第8話 ずるい言い方
第8話 ずるい言い方
コーヒーは、もう冷めていた。
さっきまでの会話の余韻が、テーブルの上に残っている。
笑えた。
普通に話せた。
千尋は、やっぱり千尋だった。
それなのに。
その奥にあるものを、見ないふりはできなかった。
香織は、カップに手を伸ばしかけて、やめた。
飲んでも、たぶん味はしない。
「……千尋」
名前を呼ぶ。
千尋は顔を上げた。
「なに?」
変わらない声。
でも、どこかで、何かを待っている顔だった。
香織は、その視線を受け止める。
逃げないと決める。
「私、聞きたいことある」
千尋のまばたきが、少しだけ増える。
「なに?」
「ちゃんと答えてほしい」
少しの沈黙。
それから、
「……うん」
と、千尋はうなずいた。
香織は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私は千尋を親友だと思ってる」
口に出した瞬間、胸が締めつけられる。
「だから、正直に答えて」
もう、ごまかさない。
「千尋は、慎也のことまだ好き?」
時間が止まったみたいだった。
店内のざわめきが、遠くに感じる。
千尋は、すぐには答えなかった。
視線を落とし、カップの縁を見つめたまま動かない。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「……」
何も言わない。
でも、それで十分だった。
「口ごもるってことは、好きなのね」
自分でも、ずるい言い方だと思う。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
「そういう聞き方、ずるい」
千尋が、小さく笑う。
けれど、その笑いは軽くない。
「ずるくても、聞かないとだめだと思った」
香織は目をそらさない。
千尋は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりとこぼす。
「……会うの、楽しみにしてた」
「……うん」
「帰ってきたら、一回くらい、普通に会えるのかなって思ってた」
香織は、何も返せない。
ただ、聞くしかなかった。
「でも、結婚するって聞いたら、無理だった」
静かな声だった。
責める響きはない。
それが、逆に重かった。
香織の胸の奥に、じわっと痛みが広がる。
やっぱり、そうだった。
千尋は、まだ終わっていない。
そして自分は――
その相手と結婚した。
テーブルの上に、沈黙が落ちる。
カップの中のコーヒーは、もう完全に冷めている。
千尋が、少しだけ不安そうにこちらを見る。
次の言葉を待っている。
香織は、その視線を受け止めながら考えていた。
どうすればいいのか。
何が正しいのか。
普通なら、答えは決まっている。
でも、それでは――
この人を失う。
そのとき、香織の中で、何かが動いた。
まだ形にはなっていない。
言葉にもなっていない。
けれど、確かに今までとは違う考え方が浮かび始めていた。
それが何なのか、自分でもまだわからない。
ただ一つ、はっきりしている。
もう、元のままではいられないということ。
香織は、千尋を見た。
千尋も、こちらを見ている。
何かを言わなければいけない。
でも――
その言葉は、まだ出てこなかった。
そのときの香織は、まだ言葉にしていなかった。
けれど、もう引き返せないところまで考え始めていた。




