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■第7話:子供の背中と、広くなった家

子供の成長は、思い返せば一瞬の出来事だったように錯覚するが、渦中にある時はひたすらに泥まみれの持久戦だった。

小学校の運動会での場所取り、終わりの見えない習い事の送迎、そして年々家計を圧迫していく学習塾の費用。健太と佐知子は、自分たちの趣味や娯楽を少しずつ削り、その時間と金銭のすべてを大樹という「家族のプロジェクト」に注ぎ込んだ。

中学生になった大樹は、期待を裏切ることなく、どこにでもあるような反抗期を迎えた。

「うるせえな、わかってるよ」

夕食の席で佐知子の小言に舌打ちをし、自室のドアを乱暴に閉める。壁を殴って穴を開けたり、警察の世話になるような不良にはならなかったが、親との会話は必要最低限の業務連絡のみになった。

健太が「お前、お母さんに向かってその態度はなんだ」と形ばかりの説教をしても、大樹は面倒くさそうに視線を逸らすだけだった。そんな息子を持て余し、夫婦の会話といえば、大樹の成績や進路の心配、そして教育費の工面の話題ばかりになっていた。

しかし、そんな嵐のような日々も、やがて静かに終わりを告げる。

2039年、春。

大学を無事に卒業し、都内のIT企業に就職が決まった大樹は、会社の近くで一人暮らしをするために実家を出ることになった。

引っ越し当日。業者のトラックに段ボールが積み込まれ、ベッドと学習机だけが残された四畳半の子供部屋は、ひどく殺風景で、少しだけカビと埃の匂いがした。

「じゃ、行くわ。たまには連絡するから」

玄関先で、大樹は少し照れくさそうに片手を上げた。父親の健太よりも少しだけ背が高くなったその背中を、佐知子はドラマのように泣き崩れることもなく「忘れ物ないわね? ちゃんと自炊するのよ」と、いつもの小言交じりのトーンで見送った。

ドアが閉まり、鍵がカチャリと音を立てる。

その瞬間、築三十年近くになり、あちこちにガタが来ている2LDKのマンションに、急に奇妙な静寂が降りてきた。

「……行っちゃったな」

健太がぽつりと言うと、佐知子は「そうね。これで少しは水道代と食費が浮くわ」とそっけなく返し、夕飯の準備にとりかかった。しかし、まな板を叩く包丁の音は、いつもより少しだけ間延びして響いていた。

それから数年後、大樹は職場で知り合ったという同い年の女性を実家に連れてきた。

都内のホテルで行われた、親族と親しい友人だけのささやかな結婚式。親族代表の挨拶で、健太は用意してきた無難なスピーチを、少しだけつっかえながら読み上げた。絶対に泣かないと決めていた佐知子も、花束贈呈の時だけは黙って目元をハンカチで押さえていた。

さらに月日が流れ、健太も佐知子も六十代を迎えた。

ある休日の夕暮れ時。

リビングのソファで、健太は老眼鏡をかけてスマートフォンのニュース記事を読み、佐知子もまた、タブレットで飼い猫の動画をぼんやりと眺めていた。テレビからは、夕方の情報番組の平坦な声が流れている。

「今日の夜、何にする?」

佐知子の問いかけに、健太は画面から顔を上げずに答えた。

「なんでもいいよ。あっさりしたもんがいいな」

「またそれ。一番困るのよね……じゃあ、冷蔵庫の余り物でお蕎麦でも茹でようか」

「ああ、それでいい。助かる」

大樹という緩衝材がなくなり、再び完全に二人きりになった夫婦の会話。

そこには、新婚当時の苛立ちも、子育て中の戦友のような緊張感もない。ただ、長年使い込んで角が丸くなった家具のように、互いの存在が風景の一部として完全に溶け込んでいた。

少しだけ広くなったように感じる古い家の中で、二人の静かで、ひたすらに平凡な老後が始まろうとしていた。

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