第7話 再会
第2章 第7話 再会
約束の時間より、少し早く着いた。
香織は店の前で一度立ち止まり、ガラス越しに中を見た。大学時代に何度か来たことのある喫茶店は、あの頃とあまり変わっていなかった。木のテーブルも、柔らかい照明も、少しだけ古い椅子も、そのままだった。
変わっていない、と思った。
それが少しだけ安心で、同時に少しだけ怖かった。
ドアを開けると、軽いベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
店員の声に軽く会釈して、香織は奥の席を選んだ。窓際ではない、少し落ち着いた場所。向かい合って話すにはちょうどいい距離のテーブルだった。
メニューを開く。
文字を目で追っているのに、何も頭に入ってこない。
時計を見る。
まだ五分前。
スマホを見る。
特に新しい通知はない。
また時計を見る。
その繰り返しだった。
落ち着かない、と思う。
こんなふうに誰かを待つのは、いつ以来だろうか。しかも、その相手が千尋だと思うと、余計に胸の奥がざわついた。
ドアのベルが鳴った。
反射的に顔を上げる。
千尋が立っていた。
一瞬で分かった。
少しだけ髪型が変わっている。服装も、大学の頃よりずっと大人っぽい。それでも、千尋だと分かる。
目が合う。
千尋が少しだけ笑った。
「久しぶり」
あまりに自然な声だった。
香織も、同じように返した。
「久しぶり」
立ち上がることも、握手をすることもなく、二人はそのまま向かい合って座った。
その距離感が、二人らしかった。
少しの沈黙のあと、千尋が口を開いた。
「変わんないね」
香織は少しだけ笑った。
「それ、久しぶりに会った人に言う?」
「でもほんとに」
「絶対変わってるよ」
「ううん。そういうとこ」
軽い言い合いのようでいて、どこか懐かしいやり取りだった。
空気が、思っていたよりもずっと自然だった。
香織は少しだけ肩の力を抜いた。
「そっちは? どうだったの、海外」
「長かったよ」
千尋はそう言って、メニューを閉じた。
「最初は全然慣れなくてさ。言葉も仕事も、全部違うし」
「でも、ちゃんとやってたんでしょ?」
「まあね。やらないと帰れなかったし」
少しだけ笑う。
その笑い方も、昔と変わらない。
注文をして、飲み物が運ばれてくるまでの間、二人は途切れ途切れに話した。仕事のこと、住んでいた街のこと、向こうでの生活。どれも大きな話ではないけれど、無理に盛り上げようとしなくても会話は続いた。
それが不思議で、そして当たり前だった。
やっぱり、親友なんだと思う。
そう思ってしまう。
だからこそ、言わなければいけないことがある。
香織は、カップに手を添えたまま言った。
「ちゃんと、言えてなくてごめん」
千尋が顔を上げる。
「何が?」
「結婚のこと」
一瞬だけ、間があった。
ほんのわずかな時間だったのに、それがやけに長く感じた。
千尋は目を逸らさずに、言った。
「知ってたよ」
「……うん」
「おめでとう、って言うタイミング逃しただけ」
その言い方は軽かった。
軽かったけれど、軽くはなかった。
香織には分かる。
千尋は責めていない。
怒ってもいない。
でも、それで全部が終わっているわけでもない。
香織はカップに視線を落とした。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
謝るのは違う気がする。
でも、何も言わないのも違う気がする。
その中途半端さが、自分の立場そのもののように思えた。
千尋が先に話題を変えた。
「今、どんな感じ? 結婚生活」
「普通だよ」
「普通って何」
「普通は普通」
「ずるい答え」
少しだけ笑い合う。
その笑いの中に、ほんの少しだけぎこちなさが混ざる。
それでも会話は続いた。
続いてしまう。
それがまた、少しだけ苦しい。
しばらくして、香織はふと気づいた。
ある話題だけが、避けられている。
慎也のことだ。
名前は出ていない。
自然に会話が流れているのに、その一点だけは触れられていない。
それが不自然で、でも、触れてはいけないような気もしていた。
香織は少し迷ってから、口を開いた。
「……慎也とは、会ってないの?」
千尋の手が、わずかに止まった。
「会ってない」
「そっか」
「うん」
短い返事だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
香織は、もう一歩踏み込んだ。
「会わない方がいいと思ってる?」
千尋は少しだけ視線を外した。
「……うん」
「なんで?」
その問いに、千尋はすぐには答えなかった。
少し考えるようにしてから、困ったように笑った。
「なんでだろうね」
その言い方は、誤魔化しのようでいて、誤魔化しではなかった。
本当は分かっている。
でも、軽く言葉にできるものではない。
そういう沈黙だった。
香織はそれ以上聞かなかった。
聞かなくても、分かってしまったからだ。
千尋はまだ終わっていない。
慎也のことを。
その事実が、静かに胸に落ちてくる。
苦しい、と思った。
でも同時に、納得してしまう自分もいた。
そうでなければ、こんなふうに会うこと自体が成立していない気もした。
テーブルの上で、カップの中のコーヒーが少し冷めている。
誰も、それに手をつけない。
沈黙が落ちる。
さっきまでとは違う沈黙だった。
軽い話題では埋まらない。
どこかで避けていたものが、はっきりと形を持ち始めている。
千尋が、ふと口を開いた。
「ねえ」
その声は、さっきまでと少し違っていた。
香織が顔を上げる。
千尋は、一度だけ目を伏せてから、言った。
「ちゃんと話していい?」
その一言で。
空気が変わった。
もう、戻れないところまで来ている。
香織は、静かに頷いた。




