第6話 帰国
第6話 帰国
その知らせを見つけたのは、夜だった。
香織はソファに座ってスマホを眺めながら、何気なく指を止めた。大学時代の友人が上げた写真だった。数人で集まったらしい食事会の写真に、短いコメントが添えてある。
その中に、見覚えのある名前があった。
「……帰ってきたんだ」
小さく、声が漏れた。
千尋。
画面の中のその名前を見た瞬間、香織の胸の奥がわずかにざわついた。
帰国したのだと分かる。しかも、少し前ではなく、もう日本に生活の足場を戻しているような書き方だった。知らなかった。いや、知らなかったのではなく、知ろうとしていなかったのかもしれない。
香織はスマホを持ったまま、しばらく動かなかった。
うれしい、と思った。
それと同時に、困る、とも思った。
千尋は親友だ。大学時代から、ずっとそうだった。話していて楽で、一緒にいて無理がなくて、何でも言い合えると思っていた。いや、今でも思っている。
だからこそ、気まずかった。
香織は慎也と結婚した。
その事実は、誰に対しても後ろ暗いことではないはずだった。慎也と千尋は、とっくに別れていた。千尋は夢を優先して海外へ行き、慎也はそれを応援した。そのあと、慎也と香織が近づいて、付き合って、結婚した。
順番だけ見れば、おかしなことは何もない。
でも、順番が正しいことと、気持ちがきれいに片づくことは別だった。
千尋のことを思うと、香織の中にはどうしても後ろめたさが残る。
奪ったつもりはない。
けれど、奪ったように見える可能性はある。
そのことを、香織はずっと気にしていた。
帰ってきたのなら、会いたい。
でも、会ってどうするのか。
今さら何を言うのか。
おかえり、と言えばいいのか。
結婚したことを、ごめんと言うのか。
そんな言い方は、むしろ失礼ではないのか。
香織はメッセージアプリを開いた。
千尋とのトーク画面は、ずっと前で止まっていた。年に何度かやり取りはしていたはずなのに、それでも最近の画面は妙に遠く見えた。
入力欄を開く。
指が止まる。
何を書けばいいのか分からない。
『久しぶり』
と打って、消した。
『帰ってきたんだね』
と打って、そのまま眺めた。
それだけでは何か足りない気もしたし、余計なことを付け足せば不自然になる気もした。
スマホを握る手に、少しだけ力が入る。
香織はため息をついて、結局、いちばん無難な文面にした。
『久しぶり。帰ってきたんだね』
送信したあとで、胸が少し苦しくなった。
短すぎたかもしれない。
でも、長く書けなかった。
返事は、思ったより早く来た。
『うん。ちょっと前に』
『バタバタしてて連絡遅くなった』
それは、驚くほど普通の返事だった。
怒っている感じもない。
責める気配もない。
何なら、今までと同じ千尋の返し方だった。
だから余計に、香織は息が詰まった。
もし冷たくされたら、それはそれで分かりやすかったかもしれない。怒ってくれた方が、自分の中の罪悪感に形がつく。でも千尋は怒らなかった。何事もなかったように、自然に返してきた。
その普通さが、かえって苦しかった。
香織はしばらく画面を見つめてから、もう一通打った。
『会える?』
短い。
短いのに、送るまでに時間がかかった。
会いたい。
でも、会いたくない。
会えばきっと、ちゃんと向き合わなければいけない。
千尋の顔を見て、自分がどんな立場にいるのかを思い知るかもしれない。
それでも、会わないままではいたくなかった。
逃げ続けるのは違う気がした。
既読がつく。
香織は思わず画面を見つめた。
返事はまた、すぐに来た。
『会えるよ』
たったそれだけ。
断られなかった。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
けれど同時に、逃げ道もなくなった気がした。
香織はスマホを胸の前で持ったまま、小さく息を吐く。
会うことになる。
千尋と、ちゃんと会う。
その現実が、今さらながら重くのしかかってきた。
場所は喫茶店に決まった。
駅から少し歩いたところにある、昔からある店だ。静かで、長くいても気まずくならない。大学時代にも何度か入ったことがある。落ち着いた木のテーブルと、少し古い椅子。派手さはないけれど、二人で話すにはちょうどいい。
香織がそこを提案すると、千尋はすぐに了解した。
『そこ、懐かしいね』
その一文を見て、香織はようやく少しだけ笑った。
懐かしい、と思う気持ちは同じなのだ。
変わってしまったことはたくさんあるはずなのに、その店の名前ひとつで共有できるものがまだある。それが少しだけうれしくて、少しだけ苦しかった。
日時を決めて、香織はスマホをテーブルに置いた。
ようやく、息を吐いた。
会いたかった。
会いたくなかった。
たぶん、その両方だった。
でも、逃げたままでいたくないと思ったのは、たぶん、親友だったからだ。




