■第5話:疑念の夜、沈黙の朝
結婚生活も四年目を迎えた2014年。世間ではスマートフォンとコミュニケーションアプリ「LINE」がすっかり定着し、二人の連絡手段も短いテキストメッセージのやり取りに変わっていた。
健太は三十三歳になり、職場で主任という小さな役職についた。それに伴い、業務量と後輩の育成という厄介な仕事が増え、帰宅時間が深夜に及ぶことが多くなっていた。
佐知子もまた、会社のシステム移行に伴う繁忙期で余裕を失っていた。すれ違いの生活が続き、休日はお互いに泥のように眠るだけ。会話らしい会話は、もう何週間もしていなかった。
そんなある夜。
健太がシャワーを浴びている間、ダイニングテーブルの上に無造作に置かれた彼のスマートフォンが、短い振動音を立てて画面を光らせた。
水を飲もうとして通りかかった佐知子の視界に、ロック画面に浮かび上がったポップアップ通知が偶然飛び込んできた。
『高木(会社):今日はごちそうさまでした! 鈴木さんのおかげですごく助かりました。 また愚痴聞いてくださいね。』
高木というのは、今年健太の部署に配属されたという二十代半ばの女性社員だ。健太から「仕事が遅くて困る」と、何度か愚痴を聞かされたことがあった。
佐知子はスマートフォンの画面が暗くなるまで、そこから動けなかった。心臓が早鐘を打つようなショックはない。ただ、胃の奥に冷たくて重い石が落ちたような、じっとりとした不快感が広がっていた。
十五分後、頭にタオルを乗せた健太がリビングに戻ってきた。
「ねえ」
テレビの音量を少し下げて、佐知子は静かに口を開いた。
「高木さんって、職場の後輩だよね。今日、飲みに行ってたの?」
健太の動きがピタリと止まる。そして、視線を泳がせながらテーブルの上のスマートフォンをスッと手元に引き寄せた。
「……あー、うん。ちょっとプロジェクトの区切りがついたから、チームの何人かで。高木がミスして落ち込んでたから、励ますのも兼ねて」
「ふうん。チームの何人かで、ね」
「なんだよ。通知、見たのかよ。勝手に見るなよな」
健太の口調には、明らかに苛立ちが混じっていた。やましいことは何一つない。ただ、疲れ切って帰ってきた家で、浮気を疑われるような尋問を受けることに腹が立ったのだ。
「見えただけ。別に気にしてないからいいけど」
佐知子は冷たく言い放つと、テレビを消して寝室へと向かった。
「おい、なんだよその言い方」
健太の背中越しの声を無視して、寝室のドアを静かに、しかし確実に閉める。
その夜は、同じベッドに寝ていながら、二人の間には見えない高い壁がそびえ立っていた。
翌朝、沈黙のダイニングテーブル。
いつもなら置かれているはずの目玉焼きもトーストもなく、佐知子は黙々と自分の分のコーヒーだけを淹れて飲んでいた。健太も意地を張り、何も言わずに無造作に鞄を掴んで家を出た。
冷戦状態は三日続いた。
結局、四日目の夜に折れたのは健太だった。駅前のコンビニで、佐知子が好きな少し高めのロールケーキを二つ買って帰ったのだ。
「……悪かったよ、こないだは。誤解させるようなことして」
テーブルに小さなレジ袋を置き、健太がぽつりとこぼす。
佐知子は少しの間黙っていたが、やがて小さくため息をつき、「私も、勝手に見てごめん」と返した。
浮気なんて、する甲斐性も度胸もない男だとは分かっていた。ただ、自分との会話が減っているのに、外で若い女性の愚痴を聞いてあげているという事実が、無性に寂しくて悔しかっただけだ。
ロールケーキのビニールを開けるカサカサとした音だけが響く。
ドラマチックな愛の再確認も、泣き崩れるような謝罪もない。小さな不満と猜疑心を、コンビニのスイーツと不器用な歩み寄りでなんとかやり過ごす。
それが、彼らの「夫婦」というものの維持の仕方だった。




