目につかない場所で休む。騎士たちは交代で周囲を警戒し、シャルロッテはヘートヴィヒが泣けばあやし、空腹を訴えれば持っていた食べ物を与えた。
まともに眠ることもできず、衣服は汚れ、裾も破れていった。それでも護衛たちは彼女たちを守り、ようやくイザークの領地まであと少しというところまでたどり着いた。
三日目の朝。森を抜けようとした一行の前に、複数の男たちが現れた。
「止まれ!」
隊長の騎士が叫び、剣を抜いた。
「逃亡者か。女と子どもまで連れているとはな」
「我々に構うな。通してもらおう」
隊長が前へ出ると、男の一人がシャルロッテに目を留めた。
「ずいぶんと大勢の護衛を連れているじゃないか。何か金目のものでも持っているのか?」
「いえ。持っておりません」
シャルロッテはヘートヴィヒの泣き声が聞こえないように、ぎゅっと抱きしめた。
男たちは顔を見合わせ、やがて剣を抜いた。
「なら、調べさせてもらおうじゃないか」
隊長の騎士が剣を抜き、シャルロッテを背後へかばった。
次の瞬間、男たちが一斉に襲いかかった。
「シャルロッテ殿、先へ!」
護衛の一人が叫んだ。
「ですが」
「お守りください!」
剣戟が響いた。シャルロッテは迷いを振りきり、森の奥へ走った。腕の中のヘートヴィヒを揺らさないよう、足元を確かめながら必死に進む。
背後では剣がぶつかり合う音と騎士たちの声が聞こえていた。やがて、その声も少しずつ遠ざかっていく。
振り返りたかった。けれど、クラウディアの言葉が胸によみがえる。
あなたも、必ず生きて。
シャルロッテは足を止めなかった。
「いたぞ!」
背後から声が響いた。
振り返ると、数人の男が追ってきていた。護衛を振りきったのだ。
シャルロッテは走り続けたが、疲労で足がもつれ、とうとう地面に膝をついた。ヘートヴィヒを落とさないよう、とっさに身体を丸めて抱きこむ。
「見つけたぞ。逃げられると思うな」
男の一人が剣を抜いた。
「お願い、こないで!」
シャルロッテは幼い姫をかばい、身を伏せた。
その瞬間、鋭い金属音が森に響いた。
振り下ろされた剣が、別の剣によって弾かれる。
「その者から離れろ」
低く、よく通る声だった。
シャルロッテの目の前に、一人の男が立っていた。
朝の光を受けた淡い金髪と、灰青色の瞳。長身で、濃紺の衣服を纏った姿は端正でありながら華美ではない。その瞳の奥に、わずかに金色が混じっている。
夜明けを思わせる人だった。
「な、何者だ」
「この領地で剣を抜くとは、ずいぶんと大胆だな」
男は剣を構えたまま、静かに告げた。
「ここから先は、私の領地だ」
追っ手たちの顔から血の気が引いた。
「まさか、イザーク様」
シャルロッテは息を呑んだ。
皇后クラウディアの弟、イザーク。
皇城で何度か姿を見かけたことがある。けれど、こうして間近でまみえるのははじめてだった。
イザークはシャルロッテの前から動かず、追っ手との間に立っていた。
「剣を捨てろ。さもなくば、こちらも容赦はしない」
男たちは一瞬ためらったが、背後からイザークの騎士たちが駆けつけると、抵抗を諦めた。
ほどなくして、森は静けさを取り戻した。
イザークは剣を収め、シャルロッテへ向き直った。
「怪我はないか」
「はい」
返事をしようとした途端、声がかすれた。
「殿下は?」
「こちらに」
シャルロッテは腕の中のヘートヴィヒを見せた。イザークは幼い姪の顔を確かめ、安堵したように息を吐いた。
「無事なのだな」
「はい。皇后さまから」
その先を口にしようとして、シャルロッテは言葉を失った。
皇后は、今どうしているのだろう。
城はどうなったのだろう。
護衛たちは無事なのだろうか。
考えはじめれば、張り詰めていた心が崩れてしまいそうだった。
「姉は、どうした」
イザークの問いに、シャルロッテはうつむいた。
「私が城を出たときには、もう火が上がっていました」
「そうか」
それ以上、イザークは問い詰めなかった。
シャルロッテは唇を噛み、涙をこらえようとした。
「私、殿下をお守りしなければ」
大地を踏みしめながら呟いた言葉とは裏腹に、腕に力が入らない。視界がかすみ、立ち上がろうとしても足が震えた。
「おい、顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。まだ、歩けますから」
一歩踏み出した瞬間、身体が大きく傾いた。
ヘートヴィヒを落としてはいけない。その一心で抱きしめたが、倒れるのを止めることはできなかった。
「危ない!」
イザークが素早く腕を伸ばし、シャルロッテの身体を受け止めた。
気づけば、彼の腕の中にいた。
「しっかりしろ。もう大丈夫だ」
耳元に落ち着いた声が響く。
「殿下は」
「無事だ。私が責任を持って守る」
「でも、皇后さまに」
「わかっている。だから今は休め」
イザークの腕は、倒れかけた彼女をしっかりと支えていた。シャルロッテははじめて、もう走らなくてもいいのだと思った。
ヘートヴィヒも無事だった。
自分の役目はここまでた。
「ありがとうございます、イザーク様」
ようやくそれだけ告げると、張り詰めていたものが一気にほどけていった。
淡い金髪が、朝の光を受けて揺れている。
その姿を見つめながら、シャルロッテはそっと目を閉じた。
最後に感じたのは、彼の腕の温もりと、もうなにも心配しなくていいのだという安堵だった。





