第5話 おかえりなさい
第5話 おかえりなさい
その日の仕事は、最後まで微妙に落ち着かなかった。
忙しいというほどではなかったが、引っ越し初日だと思うと、どうしても頭のどこかがそわそわしていた。朝にはまだ旧居だった場所が、今ごろはもう空になっているはずで、家具や段ボールは新しい部屋へ運び込まれている。仕事をしながらも、何度か時計を見た。
香織からの連絡は昼に一度だけ来た。
順調だよ、という短いメッセージだった。
それに対して僕は、了解、と返した。絵文字も何もつけなかったが、それはいつものことだ。香織もそこを気にするタイプではない。
定時を少し過ぎて会社を出る。
春先の夕方はまだ少し冷える。駅から新居までの道を歩きながら、僕はなんとなくポケットの鍵を指先で確かめた。まだ慣れない金属の感触だった。自分の家の鍵だと言われても、正直あまり実感がない。見学したのはついこの前のような気もするのに、もう引っ越しは終わっている。
道の途中で、コンビニの灯りが目に入った。
何か買って帰るべきか少し迷って、やめた。香織が何か用意しているかもしれないし、引っ越し初日にいきなり弁当というのも味気ない。とはいえ、まともな夕飯を作る余裕なんてあるのかとも思う。結局、手ぶらのまま歩き続けた。
新居のマンションが見えてくる。
昼間に見たときより、夜の方が少しだけよそよそしい。あのときは不動産屋の担当者がいて、香織も隣にいて、どこかイベントの延長みたいな感じがあった。今はもう、そのイベントは終わっていて、ここが生活の場所になっているはずだった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
鏡張りの内壁に、自分の顔が映る。なんとなく疲れている。引っ越し初日に帰宅する夫の顔としては、あまり華やかさがないなと思って少し笑った。
目的の階で降りて、廊下を歩く。
角から二つ目の部屋。
見学のときと同じ場所に立つと、あのときは担当者が鍵を回したのだと思い出した。今は僕が自分の鍵を出す。
少しだけ深呼吸して、錠に差し込んだ。
金属が回る。
扉を開けると、引っ越したばかりの家特有の匂いがした。段ボールの紙の匂いと、新しい部屋の乾いた空気、それに運び込まれた家具や布の匂いが混ざっている。
ただ、すぐに何かが引っかかった。
玄関に靴があった。
香織のものとは違う靴が、一足。
「……ん?」
一瞬だけ立ち止まる。
友達でも来ているのかと思った。引っ越し初日だし、手伝いに来る人がいてもおかしくはない。香織は顔が広いわけではないが、まったく友達がいないわけでもない。そういうこともあるだろう。
でも、妙だった。
百歩譲って、遊びに来ているなら、まだ分かる。けれど、それにしては時間が遅い。引っ越しを手伝ってそのまま、という感じにも見えない。来ているのか、いるのか、その境目が曖昧だった。
僕は靴を脱いで中に上がった。
電気はついている。リビングの方から人の気配がした。女性の声もする。
香織だと思った。
だから、何も考えずに声をかけようとした。
「ただい――」
その声は途中で止まった。
リビングの真ん中に立っていたのは、香織ではなかった。
元カノ千尋だった。
肩のあたりで揺れる髪。少しだけ驚いたような目。それでも逃げずに、まっすぐこちらを見ている。
海外へ行ってから、会っていない。
最後に会ったのがいつだったのか、一瞬では思い出せなかった。なのに顔はすぐに分かった。分かってしまった。
千尋は、ごく自然な声で言った。
「おかえりなさい」
思考が止まった。
いや、本当に、ぴたりと止まった。
元カノが新婚夫婦の新居にいる、という状況がまず意味不明だった。しかも、遊びに来ましたという感じでもない。玄関に立っているだけで、この家の中に当然のように収まっている。その自然さが、いちばん恐ろしかった。
「ちちちち千尋、なななんで?」
自分でもひどい声だと思った。
噛んでいるとか、そういう次元じゃない。単語が壊れていた。けれど、まともな日本語で聞けるほど、頭が追いついていなかった。
千尋は困ったように目を伏せかけ、それでも逃げなかった。
「……久しぶり」
「いや、ちょっと待って、え、なんで」
そこへ、もう一つの足音がした。
寝室の方から香織が出てくる。
そして、こちらもまた、あまりに普通に言った。
「慎也、お帰りなさい」
僕は千尋から香織へ視線を移した。
「香織、どうなってる?」
ようやくそれだけ言えた。
香織は慌てていなかった。
悪びれているわけでもない。かといって、軽く流そうとしている感じでもない。ただ、覚悟を決めた人の顔だった。
「ちゃんと説明するから、まず入って」
「いや、ちょっと待って」
待てるわけがない。
何をどう待てばいいのかも分からない。
「なんで千尋がいるの」
その問いは、たぶんこの場にいる誰よりも、僕自身に向けたものだった。なんで、という言葉しか出てこない。もっと他に聞くべきことがある気もするのに、頭の中が全部その一語に押し流される。
千尋が使っていないあの部屋に一度入ってもどってきた。
ドアを開けたとき、ちらりと見たことのないベッドがみえた。
えっ?
あの部屋、使わないんじゃないの?
なんのベッド?
ちょっと、まって。
何が起きてるの?
香織と千尋がなんでテーブルに並んで座ってるの?
今日引っ越してきたこの部屋が、まるで異世界転生したかのように判断つかない。
千尋は元カノ。なのに、ここにいる。
それがいちばん気味が悪かった。
新居に帰ってきたはずなのに、僕の知らない生活がもう始まっているように見える。
香織は僕を見ている。
千尋も僕を見ている。
僕だけが、そこに入れていない。
意味が分からない。
理解したいのに、理解の入口すら見つからない。
「どうなってる?」
もう一度言った。
それは香織への問いでもあり、千尋への問いでもあり、たぶん、この家そのものへの問いでもあった。
僕はリビングの入口に立ったまま、香織と千尋を交互に見た。
それでも、理解は一歩も進まなかった。




